コーヒーブレイク 神の法則 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

今日の記事は二つです。

一つは被害です。興味ある方限定で。。



今日は私の寝言です。

宗教観を語ってますので

気分を悪くしない方限定で暇つぶしに読んでください。


頭の回転が酷い状態で

集中力もないので文章訂正しないで出します。

誤字脱字妙な表現等あっても勘弁してください。


言わんとしている事を理解して頂ければと思います。
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以前西武池袋線の池袋駅改札に

広報タスキを掛けて立っていた時に

顕正会の方が声を掛けてくれました。


その後連絡をもらい

先日顕正会の方と会って話している最中に

宗教に関して色々と考える事がありました。

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創価学会も宗教組織、顕彰会も宗教組織。

そして多くの宗教組織が日本に存在しているけれど

そもそも宗教って本来は何のために存在する物なのか?


宗教が人の心を豊かにしているのであれば

今頃世界中は平和で争いの無い世界へと変貌しているはずです。


それが平和どころか戦争や争いが耐えないこの世界。


日本を見ても争いや混沌を齎しているその中心には

創価学会や統一教会のような宗教組織の存在があげられます。


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例えば仏教の教えに、

全ての物には仏の心が宿るというものがあります。


つまり全ての存在自体が仏であったり、

誰もが仏になれる可能性を持っているという話です。


そしてこの考え方は多くの宗教や精神サイトの主張にも

通じるものです。


そして私が大好きな神の法則(宇宙の法則)?とも言える物にも

同じような話があります。


神と言う存在は人格を持っているような存在ではなくて

この宇宙全体に存在しているエネルギーのような存在であり


生物はそのエネルギーの法則によって生きている。。。


人々は神の法則によって生きると言うのが本来あるべき姿。


その法則によって生きる事で魂が受ける摩擦も少なくなり

病にも罹りにくくなれば長生きも出来る。


そしてその法則に沿って生きる事が

人々の魂を成長させる事にも繋がっていく。。


大好きなアダムスキーの宇宙哲学も

多くの宗教と似たような教えをその中心に据えていました。


でも其れは宗教とは少し異なります。


人はその法則に従って日々の生活を送り

其れを当たり前として生きていく。


それは宗教団体にありがちな組織による制約や規則や

他の人間からの介入を受けるようなものではないからです。


そしてその神の法則と言われるものは

私達の持っている道徳と言うものに限りなく近いものであり


それを日常生活で実践して生きていく事こそが

人々の世界に平和を実現しますし

人々の精神の更なる向上をも齎す事になる。


とても素晴らしい教えだと思いますし

私に言わせれば説得力もあります。


でも少なからず今のこの日本やこの世界においては

其れは現実的ではありません。


その基本と成っている道徳自体がこの世界では既に乱れていて

私達の心の中では、人として持っているべき基本意識が

既に歪んでいるような事が多いからです。


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現在の私達の日常の生活は

精神世界や心を考える機会が極端に少ない状況に

置かれていると思います。


ユダヤ・メーソン教育のおかげで

私達は目に見えるものにばかりに捕らわれて

その価値の中心も目で確認できるものが中心です。


つまりもしも神の法則なるものが存在しているとしても

私達はその法則を理解する事も実践する事も出来ないわけです。


気が付くと物や金に執着し

目に見えるものばかりに価値を置いてしまうために

心や精神的なものに重きを置く事もない。。


そしてこんな時代では

人々が心の事を考えるきっかけになるのは

精神的な不安を感じたような場合に限られそうです。

(私はそんな意味で皆の不安を煽りたいと思っています)


