カルト宗教批判 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

今日二つ目の記事です。



久しぶりに宗教批判します。

勿論宗教の全てが悪いと思っているわけではありませんし
宗教は人間を導いてくれる側面を持っていて


人が心や神や真理と向き合うきっかけを与えてくれる
物であるという認識は変わりません。


其れに触れた上で尚且つ批判させていただきます。

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何で私が新興宗教を嫌うのか。。


いくつも理由が在りますが
一つ目には、そんな宗教の教祖様は決まって神様だったり
仏様だったりして奉られているということです。


いつも記事でぼやいていますが
もしも今のこの世に神様や聖人の生まれ代わりが存在しているならば
今のような荒んだ世の中を放置しておくわけが無いのです。


家族が家族を殺し、親が子供を虐待し、
悪人が自分の利益のために罪の無い人間に保険金を掛けて殺害する。


金が欲しくて中学生が売春行為を繰り返し
麻薬欲しさに高校生が風俗で働く。


己の利権のために権力を利用する政治家がのさばり
己の保身のために人を殺傷するような人間が
罪に問われることなくお日様の下堂々と生きている。


神や聖人の生まれ変わりが居るのならば
そんな社会を放っておく訳が無いのです。


しかしながら現実には日本には多くの神様や聖人
そしてそれらの弟子や信者が居るにもかかわらず社会は壊れていくばかり。


何でそんなことがおきるのか?
神様や聖人が皆偽者で、言ってみればアンチクリスト。(悪魔の使い)
更にその弟子や信者が悪魔の傀儡のような物で

日本を壊している張本人達だからです。


(結果的にはメーソンの傀儡の役割を担っています)


そして何よりも気に入らないのは
そんな新興宗教組織の羽振りの良さ。


何故に立派な建物を建てることが出来るのか。。
それはその組織が儲けている証拠であります。


宗教組織のように心の大切さを訴える組織であれば
物事に関しても見た目や形よりも
その内面を重視するような教えでも説きそうな物ですが


現実はそうではなくて、建物を豪華に作り上げ

それで権威を示すような傾向は


見た目の豪華さを前面に出しているようなもので
如何にもうわべだけを着飾っているかと言う事が判ります。


(新しいからいけないというのではなく
心を学ぶ場に豪華絢爛さが必要なのかと言うことです)


信者の魂を良い方向に導くのに豪華な建物や
厳粛な儀式など必要ありません。


見た目の立派さで人を釣って
信用や信頼を得ている様に見えるその行動は


キリスト教風に言えば、
見た目や上辺を着飾って人々を惑わす悪魔の性質そのものです。


表面は立派な格好をして立派な建物に住み
信者には立派な事を語っていても
実際に心の中ではそんなことを思っても居ない。


弱きものに優しく。。

世界に平和を。。。


信者の前ではそんな奇麗事を言いながら
自分は側近を奴隷のごとくあしらい
軍事産業と裏で提携している。。。


影では儲けた金の計算をして
如何に自分達を美化して一般人を欺くか
そして如何に信者を金づるにするかそんな事しか考えていない。


そんな組織の信者や弟子は
当然心が救われることも在りませんし


気がつけば自覚が無いうちに
ドンドンと魔に取り付かれていくのが落ちです。


そもそも当初の教えが間違っているのですから
心を救うことが出来るはずが無い。


そしてその教えが誤っていることに気がつく事も
出来ないでいるわけですから当然幸せになどなれません。


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少し前に宗教の事を
借りてきた器に例えて記事で触れました。


宗教を始めたからといって
その教えの全てを自分が習得したわけではない。。。


もともとの自分の器が急に大きくなるものではないという話です。


私たちは皆自分の心の器を持っていて
その器は自分の現実世界での体験や知識によって
成長していくものだと思います。


勿論、中には私のようにぼろぼろに荒みまくり
器がひびだらけの人間も居れば、


大きくてとてもピカピカな器を持っているような
人間も居る。


そして宗教というものは
自分の心よりも大きな器を
よそから借りてきたようなものだと思います。


自分が持っているものよりも大きな器
それを持つことで自分の心は大きくなったような
そんな錯覚に陥るかもしれません。


心に余裕が出て
自分の心が突然大きくなったと勘違いするわけです。


(映画のヒーローに自分を重ね陶酔し
自分も同じようになりたいと夢見る。。それと似ています)


自分の本当の器はその宗教という大きな器の中に
埋もれてしまって半ば見えなくなっています。


しかし信者が知覚するのは
その借りてきた器の大きさばかり。


そして借りてきた器の大きさと美しさに
自己満足するかもしれません。


(勿論心が荒れているような時には
そんな誤解も実は有効ではありますが)


しかしながら本来大切なことは
その借りてきた器に満足したり


借りてきた器をピカピカに磨き上げることではないはずです。


その器の中に隠れている自分の器を
借りてきた器に負けないようにもっと大きく成長させること
そしてその自分の器を磨いて光らせることです。


それが理解できないがゆえに
カルト宗教信者は強い信仰を持つことで


自分が精神的に高い状況にあると勘違いしたり
自分は悟ったのだから幸せになれると信じ込んでいるのです。


現実には借りてきた宗教の器をいくら必死になって磨いても
自分の器はちっとも変わっていないのですから


もしも宗教や組織という後ろ盾が無くなれば

その時になって初めて自分の今の本当の心の器の小ささに
気がつくことになるのです。


つまり本当の自分の器は
自分が何にも頼ることの無い状態になった時に
初めて実感できる物だと思います。


借りてきた宗教という器を必死になって磨いて
ピカピカにしたつもりでも
それは所詮他人が作り上げた物であり


実際の自分の心は其れよりは小さいものである。。。


(聖人自ら聖典を残したという話が無いのはなぜか?


それは心の在り方は書き記して学ぶようなものではなくて
結果的には人が個々に心で感じて実感するものだと
考えたからではないでしょうか)


つまり宗教に全て依存しているうちは
自分の心が、借りてきた器以上に大きくなることはありえないし


自分の器の成長もままならないということ。


もっと酷いことを言えば


宗教が自らの心を豊かにする行為
若しくは神や自分の心と向き合う行為であるとすれば


其れは自分一人でやるものであって
組織や徒党を組んで活動していること自体が既に間違い。


組織を作っているような宗教は
その時点で進むべき道を誤って居るということです。


心を考える神や心と向き合うことを
他人に勧める事は悪とは思いませんが


其れに強制が入ればその時点で其れは狂信行為。


創価学会や統一教会に限らず、
日本の宗教には狂信者が多いようで


宗教を組織化しているところは
中世からの国家が国民管理に宗教を利用してきた事とそっくりです。

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現代宗教は人間を管理しコントロールするために

利用されている。


そして日本でも多くの人間が

その統制下に居ると言うことです。


新興宗教にはまっている人間は

一度その器を心から取り除いて

本当の自分の心を確認してみてください。


宗教を取り払うと

以前と何も変わることの無い

小さい自分の存在に自覚する人も多いのではないでしょうか。。。