小さきキリストへVOL2 | 不幸のブログ 

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


公安CIA系のメーソン達が
どうやら同胞を巻き込みたいようで
私を意図的に挑発し続けているように感じます。


私は少し他人にも甘すぎるので
半ば開き直って自分が間違っていないと
思うことを実行していく事にしました。


今はおそらくは私達の資質が試されている時だと思います。


それが必要だと法則が語っているのなら
私もそれに従うべきだと思います。


脳は挑発されて苛ついていますが
判断が間違っていませんように。。。


ユダヤサンヘドリンの傀儡の
件の工作員と協力者達は相変わらず


地獄からの死者のように電磁波攻撃と
自動車の暴走を繰り返しています。


昨日までめい一杯加害者達に
説得含めて私の出来る限りの思いで語りかけてきました。


もしかしたら中には何かを感じてくれた人も居るかもしれませんが
少なくとも未だに攻撃を仕掛けてくる人間達や
暴走している人間達には馬の耳に念仏であり


「犬に聖なるものを与えるな
豚に真珠を与えるな」と言う
イエスの言葉どおりの結果に終わったような気がします。


そして友愛組織はいくらでも他人を騙すので
次から次へと人員を配置してきますし
頭の固くなった人間や洗脳済みの人間には通用しません。


私の説得や説明は焼け石に水なのです。


ただそれは自分には無駄ではありませんでした。


イエスの奥義を身をもって体感したからです。


私はまだ記事にも書いていないようなこと含めて
延々と自分の想いを心を込めて語っていました。


勿論自分が正しいと確信していることと
印象として受け止めたことを自分の想いを込めてです。


一番それを語りたい理解者や覚醒者ではなくて
一番理解し難い人間に対して語っていたことが
無駄とはいえなくても


私にとっては後味が悪く、
自分の無力さを実感する事にもなりました。


創造主の意識からかけ離れた人間達が
自分が嫌悪し憎悪する対象の言葉を
理解し受け入れてくれることはなかったからです。


そして色々考えましたがやはり”日本の実態”は多くの人間に
知らせていくべきだと思います。


「知らないほうが幸せなこともある。。」


そうではなくて、この社会に染まるも、覚醒して生き方を変えるも
本人の自由意志を反映させるべきだからです。


社会の実態を理解して今後の行き方を選択するのは
個人の自由だと言うことです。


黙っていると今年の夏も救急搬送などで
洗脳へと誘導される人間も増えるかもしれませんし


無自覚な被害者は気がつくと意識を変貌されているかもしれません。


私の主張する人為的”洗脳”は間違いなく”親米親韓の無宗教洗脳”です。


つまりは今の日本の”現実社会”をすっかりそのまま受け入れる
そんな価値観を持たされることになるのだと思います。


そして洗脳された人間達が誤った生き方へと進んだときに
「それは策略だから仕方がない」と転生の法則が
判断してくれる確信はありません。


私は同胞達の生き地獄での無限ループを防ぎたいのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

朝から排泄妨害に苛々の誘導の脳への照射。


直腸も腫らしてきますし性器への攻撃もあります。


顔への関与も続いています。


「未だ死なないのなら死ぬまでいじめ続けてやる」


そんな意識がありありとうかがえます。


親米親韓のメーソン系の人間が現在の攻撃主ではないでしょうか。


ベテランも多いであろう事も
その攻撃のえげつなさからも理解できます。


朝鮮半島に触れると過激に攻撃が強くなるので
具体的にはメーソン傀儡と貸した公安系の人間達
在日帰化系の朝鮮半島関係者、宗教関係者が多いことも想像できます。


加害行為からは狡さと激しい意地の悪さを感じています。


彼らは自分達の気に入らないことを私がコメントで下書きすると
リアルタイムでそれを読んでは自動車で反応してきます。


下剤を飲むと次の瞬間下の部屋から
壁を殴るような音が聞こえてきます。
(自分達が気に入らないことを私がするといつもです)


ユダヤ教徒やそれに服従する関係者かもしれません。


このような日本国内の人間達が
却って韓国やアメリカのイメージを下げていると私は思いますし
(”一般の”韓国人やアメリカ人は
私達日本の一般市民と同じ普通の人間だと思います)


韓国やアメリカ以上に日本の人間にとって危険なのは
国内に潜むこのような人間達の方だと私は思います。

(韓国やアメリカの中に潜むメーソン系の人間達と連携しています)


