幸せという名の幻想 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

今日は早々と池袋に広報に行くことにします。


脳への攻撃が激化しそうですし
同じやられるなら広報したほうがましだからです。


眉間とか顔への関与が続いているので
サングラスをかけていると思います。


もしも私が傀儡たちに倒されたら笑ってやってください。


でも広報は続けてほしいです。


今日は家の周辺も妙に静かですし
なにやら作戦は進行中だと思います


それは日本レベルの話でです。


私のせいで”偶然”が発生したら勘弁してください。


身近なユダヤ工作員達の脳破壊工作に
耐え切らないと言うのも正直なところなのです。



今日は地震含めてHAARPの関与には
警戒してください。


私を外に出したい人間もいるようですし
先日のエネルギーは未だ全てが使用されたわけではないと
思うからです。


今日は熱中症警戒が必要な様で
早々と体温上昇の関与も始まっています。


右脳機能が低下させられているのか、
精神を感じにくくされていますし


その上で思考能力も落とされているので
記事を書くのも一苦労です。


最近は黙っていられないくらい
強い照射を延々と脳へ対して受けることが増えています。


異物は常に腸に確保された状態になるように
私が下剤を飲んでトイレに駆け込んでも
その時には既に次の薬品を吸わされているようです。


眉間に巧みに肉をつけられ?
今も顔への関与が続いています。



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黙示録の話を私が取り上げない理由があります。


一つにはその信憑性です。


黙示録は元々が聖書の外伝であり
それが本当にヨハネによって伝えられたものだと言う
確信がもてません。


例えば旧約聖書の選民思想である
イスラエルの12支族の中から救われる人間が出てくるという
記述もありますし、


イエスキリストの教えとは
異なった内容が含まれています。


イエスや12使徒が選民思想を否定していたことは
新約聖書の記述からも明らかです。


それとは矛盾するような記述はおかしいのではないかと言うのが一つ。


(もしかしたら、ブラザーズがヨハネに見せた可能性がありますが
それでも選民思想は矛盾しています)


