信仰と義人 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



今日二つ目の記事です。



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キリスト教関係のスレッドから
目に余る間違った解釈をしている方がいましたので、


それに独自の解釈をつけてみたいと思います。

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506 :リンゴクリスチャン ◆oPXbhrKCUQ

2012/07/19(木) 05:03:50.88 ID:sTmqDA87


聖書には、神の義は主イエスキリストへの信仰によって
だれにでも与えられることが書いてあります。


みことばを読めば理解出来るように、
キリストへの信仰によって神の子供たちが、

今日も世界中で日ごとに増えています。


自分の行いで救われようとするここにいる偽クリスチャンたちは、


みことばから、行いではだれひとり救われないことがわかりはじめたようです。

だから必死で十字架スレを荒らすんだね。(^^)
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まず最初に義人など存在していないと言うことを主張しておきます。


私達は誰もが過ちを犯して生きている存在だからです。


後はその程度の問題となってくるのではないでしょうか。


日々クリスチャンが増えるのはよい事ですが
間違った戒律を持って欲しくないと願います。


私から見れば限りなく正しいことを主張している人間が
偽クリスチャン扱いされて(私と同じ主張ではありませんが)


自称クリスチャンが誤った信仰を元に
それを真理と勘違いして勝ち誇っているように見えました。


聖書の記述を文字通り受け止めると
このような誤りをも正しいと信じることにもなります。


”神の義”とは何でしょうか?


義と言うものが”罪のない状態”を指し示しているのであれば
それは”私達が神の意志に従っている状態”です。


そしてその状態を感じうる手法を
私たちに教えてくれた人間こそがイエスキリストです。


イエスキリストへの信仰と言うよりも
イエスキリストを心底信頼し
その教えを実践してこそ私達は創造主の意識を感じることになる。
(イエスの奥義)


そしてその創造主の意志にかなう行為を実践することで
私達は初めて義となる行動をとることになる。。。


私はそのように解釈しています。


聖書と言うものを神聖化することが間違いとはいいませんが
その中の記述をどのように解釈するかで
私達が実践すべき事が大きく異なってくるのです。


イエスを信仰すれば義とされると信じる人間がいれば、
イエスに伝えれれた奥義を理解して実践することで
創造主の意識を感じる事で義を知ろうとする人もいる。


もちろん12使徒は後者を実践していたわけですが
その詳細が知れれていないために
私達はその大前提を理解できずに聖書を読んでいます。


でも少し考えてみれば誰でもわかりそうなものです。


イエスが伝えたのが創造主の法であれば
それが特定の人間にとっての真理ではなくて
全ての人間にとっての真理であると言うこと。


そしてそれは単にイエスを信じることで
心無い人間までが義とされるような
単純なものではありえません。


新約聖書では”信仰”なる言葉が頻繁に出てきます。


その信仰をどのようなものであると捉えるかで
私達はその求められる行動すら異なることになります。


真の”信仰”とはパウロが触れていたように
御霊から創造主の意識を感じること。


つまりは表に想念を吐き出す行為ではなくて
内なる神の声を聞く行為です。


そのためにも私達はイエスの教えに対する
強い信頼が必要となります。


イエスの伝えるイエスの神の国の奥義を理解して取得し
創造主の意志を感じなければなりません。


しかし既存の教会の言っている”信仰”は


単にイエスを神の子と信じたり、


神やイエスの像や十字架に対して
想念を発するほど強く祈る行為です。


両者はまったく別物なのです。

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このクリスチャンの常識では
どんな悪人でもイエスを信じていれば救われることになります。


そしてどんな立派な人間であってもイエスを信じなければ
救われないことになります。


しかし万人を平等に取り扱ってくれている創造主の方が
そんな不条理な差別をすることはありません。


そしてイエスを信じた特定の人間だけが
特別扱いされるなどと言うこともないのです。


この人間は「行いでは誰一人救われない」と主張しています。


行いで救われないのなら(動機は大切ですが)
一体何が人間の精神の進化を導き
永遠の生へと導くのでしょうか。


新約聖書の中に「ヤコブの手紙」と言うのがあります。


この中でヤコブは「信仰は実践が伴わなければ意味がない」
と取り上げていました。


私達にしてみれば本当の”信仰”とは
創造主の意識を感じてそれを実践するまでの
一連の行為をすべてまとめてだと思いますが、


イエスの奥義を理解できない人間に対して
イエスの教えを理解させようとすれば、


ここでヤコブが触れているように
”信仰と実践”と言う話になるのだと思います。

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また、御言葉を実行する人になりなさい。
自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。


ああ愚かな人よ。
あなたは行いのない信仰が虚しいことを知りたいと思いますか。


人は行いによって義と認められるのであって、
信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
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同じ聖書の言葉ながら、”信仰”を強調するクリスチャンが
このヤコブの言葉を取り上げることはありません。


自分独自の価値観がまず存在していて、


それを正当化することができる記述を
聖書の中から引用しては説明しているのが
このようなクリスチャンの実態ではないでしょうか。


それとも”ヤコブの手紙”は
聖書の一部とは認められないのでしょうか?


イエスの奥義が理解できない方は
(魂を感じることのできない方)

イエスの言葉を理解しそれを実践する事に勤めればよいと思います。


イエスの奥義を使用できない方にとって、
彼らの義への指針となるのはイエスの言葉だからです。


その時大切なのは勿論イエスが聖書で言った言葉


「私を主よ主よと称える者が皆天の御国に入るのではなくて
天におられる私の父の御心を行う物が入る」
という一節です。


このクリスチャンも自分の解釈にとって
都合のよい所ばかりを読んでいて
この一節を知らないとでも言うのでしょうか?


