天国と地獄のギャップ | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



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私や兄弟姉妹そして理解者の夢見ている太陽系の同胞達の社会は
誰もが平等に暮らせる平和な世界です。


そこには戦争も争いも分割もありません。


そして人間関係においても上限関係は存在していません。


彼らは宇宙の法則の従って創造主の意識の元
調和と進化を続けている存在です。


私達人間が創造主の分身としての魂を持っている事を知っている彼らにとって、
他人であっても彼らにしてみれば創造主の分身です。


こんな私達であっても彼らは神の分身として
私達を敬ってくれる事でしょう。


それに対してこの社会は争いと分裂に満ちています。


民族が民族に、宗教が宗教に、時には個人が個人に対して
敵意を向けて生きています。


それどころか時にはそれが戦争や殺人にまで発展する
そんな状況が当たり前なのです。


国家レベルの大量殺戮も
「戦争だから仕方がない」で済まされるのがこの社会。


私達はその事に抗議をすることもありませんし
疑問すら持てないのが一般市民レベルでの意識だと思います。


金星のマスターは、
「地球社会の悲劇は分割してはいけないものを
分割している事だ」と触れても居ました。


ブラザーズの話ではその一つは”国家郡の存在”でした。


元々私達が、古代にどんな生活をしていたかを想像すれば
そこに国家が存在したのは
支配者なる人間が現れた事が原因だった事が判ります。


もしも私達の誰もが他人との関係において平等な意識を持って暮らしていれば
分割意識は起きなかった事にもなるはずです。


支配者や権力者が存在しなければ
誰もが服従すべき相手を持たない事にもなります。


人々を従えたり服従させようと言う人間が出てこなければ、
そして他の人間達がその人間の支配を認めなければ、
この社会の中にも王のような支配者も生まれる事もなかったわけで


結局は私達人間には支配欲や名誉欲、権力欲のようなものがあって
それが他人の上に立つ事で満たされる事がその原因だと思います。


(国家は隠れた王政だという話は繰り返し触れているので削除します)


私達は誰もが自分が他人よりも偉くなりたいと
願っているのだと言う事です。


そして私達は誰もが自分を心地良くして貰うことを
願っているのだと思います。


そして一方では何でも自分のエゴの思い通りにする事が
心地良いのではないでしょうか。


だからこそ他人を服従させ、他人に崇められ褒め称えられ
そして彼らに、自分の心を心地良くするように
振舞われる事を願うのだと思います。


私のような人間が社会の中で
粗末な扱いを受けてもそれは仕方がないと
諦めることになるのでしょうが、


もしも社会的地位と名誉を持った人間が
私のような一般市民の人間が受けるような応対をされれば
きっと不快だと怒り出すことになるでしょう。


恐らくは私達は無意識の内に自分を大きなものとしたいと言う
欲求を持つようになっていて


一方ではそんな自分の心を心地良くしたいと願うエゴが
この社会の中に権力と言うものを作り上げたのだと言えます。


私が良く例として取り上げる話があります。


私達が他人と自分との間に
格差を持つ事になったきっかけを説明する時にです。


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昔、ある漁村がありました。


その村では誰もが魚を取って生計を立てていて、
当初は個人個人が自分の網を持って一人一人で漁業を営んでいましたが


一人の力では網を引くにも力が足りないので
皆が協力して網を張ってはそれを皆で引くことで
共同で漁をするようになったわけです。


その結果一人で漁をしている時よりも多くの網を引き上げることが
できるようになり、張られる網の量も増えて取れる魚の量も増え、


彼らはそれを農家や畜産で生計を立てている人間と交換することで
自分達の食事を得ていました。


そんなある日、その村に一人の男がやってきました。


その男は他の村人よりも力持ちでした。


その人間も一緒に漁をする事になったおかげで
網を引く時間が短くなり更に多くの網を張ることができる様になり
彼らの取る魚の量も一段と増えることになりました。


結果、彼らの暮らしは向上したのです。


しかしある時その男がこんなことを言い出しました。


「この村が豊かになったのは俺のおかげだ。
俺が力持ちだから取れる魚の量も増えてお前らの生活も向上したんだ。


それを考えると俺がお前らよりももっと多く
分け前を受け取る権利がある。
そして今日から俺がお前らのリーダーだ」


それを聞いた村人は、戸惑いながらも
結果的にはそれももっともだと認識しては
その人間に従う事になりました。


その後はその人間をリーダーとして彼らは漁をするようになり
そのリーダーは他の漁師よりも多くの分け前を
与えられる事になりました。。。


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これが何の例えであるかは、
容易に理解して頂けるかと思います。


