普遍的真理 VOL11 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

頭の回転がどんどんと悪くなり
部屋の中で生命の科学を語ることも
できなくなりました。


仕方がないのでアダムスキーの本を読んで
解説していますが、それでも言語障害を引き起こされたり
思考妨害が続いて太刀打ちできなくなってきました。


理解継承者も見つかりませんし
時間経過と共に汚染され壊されていく自分の思考を
持て余しているのが今の現状です。


地球の法則の傀儡達はあまりにも姑息です。


P.M12:39

件の工作員の関係者と大家関係者は
マイクロ波主流になって張り切っているようにも思えます。


熱を利用すれば病院送りにしやすいからでしょうか。



インターネットに繋げると
真下から激しい磁力を感じては
そのたびにネット環境が悪くなります。


また警察でも呼んであげたいのですが
どうせまともには取り扱ってもらえないでしょうね。


それに以前同様、下の部屋には居留守を使われるのが
せきの山かと想像しています。


このコメントを書いていると
朝から件の工作員らしき人間が
真下の部屋で暴れています。


(何か叩いているのかガンガンと音がするのです)


朝からマイクロ波も強くなってきました。


マイクロ波は夏場には当たり前の様に
使用され続けるようですし


発熱、体の火照り、体の浮腫み、等にも
利用するようです。


貧血も頻繁に起きます。


昨日から脳への関与が最悪になってきています。


頭が壊されそうな勢いです。


起きている時から頭が割れんばかりの痛みもありますし
寝ているときも同様のようで


意識は下がる一方で、どうやら現実へと
(目で見える現実と言うこと)
私の意識を無理やりにでも誘導したいようです。


物理的に考えれば右脳への影響や旧皮質への影響でしょうか。


おそらくは多くの被害者が
無自覚の内に意識誘導をされ続けては
本来持つべき思考とかけ離れさせられているのではないでしょうか。


異物の製造は相変わらずです。
みぞおち辺りに異物まみれのものを付着させてきます。


そしてそれと併せての排泄妨害も始まっています。


今は理解者探しもしてますし
血糖値低下を恐れて食事はしてますが、


それでも思考能力低下や脳への影響は
止められないようです。


誰にも私の世界は変えられない。


誰にも私の意識は変えられない。


心ばかりを使用して生きている人間にしてみれば
物理的な脳機能こそが意識すべてでしょうし


それを変えてしまえば私の意志をも
変えられると言う予定でしょうが


中にはそうではない人間もいると言うことを
いい加減に理解できないものでしょうか。

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そう言えば私が少数精鋭宣言をして、
当初の多くの方に理解を受ける記事内容を変更し


資質のある方や覚醒者・理解者を意識して
記事を書くようになってから時間が随分と経ちました。


一時に比べて勿論閲覧も減っているようですが
それでも以前、強力な理解者は大勢いると思います。


そして時間経過に伴い
将来的には私の理解者となり得る人も
おそらくは少なくないと思います。


被害者に限定して触れれば
「最後には私のブログに辿り着く」
という話をしていた被害者もいましたが、


目の前の激しい被害に遭っている方は
どうしても現実と言われている物に囚われてしまいますし
その結果、この社会の全ての実態を認識できなくなりがちです。


どうしても視線が偏ってしまうのです。


でも当初は私も同じでした。


今から考えてみれば保守活動に一番最初に顔を出して
被害者としての主張をしたのは私だったと思います。


ネット右翼と言われている著名人達の集会
(瀬戸さん、西村さん、桜井さん)に出るようになり


当初は公の場で集団ストーカー被害者であることを告げて
その上で質問をしたこともありました。


公の場の会合で集団ストーカー被害者であることを宣言したのも
もしかしたら私だったのかもしれません。


その後次々と被害者が保守活動に増えてきて


私はその後暫くはそんな人達と共に
愛国活動、保守活動と言われるような活動に
参加し続けていたのです。


個人的には博士やヨーメンさんにも面識があります。


被害者活動や被害者組織にも参加していましたし
被害の実態にも工作の実態にも気がつきました。


ただ、保守活動の限界を感じたことと
そして裏の社会の実態に気がついたときに


自分だけではなく
被害者のためにもこの社会のためにも


もっと別の方法こそが良いのだと
考えるようになりました。


ただ、長い目で見ていると色々と見えることもありますし
私はこの社会の裏側に気がつきすぎてしまった人間でもあるようです。


そして自分として一番効果的な方法を考え実行した。。


現実社会では裏の勢力が考えていた以上に強力で
それに立ち向かうには力が足りなすぎたわけですが、
私の向いている方向は決して間違ってはいないと思います。


私の主張を今理解できない方であっても
おそらくはこのまま数年被害を受け続けることになれば
嫌でも理解できるようになる。


私はそんな想像をしています。


組織的犯罪が、時には日本国内での覇権争いにも
利用されていることを知り
その裏の実態にも気がつくことになる。


精神的な話が理解できなくても
そこまでは多くの賢明な被害者は
嫌でも辿り着くことになると思います。


闇政府の常套手段はスパイを張りめぐらせること。


そして二つの主流を作り上げその両方を
使用して人々を誘導すること。
(どちらが勝っても闇政府の勝ちです)