イエスは創造主の御心を行うことこそが大切だと
ここでも触れているのです。


イエスを神聖化するのであれば
余計に聖書のイエスの言葉は重要となるはずです。


この一節を無視することはできないのです。


ここから受け止めることになるイエスの教えの趣旨は、


救いの原点は
私達が創造主の意識にかなった行動をする事にこそあると言うこと。


生命の科学風に言えば、


私達は創造主の意志を魂から感じ
その意志を行動指針として実践し続けることで魂の進化を果たし


この肉体が滅んだ時には、
その時点での魂の成長にふさわしい肉体を得ることのできる場所へと
転生していくということ。


そしてその時、前世の記憶を持った転生を果たせたならば
(他の太陽系は全てそのようですが)


私達は自分の魂の永遠性を知ることになり
イエスの言っていた永遠の生へと進むことになるわけです。


”信仰”という言葉を、
もしもそのまま受け止めるのであれば


聖書のイエスの言葉を解釈するときに
私達にとって大切なのは”信仰”ではなくて


”信仰を実践すること”だと言うことになると思います。


オカルトなしに論理的に考えても、
私の説明で十分に理解を求めることができると思うのですが


残念ながら誤った価値観を強く脳に刻み込んでしまった人間は
自分の間違いに気がつくこともないかもしれませんし、


間違いに気がついてそれを認めることは
心が不快に感じる行為なので、


素直にそれが実践できる方でなければ
思想を変えることはできないのでしょうね。


イエスの言っていた
「子供のような純粋な心でなければ神の国にはいけない」

と言うのは


イエスキリストの教えを受け入れるときの
心構えだと思います。


地味で知られていないようですが
”ヤコブの手紙”は是非繰り返し読んで見て欲しいです。


(一番最後のほうに???のところがありますが
それ以外は生命の科学抜きにも理解できると思います)


【地球人の苦悩を光の前の暗黒の様に消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべとしよう】


信じるものが救われるのでもなく
特定の血が救われるのでもなく


法則の適用を受けるのは私達一人一人が
死んだ時点における魂の状態であるということを


多くの方に理解して頂きたいと思います。

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P.S.

外部からの操作で脳機能や感情まで
制御されていますし


私もそろそろ好い加減にどうにかしなければならない時が
来ていると思います。


でも自殺するわけにも行かず
最悪の時にのみそれを考えることになるのでしょうね。
(誘導する人間もいるかもしれませんが
おそらくは私は自分の役目は果たしたと思いますので。)


何事も体験であると言いますが
こんな社会でのここまでのすさまじい体験を
再び繰り返したいとは思いませんし


こんな体験をすることは
この広い宇宙空間でも滅多にはないと思います。


こんなにも心のすさんだ社会が
宇宙空間のあちこちに存在しているわけがないのです。


ある意味とても貴重な体験だと言えるかもしれません。


しかし被害者であれば、誰もが言うであろう本音は
できるものなら二度とこんな思いはしたくはないと言うことです。


”魂磨き”の話を知ってある意味激怒しそうでした。


そんな行為をしている自分達の素行を省みることなく
他人を悪に仕立て上げてその重箱の隅をつつくように
人間の欠点を粗探しては叩き続ける。


他人の心の痛みなどわからないでしょうし
大体が攻撃動機自体が嘘や捏造なのですから
究極の冤罪による罪を償わされ続けているようなものです。


魂磨きなどされなくても進化するものは進化しますし、
私は最初のきっかけ(付きまといに自覚したとき)以外
組織的犯罪は今の自分には何の役も立っていないと思います。


私は昨年、自分がどうすれば次の段階に進めるかは
ある程度想像できていました。


脳への関与がひどくならなければ
おそらくは自分の予想通りの魂の進化も
できていたことと想像しています。


しかしそれを意図的に妨害する意志を持って
脳への攻撃が激化され、しかもその名目が魂磨きです。


心無い人間にしてみれば
全ての行動が正当化されますし
被害者はいつまでたっても心が安らぐこともありません。


更に、発覚した電磁波攻撃の本当の目的の一つは
遺伝子に対する人体実験でした。


電磁波といっても放射線です、
時にはもっと危険な放射線をも照射されることもありました。


その状態で癌になっていないのが不思議なぐらいですし
遺伝子にどんな変異があってもおかしくないと想像しています。


”宇宙の法則”の理解者にしてみれば
現実の肉体の遺伝子の進化など
取るに足らないものであるはずです。


遺伝子がつかさどっている肉体は
永遠ではなくて仮の肉体であり


私達の真の進化は遺伝子の変異ではなくて
魂の進化によって導かれるものだからです。


遺伝子は三次元における
過去から今までの記憶の蓄積にしか過ぎないからです。


遺伝子の改良で1000歳生きる事ができるようになっても
その間に魂を腐らせていれば
いずれはその魂は消える羽目になりますし


80歳しか生きることができなくても、
その間に覚醒すればその後は永遠の生が待っている。


そしてその生には記憶の分断はないそうです。


私は今の状況でこの社会が長寿になれば
更なる地獄へと変貌する可能性をも感じています。


長寿と言うことで生き急ぐ人間が減っても
人間の欲やエゴに代わりがなければ


時の経過はそのまま魂の濁りを増すことにしか
役立たないからです。


つまり私達は精神と科学を並行して進化させなければ
いつまでたっても幸せな社会を作り上げることはできないと言うこと。


この両者のアンバランスが混乱や戦争を引き起こす
原因にもなっているのだと思います。


例えば、原子力を地球社会が使用しているのは
子供が手榴弾を手にしているようなものだと思います。


(軍事利用している間はハイテクも人間にとっては
悪徳に過ぎないと言うことです)