彼らはすでに友愛思想に侵されていて
しかも自分達の行動を正しいと信じ込んでいるからです。


これから彼ら親米親韓思想を強く持つ人間達が中心となった日本は
友愛と言う名の新たなユダヤサンヘドリンの思惑に
すっぽりと飲み込まれていくことになると思います。


日本の人間は容易にサンヘドリンの思い通りには動かない。。


だからこそ彼らのような人間達が利用され誘導されて、
日本を扇動しているのだと容易に想像もつきます。


最終的に日本を朝鮮半島が飲み込んで
それをアメリカと中国が裏から支配する。


もしくは朝鮮半島主流となった日本を
更に欧米思想と中国との接点が飲み込んでいくのかもしれません。


日本の一般市民の生き地獄は生ある限り延々と続くようです。


私は残念ながらまだ少しやりたいことがあるので
(イエスの奥義で聖書を読んで気がつくことが色々あったので。、
今までとは違う聖書解釈をするためにも、
広報にあたり参考にしてもらいたい事があるのです。)


それを全うするのが今の自分の役目だと考えています。


そして一人でも多くの人間を
この地獄社会のループから目覚めさせて
出来れば社会の改善を図る


それが無理なら資質ある人間達だけでも
自らの審判の時に後悔しないですむような状況に
誘導して上げたいと思います。


私一人では力不足です。


覚醒者と理解者の協力を心から願います。


-------------------------------------------------

----------------------------------------------------




生命の科学の中では
”心”なる物が如何に独自の価値観を
作り上げているかという事実を分析するのが


私達のひとつの課題でした。


私達は、肉体を司る
目、鼻、耳、口でを使用して作り上げた価値観を持っていて


それが心が元々持っているエゴ(自分が可愛いという意識)と結びついては


私達の個人的真理を作り上げているという側面を持っていました。


私達はそれらの器官の好き嫌いで物事を裁き(評価し)
それを自らの価値観として持っているに過ぎないのに
物事を全て理解したつもりになっているという話でもありました。


私たちは目、耳、鼻、口で感じる情報を、
それぞれの感覚器官の好み、


更には自分の心がそれを心地よく感じるか不快に感じるかで
物事や人や現象を好き嫌いで判断しています。


心に不快と印象付けられ記憶された物事や現象や人間は
それに遭遇する度に
私達の心に不快感を感じさせることになります。


一方心が心地良いと感じた物事は
心はそれを受け入れ”好きである”と判断することにもなります。


そしてそれが現象であれ、物や人であれ、
それを好んで高く評価するのはあくまで”個人的真理”であり


心をもって捉える事が出来るものには
”普遍的な真理”はありません。


私達が心を持って作り上げる価値観は
得てして普遍的真理、精神の価値観とは異なるからです。


心は元々がエゴの塊で、
しかも各器官はそれぞれが争って
それぞれの好き嫌いを主張しているために


物事を正しく評価する事が出来ないからです。


目は自ら美しいと感じるものを
心地良く受け止めそれを好んでも


鼻はその臭いと嫌うかもしれませんし


口はそれが美味しいと感じて好むかもしれませんが
目はそれが見た目が悪いと拒否するかもしれません。


そんな感覚器官同士の争いが
私達が物事を正しく理解できない原因でもありました。


私達が三次元的に物事を正しく理解しようとした時には、
それらの器官を全て調和した状態で使用して


その物事を(人でも物でも現象でも)
正しく理解することが大切であって


物事を裁いてはいけないと(好き嫌いで評価する)
アダムスキーは触れていました。


裁く事が(好き嫌いを作ることで)
不快感を作り上げる原因になるからであり、


他人を裁くことはイエスも否定していたはずです。
(裁くとは罰を与えるだけでなくて評価すると言う意味でもあります)


しかし私達はそれを日常生活の中で繰り返しては
この社会の中で心の好き嫌いを作り上げ
分裂を繰り返してきた。。


そして今それは更に増徴される気配がある。。。
私達はその事にまず気がつくべきです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


アダムスキーやイエスキリストが言っていたように
私達が裁くことがなければ
私達は不快な物事を作り上げなくて済むようですが


私達はどうしても心を持って何事をも裁いてしまいます。


その裁きが分裂を生み、憎しみを生み
争いを生み戦争を生むのですが私達はその裁きをやめる事が出来ません。


それは私達が自分の心のあり方や動きを理解していないからであり
アダムスキーはそれを各感覚器官が争っているからだと
触れていました。


人間がなぜに不快な状態を作り上げるのか?