そしてそんな人間達には情報も入れば
人的支援もあれば協力者も多い。


そのことを理解するだけでも
この社会の中の地球の法則への遵法者を
見極めることが出来ると思います。


私達の本当の脅威は目先の加害者だけではないのです。


更に考えるべきは、
彼らに科学力や心理学知識を与えた人間は誰なのか?


彼らの行為を放置し続けている人間は誰なのか?


と言うことです。


人を騙したければその人間が受け入れるであろう価値観を
表現し主張すればよい。


簡単な心理誘導です。


私もその気になれば被害者受けを狙った記事を書いて
現実的な人間をも理解者にすることも出来ると思います。


でもそこには真理はないのです。
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覚醒者が一番その力を見せるであろう場面は
大衆洗脳や個人的洗脳を受けたときの抵抗力だと思います。


つまりは脳を弄られても
心だけを意識して生きているわけでないために
100%意識をコントロールされることはないと言うことです。


私達は自分達の実態である精神を感じることが出来る人間
もしくはそれを感じようと努力している人間です。


地球環境がどう変わろうが
私達の精神を感じている意識を変えることは出来ない。


それを自らの強みと考えて欲しいです。


誰も私達の世界を変えられない。。


真理を見つめている私達を
変えることが出来る人間はいないのです。


そして思い出して欲しいもう一つの事は


「肉体を滅ぼすことが出来るものではなくて
魂を滅ぼすことが出来るものを恐れよ」


と言うイエスキリストの言葉です。


武力や圧力や科学力を含めて
人体への関与や精神的圧力を与え続けたとして、


彼らは私達を殺すことが出来ても
私達覚醒者の魂を滅ぼすことは出来ないと言うこと。


人工想念(電磁波)に精神(神の意志)で
立ち向かって行って欲しいと思います。

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ローマ人の手紙六章

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それでは、どういう事になりますか。
恵みが増し加わるために、
私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。


絶対にそんなことはありません。
罪に対して死んだ私たちが、どうして、
尚もその中に生きていられるでしょう。


それとも、貴方がたは知らないのですか。
キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちは皆、
その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。


私達は、キリストの死にあずかるバプテスマによって、
キリストとともに葬られたのです。

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パウロがここでは、
イエスを十字架に貼り付けた原因でもある
当時の人々の従っていた戒律なるものと、


それによって作り上げられる罪の意識、


そしてそれを作り上げ価値観としている私たちの”心”が
”死んだ”と述べていると解釈すべきだと思います。


そして彼らがイエスキリストから授けられたのは
心を殺し、魂(精神)を蘇らせるバプテスマ、


すなわち真の信仰である
イエスの奥義を利用し神の意識を感じる手段であり、


もっと言えば魂の覚醒、
そして啓示であると言うことだと思います。


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それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から蘇られたように、
私達も、命にあって新しい歩みをするためです。


もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、
キリストの死と同じようになっているのなら、
必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

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イエスが神への信仰、
すなわち神の意志の実践により転生し新しい生を獲たように
(ここに関しては”入れ替わりの法則”の記事を読んでみてください)


使徒や信者も神の意識を感じることで
新しい生を送ると言う意味に解釈すべきだと思います。


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私達の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪の体が滅びて、私達がもはやこれからは
罪の奴隷でなくなるためであることを、私達は知っています。


死んでしまった者は、罪から解放されているのです。


もし私達がキリストと共に死んだのであれば、
キリストと共に生きる事にもなる、と信じます。


キリストは死者の中から蘇っても、もはや死ぬことはなく、
死はもはやキリストを支配しないことを、私達は知っています。


なぜなら、キリストが死なれたのは、
ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、
神に対して生きておられるのだからです。


