最大の戒め | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


今日一つ目の記事です。


本当は私が自分の言葉で語ってみたかった内容を
私達の心の師であるアダムスキーが
遥かに詳しく巧みに語っていたものを


藤原忍さんが著書 
”宇宙からの使者”の中で取り上げているので
紹介します。


魂=精神への経路が遠くなっている私が
解説するなどおこがましいので
内容を紹介するに留めます。


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1930年代に書かれたもので


ブラザーズとの正式コンタクト前であり
生命の科学を学ぶ前の論述です。


冒頭でキリスト教に関して批判的な話が出ていますが
もちろんこれは既存の全ての宗教や思想に置き換えて
受けとめて下さい。


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最大の戒め


ジョージ・アダムスキー


「そこでこの戒めを授けることにする。汝ら互いに愛し合え」


こう救世主は告げ、これまででも最大の戒めがこの世にもたらされた。


それは調和の法則だった。


この二千年の間、キリスト教の信者は自らその戒めに従って
生きていると豪語している。


なんと盲目でおろかなる者達だろう。


”宇宙”のあの最高原理が
今日の軋轢、病、苦悩、デマの世界を齎したりするだろうか。


愛とは万物を一体化するパワーではないか。


調和や理解を齎す要素ではないか。


そこで我々は実際にはその”愛”の法則に従って
生きているとは言えないことになる。


あらゆる戒めの中でもこの最大の物は
少しも理解されていないがために、また少しも応用されてもいないのだ。


愛は善も悪も知らない。


愛は一方を他方より良いと見ることはしない。


愛は自ら与えるものへ報酬を求めたりはせず
ただ奉仕するだけである。


それが愛のありのままの姿だからだ。


あなたが勇気をもって自己を正直に分析するならば
自分にこうしたものがあると言えるだろうか。


名声を望むことでも、他人から認められることでも
また、心の中で自分が得を積んだ人間であると感じることですら
今日、ある程度の自己満足を望まない者はこの世にいない。