男は自分の能力が他人の能力よりも優れているから自分は偉いのだと主張し
他の人間がそれを認めた事で
人間関係において”上下関係”が生まれる事になったわけです。


勿論これは例え話ですが、昔の漁師のような仕事であれば、
肉体的な力こそが一番重要な能力となったでしょうし
その能力が一番高かった人間こそが偉いとされたと思います。


そして当時は民族や村同士の争いなどもあったでしょうし
そこでも重視されたのは腕力のはずです。


つまりは「力」が最重要な能力だった事になります。


しかし現代で言えば最重要とされがちなのは
「学校の勉強」と言う事になるかと思います。


学歴重視社会がそれを物語って居るのです。


私達の人間の上下関係や地位はその時代の風潮にあわせて
変貌することになったと思います。


もしもこの社会が音楽で満たされた社会で
それが生活と切って切れない社会であれば
作曲能力を持った人間が偉いとされたかもしれませんし


この社会の中が彫像に満ちていれば
それを作り上げる能力を持った人間が偉いとされたかも知れないわけです。


ただ、この今の社会は学校の勉強に特化されては
その後はその能力を元に試験制度が設けられ
それで人間の上下関係まで作り上げられているのが実態なのです。


しかし私達人間はありとあらゆる能力を備えています。


それは脳に起因するものであっても
学校の勉強だけでは私達の脳機能は測れません。


肉体的には、力という尺度もありますし、運動能力という尺度もあります。


そしてその能力はもちろん個人差があって
誰もが同じものではありません。


天使達の社会では誰もがその能力の差を理解していますし
その能力を他人と競うこともなければ
特定の脳力の秀でた人間が偉いとされる事もないのです。


私達の社会にしても
その時代や職業によって必要とされる能力は異なるでしょうが


その時々で求められている能力が優れている人間こそ
偉いとされて来たのがこの社会の実態だと言えます。


刀を持って戦争をしていた時代であれば、
剣術に長けた人間こそが偉いとされて
王や権力者となっていたかもしれません。


そして学力が優先される事が多い今では
学校の勉強ができる事が偉いとされる基準となっているのです。


そして、そんなものが尺度とされては
人間の間に上下関係が作り上げられている
それが今のこの社会の実態でもあります。


しかし天使達の社会は違います。


彼らは他人の能力と自分の能力に差があることを
当たり前だと認めています。


それは誰もが異なった人生を歩んで異なった経験をして
更には興味の対象となる事も異なるのですから


そこから培うことになる能力には差が出ることを
彼らは理解しているからだと思います。


ある人間は手先が器用で裁縫が得意かもしれませんし
ある人間は力持ちで力仕事が得意かもしれません。


そして誰もが得意と不得意を持っていて
自分も例外ではない事を彼らは知っているのです。


そんな社会の中で彼らはそれぞれが得意の分野を持っていて
社会に奉仕しています。


自分が苦手なことや不慣れなことを無理にやるのではなくて
得意な人間がその分野でその能力を生かせば効率が良いことも
彼らは理解しているからです。


そんな彼らはお互いの力を認めそれを称えあう事にもなります。


そして彼らは自分達の社会を維持するためには
誰かがそれをしなければならないことを知っています。


だからどんな仕事に携わっていようが
誰もが同じように敬られることにもなります。


つまり彼らの社会には、能力や職業の差による
人間の階級のような差別は存在しないのです。


私達の古代の社会では、力こそが能力であったと思いますし、


人格神であればハイテクを持って奇跡を起こして
その能力で民を支配したのだと思います。


他人にない能力を持った人間が、他の人間よりも偉いとされて
その上に立っては他の人間達を支配した。


そんな能力による階級差別がそっくりそのまま
この社会の基礎となっている事が想像できませんか?