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死んでしまった者は罪から開放される。。。


これは戒律成るものは肉体を持って、心を持って
それを守って生きている人間を”罪”で拘束するものであり、


肉体が死んだ者、心の価値観であった戒律から開放された者は、
罪からも開放されていると言う意味ではないでしょうか。


この辺もイエスを神聖化していますが、
当時のヘブライ社会がユダヤ教と戒律によって
支配されていた事を考えると


既存の価値概念をひっくり返すためには
イエスをある程度神聖化する必要があったと言うことも
私達は理解すべきだと思います。


イエスは人間が心を持って作り上げた戒律と
それによって作り上げられる罪に拠って死んだ(殺されましたが
イエスは逃げれたのに逃げなかったのです)わけですが、


イエスを神聖化することで人間が作り上げた罪なる概念が
誤りであると言う事を私達に実感させ、


そして神を信仰していた、
神の意志を実践していたイエスが生きていると言う事で


大切なのは神の意志を感じ実践することであると
パウロは誘導したかったのではないでしょうか。

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このように、貴方がたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、
神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。


ですから、貴方がたの死ぬべき体を罪の支配にゆだねて、
その情欲に従ってはいけません。


また、貴方がたの手足を不義の器として罪に捧げてはいけません。


むしろ、死者の中から生かされた者として、
貴方がた自身とその手足を義の器として神に捧げなさい。


というのは、罪は貴方がたを支配することがないからです。
なぜなら、貴方がたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。


それではどうなのでしょう。
私達は、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、
ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
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心に従う人間はその価値観に従うことになる。。。


その価値観が戒律を絶対として生きることであり
その戒律が限定列挙なのだから、


戒律では罪とされなくても神の意志としては誤りであることを
私達はしてしまうこともあり得るし、


決められた法律だけを守れば良いと言う誤った価値観にも
囚われる事になります。


そして、律法から離れた私達は恵み(精神=神の意志)の元にいて
律法がないから罪を犯そうと言う気になるのかと
パウロが問いかけています。


実はそうではない事を私達が一番良く知っていると思います。


精神から感じる意識は、創造主が誤っていると言う行動から
私達を遠ざけるものだからでです。
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貴方がたはこのことを知らないのですか。
貴方がたが自分の身を捧げて奴隷として服従すれば、
その服従する相手の奴隷であって、


あるいは罪の奴隷となって死に至り、
あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。


神に感謝すべきことには、貴方がたは、もとは罪の奴隷でしたが、
伝えられた教えの規準に心から服従し、

罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

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律法を鵜呑みにすれば罪の奴隷となり
神の意志の奴隷となれば義に至る。


【伝えられた教えの規準に心から服従し、

罪から解放されて、義の奴隷となったのです。】


ここでは言うまでもなくイエスから弟子へと伝えられ
弟子からその弟子へと伝えられた教えである
イエスの神の国の奥義=生命の科学の基準である


精神(神の意志)を感じることを実践することで
義の奴隷になったと言っているのだと思います。


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貴方がたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。
貴方がたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷として捧げて、
不法に進みましたが、


今は、その手足を義の奴隷として捧げて、聖潔に進みなさい。


罪の奴隷であった時は、貴方がたは義については、
自由にふるまっていました。


その当時、今では貴方がたが恥じているそのようなものから、
何か良い実を得たでしょうか。
それらのものの行き着く所は死です。


しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、
聖潔に至る実を得たのです。


その行き着く所は永遠のいのちです。


罪から来る報酬は死です。


しかし、神の下さる賜物は、
私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

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言わんとする事は生命の科学の理解者と覚醒者には
とても良く判るかと思います。


罪を意識して律法に拘ったがゆえに
いつしか義を意識することがなくなっていた。。


現代風に言えば、法に囚われて
道徳をなおざりにしていると言う感じだと思います。


「創造主への信頼を持ってその生き方を実践する人間」
言い換えれば、「神への信仰を持って義に生きる人間」は


記憶が肉体だけではなくて魂にも刻み込まれることになり
記憶を持った転生をすることになります。


その結果私達は自分が永遠を生きていることを
自覚することにもなるのです。


一方心に囚われて生きていることの代償は
肉体の滅びと共に記憶をも失うこと


そして特定の場合には魂の消滅をも迎えることになりました。


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話を脱線して私的な話をさせてください。


不思議なもので、私のように
社会の既存概念に服従することなく生きているからといって


私が不法者かと言えばそうではなくて、
逆に自らに課す道徳なるものは沢山存在していたと思います。


それは、その時の心の荒れ具合や落ち着く具合によって
実践されたりされなかったりしたのですが


とりわけ大きな決定に関しては
私は誰の意志も、そしてどんな決め事にも決して従う事なく
自分の意志を貫き通して生きてきたようです。


まして今では、
その意志なるものを道徳だけでなく
創造主の意志に置き換える努力をしているわけですから、


法など無視しても
自分は限りなく義を実践しているという
確信をも持てるようになりました。


そして律法なくしても
自らが正しいとする心の戒律を持っていて
それを実践していたと言うのが私のような人間だと思います。
(勿論時には荒れて大きく脱線していた時期もありますが)