つまり不安やこの世への疑問が

人々の精神を神の法則へと誘導するきっかけになる可能性が高いという事。


もしかしたら精神的に窮地へと追いやられた時こそが

人々の意識を本来在るべき場所へと誘導してくれる

きっかけになるかもしれないわけです。


そしてそんな精神状態になっている時に

受け入れやすいものが宗教でもあります。


宗教は人の心のあり方や生き方の指針を示しているからです。


もしもこの時に正しい宗教へ導かれれば

人の意識は限りなく神の法則に近い場所へと誘導される事になるでしょう。


つまり宗教は神の法則から離れた人間達を

再び神の法則へと誘導するための道具に成りえると言う事です。


もしかしたら私達は皆

神の意識を神から受け継いでこの世に生を

受けた存在かもしれません。


しかしながらこの乱れて歪んだ世の中で長い時間暮らしている間に

その中の悪影響を受け続けることで

本来の意識を忘れて神の法則からはかけ離れて生きる事になりました。


勿論生まれつきその神の法則といえる物を

無意識のうちにしっかりと守って実践しているような

人間も存在していると思います。


そんな人間達はその暮らし自体が

無意識のうちに神の法則という名の道徳や心のあり方を継続しているわけですから

宗教によって再び神を意識させられる必要も無いわけです。


一方多くの人間は神の法則からかけ離れて生きているわけですから

再びその神の法則を意識するきっかけとなるのは宗教や

精神世界への関心から。。。


宗教は人が本来在るべき道へと人々を誘導する

きっかけになりえる物だと思います。


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しかしながらここで問題になるのは

宗教という物は人間が作り上げ

其れを組織として実践し続けてきたものであるという事です。


神の法則なるものが存在していたとすれば、

それは自らの心の良識や良心によって

導かれる所に在る真実ではないかと思いますが


宗教はそれと似たような教えを組織的に

構成員へと伝えるものです。


その教えが神の法則に準拠したものであれば問題ありませんが


全ての宗教が人々の心が本来の在るべき場所へと

人々を導けるとは限らないわけです。


イエス、やブッタ、そしてマホメッドしてもそうですが

私は彼らは聖人で在ると考えています。


人間でありながら限りなく神の法則を理解していて

その教えを自ら生活の中で実践して見せた人間だという事です。


彼らの共通する主張は

人間は神の子供であり、若しくは心に神を持っているというもの。


つまり彼らは神の法則に乗っ取って生きろと

人々を誘導したのだと思います。


イエスもブッタもマホメッドも

自分の事を神聖化されることなど

本当は望んでは居なかったのだと思います。


後に管理階級の人間達の手によってこのような教えは全て変貌され

市民の管理支配の道具として都合よく利用されてきてしまったのではないのか?