更に先ほどの例えの続きです。


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その村にある男がやってきました。


その男は村人が見た事のないような物を持っていて
それを利用しては沖合いで漁をしては効率的に魚を取っていました。


村人達は海岸線に網を張っては魚を取っていたのですが
その人間は”船”と言うものを作り持っていて
それを使用しては沖まで出かけては魚を取り続けていたのです。


海岸線で漁をするよりは沖に出たほうが取れる魚の種類も増しますし
収穫も多かったので、他の村人もそれに同上させて貰う事になり
その村の漁獲量は更に増えて彼らの生活は更に向上しました。


そんな時に彼は言いました。


「皆の暮らしが向上したのは俺が船を提供しているからだ。
俺は皆よりも多く分け前を貰う権利がある」


以前のリーダー含めて、皆は思考しては
「それももっともだ」と思い
その人間に皆の取り分の一部を余分に分け与える事にしました。


結果その村は以前より裕福になり


その村の中ではリーダーとその船の主が


他の村人よりも大きな家を建てては
豊かに暮らすことになりましたとさ。。


ただ豊漁が続いているときには誰も持つ事のなかった不満ですが
後に魚が取れなくなった時には一般村人の懐を直撃し、
蓄財で暮らしていたリーダーと船の主を羨む事になったようです。。。

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と言うことでこれが何を意味するかは
兄弟姉妹と理解者であれば判るかと思いますが


資本家がその資本を提供する事で
その富を受け取る権利を主張している内容です。


船と言う技術が提供されたことで
生活は向上するのですが一方では資本家と
それを持たない者の間にも収穫の差が出ることになります。


今の私達の社会では資本と言う財を提供してくれる人間は
他の労働者よりも多くの富の配分を受け取る権利があることは
言うまでもありません。


他の人間達はその資本のお陰で元手をかけずに
富の配分を受け取る事ができるという事になり


それがゆえに富を出した人間が多くを得ると言うのは
この社会の資本主義のあり方そのものでもあります。


私達の社会ではこれが当然であると考えています。


その理由はまず私達の社会には”所有”という概念があるからです。


私達は自分の物と他人の物と区別してそれを使用するので
時には無駄なものまで持ち続ける事になります。


しかも蓄財と言う形でお金や物を備える事をも当たり前としています。


しかしもちろん太陽系の天使達には
蓄財や所有と言う概念はありません。


元々が彼らの社会にはお金がないからです。


お金の発展は物々交換の便宜として
生まれたものであろう事はこの社会の流れからも想像がつきます。


上の例であれば魚をとった人間はその魚を持って
農家や畜産家の元を訪れては
野菜や肉と交換することになるでしょうが


野菜を提供してくれる人間が魚ではなくて
肉をほしがっているような場合、


漁師は一旦魚を肉と交換して
それをその後農家へと持っていくことになります。


そんな手間を省くためにもお金という金権は
「物品交換権」として利用されたのだと想像できます。


それが交換経済を効率化したことになるのだと思います。


しかしもしもです。


漁師も農家も畜産家もそれぞれが生産物を
皆で平等に分け与えて暮らすような社会を実現していたとすれば
個々の品に所有と言う概念もないわけですから


お金と言う物は存在しなくても良いのです。


自分のとった”魚”自分の物である”魚”を
他人の物である”野菜”や”肉”と交換するという
概念を持っていたからこそ


私達はお金を仲介とすることになりましたが


とったものを皆で分けることを前提としていれば
そこにはお金など必要ないのです。


彼ら太陽系の同胞達の社会は
その構成員が必要とする全ての食料や富を全員で作り上げ、
必要とする人間誰もに分け与えられる事になります。


彼らの社会では明日の食料を心配する必要もないのです。


必要なものは誰もが手に入ることを知っていれば
食料を溜め込むこともありませんし
明日の食事を心配する必要もないわけです。


更には彼らは老後を心配して
蓄財する必要もない事になります。


勿論彼らは若いままの肉体で長い年月を生きるのですし
肉体の衰えとともに転生している可能性も高いので
老後はいずれにしても不要なのだと理解できます。


その上に彼らは元々が誰もが必要以上のものを欲しがらない事を
自分達の戒律としています。


アダムスキーの著書テレパシー入門などにも
その記述があったかと思います。



つまり彼らは物質的なものに捉われる事がないのです。


その上に彼らには”所有”と言う概念もありません。


それぞれの人間には”家”や”家財”なども与えられるそうですが
誰もが必要とするものを無料で手に入れるわけですし
彼らは元素(資源)の無駄もしないようです。


例えばプールが設置してある家があったとすれば、
使用していない時に隣の家の人間がやってきて
それを使用するのはあたりまえ。


つまりは彼らは全てを共有して生きている事になります。


誰かが所有をする事で誰かが使用できないではなくて
誰もそれを必要とすれば使用できる。


彼らの社会はそんな社会であるからこそ
蓄財も所有も必要ないという事になるようです。


一方では所有と言う価値概念が
今では著作権という知識的なものにまで及んでいる私達の社会は
誰もが所有と言う概念にとらわれていて


おまけに老後を暮らすためにも蓄財が必要な環境とされています。


この社会では所有と言う概念が当たり前になっています。

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過去に共産圏の国家が国家運営を失敗したと言う実態があるために