戒律を捨てて罪に死んだからと言って
私達が不法者になることはあり得ません。


私達の感じている神の意志なるものは
人としての道徳心の塊でもありますし


この三次元社会を作り上げた創造主にとっての、
三次元のあるべき姿そのものだからです。


それを受け止めて実践することで
それを義と看做されるのは当たり前のことで


あとは如何に正しく、そしてより多く
創造主の意識を感じることができる様になるかが
問われることになると思います。

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私が子供の頃の事で
今でも忘れられないことがあります。


学校の規則である、
・頭髪は前髪は眉毛にかかってはいけない
・後ろ髪はカラーの半分程度


と言う校則を平気で破り、
全校集会の度に頭髪服装検査で捕まり
挙句の果てには見せしめに皆の前で髪を切られ


卒業式の直前には、
「髪を切らないと卒業式に出さない」と脅かされ


仕方なく自ら髪の毛を切っては失敗し、


スポーツ刈りにして中学の卒業式に参加して
卒業証書を授与の時には
会場に大きなどよめきを起こさせた経験があります。


私は今でも、頭髪が少しばかり長かった事に関して、
そこまで規則に縛り上げられ責め立てられた事に対して、
自分が悪かったと言う気持ちは存在していません。


さすがに高校の時にパーマをかけて
それを教師の命令で一日で切ることになった時には
仕方がないと自分でも反省しましたが


「それは高校生らしくない態度として
他の生徒への悪影響をもたらす」


として当時は納得しました。


(女生徒たちが軽めに掛けては見逃されていた事に関しては
女生徒達に不満は感じませんでしたが、教師には不満を感じました)


規則なるものの殆どは、
人が他人を管理するために作り上げられ


その多くは規則を作り上げた人間の主観的価値観に
かかっているものだと思います。


更にはそれをもって裁く人間も
独自の価値基準で人を裁くことにもなってると思います。


私がほんの少し髪の毛が長かったことで
一体誰にどんな迷惑をかけるのか?


それが規則破りだと言っても、
その規則はどんな実質的な意味があるのか?


例えば規則になくても、廊下で群れてたむろしては
弱いもの苛めをしているような人間達の方こそが
罰せられるべきでないのか?


弱いもの苛めをする人間が大嫌いで
群れて威張る人間達が大嫌いで


高校の時もそんな人間達数人に
喧嘩を売られる羽目になった私としては


規則なるものには本質が伴っていないと
疑問を感じ続けてもいました。


今から考えれば、
私はずっと独自の世界を自らの心に秘めていて
それを自らの戒律として実践していたのだと思います。


そしてその戒律を破ったことに関しては
それが単に道徳的なものであってさえも


恥じる気持ち、そして後ろめたい気持ちが
今でもしっかりと記憶の中に残っているようです。


私達が守るべき戒律は単に既存の法律にあるのではありません。


この社会の中で生活しているわけですから
守るのは仕方がないとしても


それよりももっと本質的なものを
神の意志から受けとめながら


無限の戒律を心の戒律として書き記して
私達は永遠の時を生きていく事になるのだと思います。


それはそのまま普遍的真理であり
私達が創造主に求められている創造主の意志の表現でも
あるのだと思います。


【地球人の苦悩を光の前の暗黒の様に消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】


私達が皆に知らせるべきは
私達の持つべき戒律は限定列挙ではなくて
神の意志に存在する無限のものであると言うこと。


そしてそれを感じるためにも
真の”信仰”である”イエスの奥義(生命の科学)”を
実践していかなければならないと言うことです。

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P.S.


ここ数日余計な記事は書かせまいと
パソコンに向かうと思考能力を落とされる事も頻繁です。


20世紀少年を読んだり
古いゲームを引っ張り出して遊んだりしていますが
そんな時にも心がけていることが実は一つだけあります。。。

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踊る大走査線で和久さん(いかりや長介さん)が
「青島は規則は破るしフラフラしているけれども
あいつは心の中に自分の法律を持っていて
それだけは絶対に破らないんだよな」


と語るシーンがありました。


私が踊る大走査線を気に入っているのは
そんな青島刑事(織田裕二さん)の姿を見て
自分に重ねていたからなのだと思いました。