というのが私の意見です。


恐らく聖人達の主張に共通していた事は、

今この生きている時間をより良く生きて魂を向上させろということ


この宗教を信じれば救われるとか

天国にいけるとか言った主張は

恐らくは管理者の人間達が国民を管理し、


一般国民を従順にさせるために飴として人々に与えた偽りで、

聖人の教えの中心は、


「生きている時に一体どんな生き方をしたのかと言う事が大切である


と言う事だと思います。



残念ながら彼らの教えは捻じ曲げられて

今は国家管理や宗教ビジネスのために利用されている。。


つまり山ほど存在している宗教の中で

一旦神の法則からそれた人間を

正しい道へと誘導できるのが宗教ではありますが


其れを実践できているような宗教組織は多くはありません。


それどころか道徳や理性が神の法則を司っているとすれば

其れと対極の悪魔の法則とも言えかねない教えを

信者に実践させているような組織が後を絶ちません。


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私が認識しているような

宗教の教えを大きく分類すると


・神の法則に乗っ取って今をより良く生きろ


・今現在を幸せに暮らすために生きろ


・死後天国に行くために生きろ


の三つに分類されると思います。


勿論肯定されるべき教えは一番上の教えだけ


下の二つは管理者や悪人に利用される道具となっていると思います。



幸せに成るために生きるという事を目指せば

幸せになるにはどうすれば良いのかという話になりますが


例えば創価学会であれば財務を沢山する、

折伏を沢山する、お題目を唱えることが

その人間を幸せに導くと言って居るようです。


つまり組織のために沢山金を出して

組織のために頑張って活動して

組織の教えであるお題目を唱えることが

幸せになるためにするべきことだという事になります。


そしてこれらは彼らにとって絶対に真実で

それでも幸せになれないときは

信仰が足りないという事になるようです。


そして熱心な創価学会信者は

これを実践している事でしょう。


人間が多く居ればその中には成功する人間も

失敗する人間も出てくるのは当然の事


でも成功した時は創価学会に入り信仰したため

失敗したときは信仰が足りないという事になり

組織にとってはとても都合の良い教えとなっているわけです。


私に言わせれば今この物質世界で幸せになるという事が

一体何を持って幸せと捕らえるのかが理解できないのですが


多くの場合彼らは夢を叶える事や、経済的に満たされる事を

幸せであると考えているようです。


つまり当初から神の法則からはずれていて

この組織の教えを実践したところで

神の意識に近づく事は出来ないと言うのが私の主張。


彼らの社会においては

幸せという概念自体が欲と深く関わっているという事も

理解できていないで、


物欲を満たす事を幸せと捉えている時点で

その教えは神の法則どころか

悪魔の法則であると想像しています。



もう一つ天国に行くために生きるという考え方です。


これは多くのキリスト教に当てはまる事ですが、

良く死刑囚が死ぬ前に牧師を呼んで貰って

心を改心して?死刑執行をされるというシーンが

外国映画には出てきますが


そもそもそれ自体が理解できません。


悔い改めれば救われる。。。


そんな悪人に都合の良い意識を持った人間ばかりだから

この世界は悪人にとって住みやすい世の中になっているのだと考えてしまいます。


生きている最中に何をしていても

最後には悔い改めて神を信じて死んだから天国にいける?


神の法則がそんな生き方で在るわけが無いのです。


では善人が居て全ての行為を善行していたけれど

神を信じていなかったらこの人間は地獄へと落ちると言うのでしょうか?


魂の評価が在ったとしても其れは段階的な物。

天国か地獄かという極端に二分化されるようなものではないと思います。


つまり天国へ行くために善行をしなさい

と言っているような教えも

素晴らしい内容にも思えますが


人々が自分達に背く事が無いように

羊のような人間を量産する目的の教えのようなもので


組織や管理者に利用されやすい教えであり

神の法則からずれる危険が大きいという事です。

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アダムスキーが高貴なる存在に伝えられた話によれば

私達の生命エネルギーは限りなく無限に近いということです。


何故ならそのエネルギーは私達の身の回りに

無限に存在していて宇宙をも埋め尽くしているからだと言います。

(”気”といわれているようなものです)


そして本来在るべき心で生きている人間ほど

そのエネルギーの恩恵を受けると言います。


歳をとっても若く居られたり

病をする事無く健康で居れたりすると言う事です。

(創価朝鮮カルトに病を誘導されているような人間は別でしょうが)


逆に心が神の意思から遠ざかれば

その魂はどんどんと活力を失うといいます。


そしてあまりにも神の意識から離れすぎてしまった魂は

消えて無くなると言われています。


電気の充電が切れたバッテリーのような状態です。


更に今の時代はもしかしたら

人の心の二極化が激しく進んでいる可能性があるのです。


法則に限りなく近づいている人間と

限りなく離れている人間とにです。。。


もしも本当に神の法則なるものが存在しているのであれば

多くの人間の魂は消える事無く

私達は再びこの世に肉体を持つ事にもなると言います。


そして再びこの世に生を受けるのであれば

次の時代には、ユダヤ・メーソンやその傀儡の人間達の支配から

逃れた世界で生きたいものです。


道徳を重んじ悪意の無い人間に囲まれて

平和で心地よい世界で暮らしてみたい。。


今の私のたった一つの希望です。


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