アダムスキーはそれを私達の心の動きを分析することで
説明してくれました。


私達が作り上げる不快感は心の動きが作り上げるものです。


そしてその心の価値観を作り上げているのは
目、耳、鼻、口の受け止める感覚でした。


私達の心を司る感覚器官である目、耳、鼻、口。


心の価値観はそれを利用し色々な体験をすることで
得られる情報から作り上げられるものです。


現象を目で見て認識し、音を耳で聞いて認識するというのは
誰もが認めることです。


テレビであればその画面を目で見て情報を耳で聞いて
私達はそれを自分の価値観や記憶や知識としていると思います。


物質の中には分子が浮遊しやすいものがあり
そこからは匂いという情報を鼻を持って得ることになります。


更に物によってはそれを口にすることで、
舐めることで、味覚として認識できるものがあります。


私達は四つの感覚器官を持って
その情報を受け止めることが出来るわけです。


しかし問題はその時の私達の意識です。


それらの情報を理解するのではなくて、
私達はそれを器官の好き嫌いで判断するようです。


そこには心と言う私達のエゴの意識が関わっていることも
無関係ではないと思います。


頻繁に私が取り上げている
”納豆”なるものを私達の感覚器官が
どのように捉えているかと言う事を例に挙げて見ます。


私達は物質としての納豆を感覚器官をもって
どのように認識しているのでしょうか。


納豆は見た目は糸を引いた腐った豆です。


その匂いは強烈ですし、かき混ぜればネチャネチャト
した音を立てる事にもなります。


目で見てグロテスクで、鼻に関しては臭くて
音も不快ということになれば


元々は食べるために作られたその納豆を
口に入れるその前に拒否してしまう方も少なくないと思います。


その場合その人は現実に納豆を食べていませんし
結果納豆を正しく理解出来ない事になります。


その人は感覚器官が作り上げた印象で納豆を嫌うでしょうし
その体験の後に、その人にとっては納豆は
嫌悪の対象となるかもしれません。


そして納豆が嫌いな人であれば匂いを嗅ぐ度に
若しくはかき混ぜる音を聞くたびに
ひどい時は見ただけでそこに嫌悪感を感じることにもなるかもしれません。


勿論中には匂いは好きではないけど
味が好きだと言う方もいるでしょうし


納豆の栄養面を理解していてそれで食べている方もいるかと思います。


かと言ってその人が
納豆なるものを正しく理解しているとは
限らないわけです。


単純に、それぞれ独立している感覚器官の好みが
勝利しただけかも知れないからです。


つまりは食べた時に”おいしい”と感じる方であれば
見た目のグロテスクさや匂いの強烈さよりも
味覚を重視したともいえます。


味覚が聴覚の価値観や視覚の価値観を上まる事となった
可能性があるわけです。


勿論食べているうちに納豆の本質を理解して
匂いも見た目も気にならなくなるのが多くの場合だと思います。


そしてその納豆の持つ栄養にまで意識が向いたときに
その方は納豆の事を理解した事になるのだと思います。


この例では私達の感覚器官は
納豆に関して好き嫌いの判断をしていることになります。


そして私達は全ての物や現象に対してそして人間に対しても
同じように四つの感覚器官と心のエゴを持って接しているのです。


その人の持っている感覚器官の価値観と心のエゴが
対象としているものを”評価”しているわけです。


(アダムスキーやイエスの言っていた”裁く”とは

物事を好き嫌いで判断すること、
善と悪で判断することに他なりません。)


そして人は好き嫌いを判断し
その結果そこには分裂なるものが起こることになります。


私達は心の心地良いものを望み
心地悪いものを排除する傾向があるからです。


しかし生命の科学を学んでいる私達にとっての
心のあるべき動きは


四つの感覚器官を自己主張させて
好き嫌いを判断すること、良し悪しを判断すること、
すなわち裁く(評価する)事ではないのです。


万物を正しく理解するために
心を持って四つの感覚器官を結束することが重要だと言うのが
生命の科学で私達が学んだことでした。


それがどんな見かけでどんな現象を生じていて
どんな音を出していて、
どんな匂いをしていて
そんな味をしている。


それを正しく認識してこそ
現象や物事の三次元的側面を理解することになるわけです。


四つの感覚器官を暴走させたのでは、
そこには好き嫌いが生まれることになりますし
しかも物事を正しく認識することが出来ない事が判ったはずです。


面食いの方は自分の事を思い起こしてみれば良いのです。


「外見に惹かれて付き合ったけれども、
早々と相手を受け付けなくなった」
と言うこともあると思います。


それは”目”の価値観が優先されて
分析対象を過大評価したために、
その人間の実態との間にギャップが起きたためとも言えます。


声が嫌いだと耳が主張したかもしれませんし、
匂いが嫌いだと鼻が主張したかもしれません。


そうでなければ、すでに出来上がっている心の価値観や
個人的真理とも言えるエゴの存在が


自分の心を心地良くしてくれる相手ではない事を知って
嫌気をさしたのかもしれません。


結局は心が自らの身勝手から心地良さを求めるが余りに、
其の通りにならない事に不快さを感じる羽目になったのだと受け止めれば
そこに歪が発生することも理解して頂けるかと思います。