共産社会や所有のない社会が悪であるかのように
看做されている傾向もあります。


しかし共産圏で実地されていたのは真の共産社会ではありません。


天使達の社会には上述の様に
人間同士の間には上下関係はなかったからです。


そして誰もが自分の得意な分野で社会に奉仕することになりましたし
彼らは仕事も楽しみながら効率的に果たせることになります。


義務として望まない仕事を嫌々するのとは
生産性も効率も異なります。


そして共産圏ではチャウシャスク大統領が
自分では私服を肥やして一方国民が貧しい思いをしたような


管理者つきの共同生活が実行されたからこそ
共産的な生き方を失敗したに過ぎません。


私達が誰もが平等な社会を作り上げようとすれば
私達は誰もが同様に社会から便益を受ける社会を作り上げる必要がある。


しかも私達は企業にではなくて、その社会に対して
それぞれの人間が奉仕すると言う形を作り上げなければならない事になります。


今のこの社会はその暮らしの全てが
経済と金融に依存するようになっています。


つまりは私達の常識としてきたものが
実は常識ではありえない社会。


別な言い方をすれば私達は人間関係や
共同生活において進むべき道を誤ってきたことにもなります。


私達の今の常識は過去からの価値観の上に成り立っている。


そしてその価値観が正しいかどうかを
私達は認識する基準を持っては居ないのです。


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彼らの社会の実態では彼らは単に自分の能力を生かして
働くだけでなくて、その多くがロボットのような機械によって
作業をすることになるために

一日あたりの労働時間も短いと言う実態もありました。


誰もが必要以上のものをほしがらない為に
生産量も多くはないのだと思いますが
アダムスキーによれば日々2時間程度の作業で


私達の社会で言えば週休5日制の労働時間ということになります。

誰もに必要とされるものが行き渡るには
それで十分なのではないかと想像できます。


それ以前にこの社会の中との大きな違いは

彼らは恐らくは家具や機会や家なども
頻繁に変えるということもないのだと思います。


つまりは彼らの社会は実用主義です。

この社会であればTVが30年も写り続けて使用できると
電気メーカーが悲鳴をあげることになるかもしれませんが

彼らの社会には不必要な需要は存在しないからです。


きっと家にしても家財にしても風化しないような素材でできていて

更には機械も長い期間使用できるような環境となっていて
余計に製造すべき物も少ないのだと思います。


結果彼らは日々大量の時間を自分の進化のための知識の取得と
娯楽に向けることができるようになります。


そして私達が一番羨んでいるのは
彼ら全部の人間が当たり前に実行している
3ヶ月もの宇宙旅行。


私達の社会の人間は明日を生きるために今日を働いていますし
老後を考えて今を生きねばなりません。


そして朝から晩まで仕事に負われ
その後はボーとして酒でも飲みながらTVでも見ているのが
関の山だと思います。


彼らの社会と私達の社会はそのあり方が根底から違うのです。


彼らは人よりも豪華な暮らしをすることはできませんが
自分のために時間を使い自分を進化させることもできます。


私達の社会と比べるとそれだけでも彼らの社会は天国に見えてはきませんか??


その上に彼らの社会には病気も犯罪も、そして争いごともないのです。


私達が夢見ている社会のその実態が
この地球社会にとっての最大のタブーとなっているのは
この辺にも理由があるのだと思っています。


私のような社会の底辺にいる吹き溜まりにいる人間などは
彼らの社会が天国に見えますし
できるものならこの社会の中でそれを実現したいとも願うからです。


この社会の実態を比べると地球社会と他の社会では
天国と地獄の差があることも判りますし


ましてこの社会ではそんな違いに留まらず
この社会は日々地獄と化していることにも気がついているかと思います。


私や兄弟姉妹や理解者はこの社会の中でこの地獄を体験し
その後にはしっかりと天国を体験することで
そのギャップの差をも体験する事になるのだと思います。


今が苦しくてもその時を夢見て
この地獄を意識ある限り生きてください。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】