もう一つは、黙示録の内容が
人々に混乱を齎すためにこそ引用されているからです。


イエスの奥義を理解して私達の本来あるべき
生き方を自覚している方であれば


極端な話を言えば文明が崩壊しようとも
地球が崩壊しようとも

平常心をある程度は保つことができると思います。


しかしそうではなくて、心ばかりを意識しては
その暴走に従っている人たちにとっては
黙示録は破滅の予言に他なりません。


そんな印象を与えることが人々の不安を
煽ることにも繋がります。


更に、困ったことにイエスや使徒の正しい教えを
理解していない状態で黙示録の記述を参照すると
それに誘導され、


自らが選民だという思想を持った人間は
破滅を希望する事になるかもしれませんし、


その時にこそ天国にいけると言う誤った意識を
持つ人間も出てくると思います。。


でも私達にとっての本当の最後の審判は
一人一人がこの生での肉体を滅ぼす時に与えられるものであり


黙示録のような社会が来た時に起きるのは
この地球社会の浄化や再生である可能性が高いと思います。


そしてそれは人為的に引き起こされたり
人為的に抑えられるものであってはいけないと思います。


全てはすでに出来上がっている
創造主の法則に抵触する状況ができあがっている事に
起因していると思いますし、私達はそれに従うべきだからです。


無理やり破滅を導こうとしたり
科学でそれを止めようとする行為は
創造主に挑戦しているようなものではないでしょうか。


発生することになれば
それにあわせて私達の思考や肉体にも変化がおきることになりますし


私達と自然環境は
それぞれが独立して存在しているわけではないはずです。


文明の混乱や崩壊を避けるためにも
私達覚醒者は、人としてあるべき生き方を
真理として伝えていかなければならない。


私はそう思います。


最近は真の覚醒者が増えている気配を
あちこちから感じています。


一方洗脳されて潰されて行っている人間も
同様に大勢いるようです。


ユダヤメーソン傀儡たちに無理やり脳を壊されたり
洗脳された人たちに恩寵の法則が働きますように。


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ツイッターで取り上げた
幸せに関しての記述です。


殆どそのままの状態で記事とします。

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私達は誰もが幸せを願って暮らしていると思います。


ただ、幸せと言っても人によってその形は異なるものですし
家族平和が幸せだと感じる人がいれば
望みが叶うことが幸せだと感じる人もいます。


お金が沢山手に入ることが幸せだと感じる人もいるでしょう。


では私達はどんな意識の時に幸せを認識しているのでしょうか。


私たちが感じる幸福感は、
私達のエゴでもあり、四つの感覚器官と触覚の作り上げた
価値観でもある心の動きと無関係ではありません。


私達は心が心地良い状態になっている事を認識して
その時に幸福感を感じるのだと思います。


つまり、私たちにとっての幸福感は心の価値観を満たしてやること。


それは心のエゴと欲求を満たし心を心地良くしてやる事だと思います。


そして、その人間の心の価値観によって
心が幸福と受け止める事象も異なる事になりますし


ある人にとっては幸福なことが
他の人にはそうではない事にもなります。


家族平和を幸福と感じる方は
六畳二間のアパートで一家四人暮らしていても


その家族団欒のときにささやかな食事を食べてる時でも
幸福感を感じることができるでしょうが


豪邸でご馳走を食べていることが幸せな方には
その風景は不幸にしか見えないと思います。


東大受験を目指していた人間が
一ツ橋に合格しても喜ぶことはできないでしょうが


当初都立大学を目指していた人間が
一ツ橋に合格すれば幸福感を感じることになります。


そして幸福と言うものには
もちろん具体的な基準は存在してはいません。


それは個々の人間のその時に持っている
心のエゴの価値観によって左右されるものだからです。。


そして困ったことにその心の価値観と言うものは

どんどん変貌する上に、放置しておくと
どんどんと望みが高くなるものでもあります。


他人と比べても充分にお金を持っているように見える人間でも
その状態が続きそれに慣れてしまうと
更なるお金がほしくなるかもしれません。


高級外車が買えたことに幸福感を感じていた人間が
自家用ジェット機を欲しくなる。。。
それが手に入ることが幸福だと望むようになる。。


そんな事だってありえるわけです。


そしてその願いが叶えば
その時に一時的に幸福感を感じることになるのだと思います。


でもそんな人間にとっては幸福感は長く続くことはありませんし
いつまで経っても真の幸福を感じる事は出来ないと思います。


その人間は心のエゴが満たされた事にだけ
一時的に心地良さを感じているだけだから。。


そして私達の心の欲は限りないものだからです。


私達の心と言われているものは
一つには本能と欲求とエゴの塊であると言うこと


そして諸感覚器官の好き嫌いで成り立っていることを
私達は理解すべきなのです。


それを理解してそれを制御しない限り
欲望は果てしなく大きくなりますし


そのために私達はいつまで経っても真の幸福感を
感じることができないからです。


目や鼻や耳や口が好むものを
私達は高く評価しそしてそれを求める傾向があります。


そのとき私達はその諸器官で対象物を好き嫌いで
区別しているようです。


そんな諸器官の好みと脳の元々持っているエゴと本能、

そして外部から受け止める情報や価値観が
私達の心の価値観を脳で形成していく。


その脳の価値観が満たされたり
脳が心地良いと思う事をする時にこそ


私達は自らが幸福感だと考えている物を
感じることになるのだと思います。


一時的な幸福感を考えて見ます。


ギャンブル経験のある方であれば
たとえば馬券を当てたときやパチンコで大当たりした時に
それとよく似た体験をするのかもしれません。


それは幸福と言うよりは
ドーパミンやセロトニンと言った脳内物質の影響による
一時的な快楽・興奮症状です。


でも長い目で見ていると、私達が幸福感を感じるのは
得てしてそんな脳内物質が分泌され満たされている気分に
なっている時ではないでしょうか。


つまりは私達の幸福感の一つは脳が心のエゴに照らした時に
一定条件を満たした状態の時に作りあげている
一時的な幻想でもあるのです。


そしてその幸福を感じる要素にしてみても
低い意識のものから高い意識のものまで存在していて


それを決定付けているのは
私達の意識として感じている、個々の人間の
心の価値観に過ぎないのです。


この社会は物質社会だと言われます。


物で溢れていて最近ではそんな品物を購入することが
私達の日常生活の中での幸せの一つになっていると思います。


家電に囲まれて、お気に入りのコレクションに囲まれて
そんな時に幸福感を感じている方もいると思います。


とすれば当然それを購入できる事が一つの”幸せ”にもなるでしょう。


そしてそれを実現するためには
お金を沢山手に入れることも大切になります。


つまり私達の暮らしの中ではお金を手に入れることが
私達の幸せの大半を占める事にもなりかねないわけです。


良い大学に入り一流企業に就職をする。


資格を取って高給取りになってお金を稼ぐ。


立派な家を建ててマイカーを持って暮らす。


このような事が幸せと感じてしまうのは
今の社会風潮と照らせば当たり前の事なのだと思います。。


それは私達が生まれ育ってきた環境が
そんな価値観を私達に植え付け続けてきたからですし
私達の心の価値観がそこから抜けきれないからでもあります。


そして間違いなく私も以前はそれと同じ価値観を持って
生きていた人間なのです。


私達が自分の幸せと感じている事の多くが
お金や自らの欲求に根ざしていると言うことを
私達は先ずは認識すべきです。


普段、食にさえあり付けない立場の人間であれば
三食食べることができる事を幸せだと
感じることもできると思います。


ただその場合でも忘れてはいけないのは
欲を出せばきりがないと言うこと。


食材もピンからキリまで存在していますし


物もピンからキリまで売っていますし


自分よりも豊かな暮らしをしている人間は大勢います。


自分よりも特定技術の才能をもっている人間も大勢いるでしょうし


他人と比較したり上を見れば切がないのが
今のこの不平等社会なのです。


決してその中で豊かになろうと努力する事が
いけないとはいいません。


ただ、私達はこの環境の中でその目的に執着し
心の価値観を歪めていく傾向が強いのが問題なのだと思います。


そして現状に満足できない人間は
いつまで経っても幸福感を継続する状態には
成り得ないと言うこと。


そして本来私達が目的とすべきは
この社会の中での物質的な豊かさを追求することではなくて

精神的な豊かさを追求する事であると言うことです。


魂が豊かになれば、例え傍目に貧乏でも幸福感は感じる事ができますが
心の欲に囚われれば傍目には幸せそうに見えても
いつまで経ってもその心は満たされる事はないからです。


魂=精神の存在を理解できず、

心を使用して目に見えるものばかりに囚われて、


物質に囚われて、それを所有したいと願うから
私達の社会は苦悩を作り上げているのだと思います。


【地球人の苦悩を光の前の暗黒のように消し去るために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】


私達の苦悩は心に囚われることで生じています。


その事を一人でも多くの方が
気がついてくれますように。