好き嫌いの殆どない者もいなければ、
報いを求めず働くものもいない。


今日の世界は利己主義の法則を生きており
これが真実を覆う混乱の雲を発生させるのである。


我々は真実の自我を幽閉し、つまらぬエゴ、すなわち個性を
高めようとしてきた。


必滅の心は絶えず己のために働き、
自分のものでない所有物に利己的に固執している。

しかしそれらは、”宇宙”からの借り物にすぎない。


必滅の心はそうした物を自己満足に利用しているが
それらを管理するもの以上のものではない。


人間は欲望と恐怖に満ちているが他の人々へ奉仕するため
己の利己的な野心を滅しうる者は平安を見出す。


利己主義は癌のように進行して体の髄を蝕み
激痛を引き起こす。


苦痛をもたらすのは常に利己的な行為なのである。


時としてあなたは喜びに満たされすぎて
その喜びを他の人々と分かち合わなければならない。


他の人々にも奉仕し与えねばならない、と感じたことがあるはずだ。


それはあなたの内なるフィーリングがとても偉大で
そのフィーリングを保持できないほど
肉体が小さく見えたからに過ぎない。


与えることは非利己的であり、出し惜しみは利己的といえる。


非利己的な状態を一般人が理解するのは困難である。


我々は常にどの行為にも報酬を求めてきた。


つまり到達すべき一定のゴールに目をむけ、
名声のため努力するよう教えられてきたが

行為がそれ自体の報酬となっている。


行為は決して止むものではなく
永遠には始まりも終わりもない。


人間が生命の目的を深く理解しなければ
名声から永遠の生命を得たためしは殆どないのだ。


我々は”大いなる戒め”の信奉者だと豪語しているが
たいていの場合は与えられたどの知識も誤用し


それらを自分を一際際立った物にしようと
自我のために利用してきた。


知恵ある大師はこう言った。


「他より上になろうとするものは無視され
自ら謙虚になる者が高位につく」


自分は何でも知っていると思い込んでいる者は
賢明ではない。


何でも知っていると思い込んでいるがゆえに
学べる経路を塞いでしまうからである。


個性は永久に自己が注目されそうな新たな道を
得ようとしていくだろうが


このような自意識こそが存在する最大の障壁となるのだ。


個性は自らをその自意識の状態から
解き放ってこそ、初めて真の平安を知ることができるのである。


ありとあらゆる軋轢や緊張は、自意識による
利己主義が生むものなのだ。


人を”宇宙”のハート、すなわち愛の目的へ導くのは
完全なるリラクゼージョンなのである。


分裂や非難の観念、あるいは自他についての
善悪観がいくらかでも存在する限り
リラクゼージョンは生まれ得ない。


我々はハートからやってくる印象や宇宙的フィーリングからくる印象に
従うことを学ばなければならない。


見返りを当てにせず、奉仕することを学ばなければならない。


ここにおいて境界線なる物がはっきりと引かれることになる。


人は活動を続けねばならないため、我々の”創造主”は
一瞬たりともその活動を停止するわけにはいかない。


ゆえに誰もが自我を超えた恩義を負っている。


ところが、いかなる名誉も受けるに足る者はいない。


自ら進んでは何もしないからだ。


人間が存在することですら
その元になっているのは”宇宙の英知”である。


大宇宙には無数の経路を通じて現れている
唯一の”英知”が存在するだけだが、
”英知”自体は分割されてはいない。


従ってこのような経路はいかなる方法によっても
自らを他と分割したものとして
見ることは出来ない。


我々は”創造”計画全体の基幹部分に集結した
奉仕や活動の”点”である。


我々はみな一体なのだ。


なぜ個性は自己の永続性を促進しようと
躍起になるのだろう。


「自分の生命を救おうとする者はそれを失い
私のために自分の生命を捨てるものはそれを見出すだろう」

とキリストは言わなかっただろうか。


これはキリストの口先だけの言葉ではなく
”創造の父との一体化”による悟りであった。


すると結局は失うことになる必滅の生命に
なぜそれほど執拗に固執するのだろう。


こうした利己的な個性を捨て去ることが出来る者こそ
”万物と一体化”し滅ぶことのない永遠の命を
見出せるのである。


イエスはペテロに剣を捨てるよう忠告した。

剣で滅ぼすものは剣で滅びることになるからだ。


利己主義はまったくの武器と言える。

その個人は必滅の生命を守ろうとして
利己主義と強欲とを用いるが
やがてこの武器はその使い手をも滅ぼしてしまうのである。


天国や地上に存在するあらゆるものを
非難する権限を持てるほど高位にある者は居ない。


”好き嫌い”は噛み合った二つの大きな歯車のようなもので
人間をその間で粉々に砕いてしまう。


分裂に関与する者は摩擦しか知ることがないだろう。


また摩擦とは破滅の要素なのだ。


あなたは一方を愛して他方を憎み
しかも自分が愛において完全であると看做す事は出来ない。


また、利己的な個人的欲望を抱き、
しかも宇宙普遍の意識の中で生きることは出来ない。


宇宙的に生きる人は絶えず”因”を自覚した状態にある。


その人は、ある信条においてたった一人になり
世の中の残りの者全員が自分に反対したとしても
彼には問題にならないだろう。


彼は疑惑や恐怖が存在するのを知ることはないだろう。

非個人的な人は自分の思想、言葉、行為を
決定的なものとみなしたりはしない。


また、成し遂げた事は、
個人のものとか個人の功績とはせず、


全宇宙から分離し得ない自分自身の表現そのものに
過ぎないと考える。


彼らの中には優れているとか
劣っていると言う感覚は存在しない。


仲間よりも有能に見せようと言う気もなければ
有能さを見せまいとする考えから小さくなることもない。


彼は世の中に奉仕するため自己を捧げるのであり
名声や幸運を望むためでも賞賛を望むためでもない。


その奉仕のフィーリングが自分自身の一部となっており
自分であるそれを与えずには居られないからである。


スポーツの分野でスタンドプレーをする者は
大衆の歓声を長く浴びることはない。


その者はスポーツマンらしくないと軽蔑される。


ところが今日、世の中のあらゆる個人は
それとかわらなぬ事をやっているのだ。

つまりスタンドプレーを


”人生”というゲームの中で大衆の賛同を求め
傑出したプレーヤーである自分の方へ注目を集めようと躍起になっている。


全人類の中で最も偉大で謙虚な方の教えから
まったく我々は何を得たのだろう。


その声はさまざまな時代を駆け抜けてきた。


「あなた方の中で最も偉大となる者こそ僕(しもべ)とせよ」


どれだけのものが自らを僕として認めようとするだろう。


征服や不遜は個性が真っ先に望むものだが
非利己的な奉仕こそ”父”を主として象徴するものであり
”調和の法則”の基盤なのである。


宇宙の真理においては
必滅の自我が想い描いた偉大さなど
灰の山に過ぎないのだ。


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覚醒者と生命の科学の理解者は
とても身にしみて感じるものがあったかと思います。


これを読んで感じるものがあった方は
資質のある方、魂への経路がまだ残っている方だと思います。