そのような歪は一旦溜まると
その後も繰り返し私達に不快感を与え続ける事になります。


一旦嫌いになった物や不快と感じた事や人に直面するたびに
私達は過去の先入観含めて其の度に不快感を
感じ続けることになるからです。


そのような不快な物事が多くなれば
私達はストレスを溜めることにもなりますし


心が狭くなれば不快な物事に対して
怒りを感じることもあるかもしれません。


自ら作り上げた分離の感情が
更なる不快な意識を自分に与えることになり


其の不快な意識が溜まると私達の心は
混乱することにもなります。


すべては心を暴走して混乱させた事への
因果応報とも言えるのですが


わたし達は自分のことが可愛いので
其のことを認めようとはしないわけです。


この好き嫌いは私たちに分裂をもたらします。


好きな人間(同じ価値観の人間も)を身近に寄せて
一方では嫌いな人間は排除する。


似たような思想の人間同士が自らの心の心地良さを
与えてくれる相手と認識しあっては群れて、
一方では嫌悪の対象となるものと対立することにもなります。


それが進めば会社の中でも仲良しグループや派閥が出来上がり、
小さな組織同士には対立も生まれます。


政治家であれば政党、その中の派閥
国家単位でも同様です。


私達は心の暴走のために分裂状態や分離状態を
作り上げてしまっていることになると思います。


そして私達の周辺には常に不快な現象や物事や人間が
存在し続けることになります。


そしてそれに遭遇するたびに
私達は不快感を感じることにもなる。


それがたまると心に混乱や苛付や不安を増幅させる原因にもなります。


その結果時には私達は自ら抱え解消できなくなった
不満や不安を山ほど持って


今度はそれを神様に向かって
解消してくれと願う事にもなります。


自らのエゴを暴走させることで作り上げた混乱を
今度は精神の延長にある神に助けてくれと求めるわけです。


神の分身としての精神にしてみれば身勝手な話で
自分が囁き続けても心はそれを無視しておいて
自分が困った途端に助けてくれと泣きつかれるようなものです。


生命の科学によれば、自ら心の暴走を持って作り上げた混乱を
神に解消を願ってもその願いは叶うわけがない事になります。


もちろん環境によって暴走を強いられるような局面も頻繁に存在していて


例えば組織的犯罪の被害者であれば
心の暴走を強いられるようなことが頻繁にあるかと思いますし


一方、エゴに従って身勝手なことをして生きている人間は
神に頼むほどの悩みもないのかもしれませんが


ここでは結果的に私たちは自分の心の暴走が
自らを不快にする原因を作り出していること言うことを
理屈で理解して頂ければと思います。


そして其の不快な状態を少しでもなくそうと
努力しているのが私達覚醒者であり
生命の科学の理解者です。


私達のような人間が集まれば
同じような意識をすべての人間が持っている事になりますし
おそらくは私達だけの空間であれば
そこでは平和を実現することも出来ると思います。


しかしこの社会の中では誤った価値観を持って
しかもそれを正当化して生きている人間が大勢いて
私達が広報するにしても大きな障害にもなっています。


それどころかそんな人間達がこの社会の主流となり、
私達の社会を誘導していると言うのが現状なのです。


この社会は人間の心しだいで
天国にも地獄にも出来るとアダムスキーは言っていました


そして其のことを私達は身をもって感じているわけです。


【地球人の苦悩を光の前の暗黒の様に消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう。】


私達が道しるべになるためには
私達一人一人が強く光らなければならないと言うこと。


そしてその光は偽善者達が語っているような
実質の伴わないものではいけないのです。


真の闇を照らすことの出来るのは
私達のような真の覚醒者だけです。


現象も精神もその裏も表も知っている
普遍的真理の理解者としての私達こそが
しるべとなりうるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

P.S.


自尊心を持つのではなくて
強い決意と正義感を私達は持つべきです。


自分がやらねば誰がやる。

これは自尊心ではなくて強い義務感であり
それを動かすのは強い決意と正義感だと思います。


まして精神がそんな意識を強く持っている存在だと思いますから
私達は精神を強く感じるにつれて
この意識が強くなっていくことと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もしも私達がもっと正しく物事を理解しようとすれば
心の四つの器官と心の価値観で捉えることの出来る側面とは別に


更に見えないものとしての
”因”なるものを理解することが大切でした。


それは時には知識となりますが
本来は思考であり原因であり神の意識でした。


全ては私達の四次元的な領域でもあります。


納豆に関して言えばそれは知識としての栄養価や
製造方法かもしれませんし


人間が対象の時はうわべには見えてこない心の中です。


人や物や現象の、その見えない側面をも理解してこそ
私達は始めてそれを正しく認識することが出来る。


心だけではなくて精神をも用いて
三次元だけでなくて四次元をも理解することで
私達は何事もを正しく認識することになる。


そこでは”理解”こそが存在しているのであって
”裁き”は存在してはいけない。


結果私達の心が作り上げる価値観による不快な現象は
理解として置き換えられることになるわけです。