善と悪という概念 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

今日の記事は三つです。


かなり暴れています。


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昨日はベガのブログの管理人さんが

俺に休息をという事で外に連れ出してくれました。


久しぶりに緑の多いところに出て

とても気分の良い一日を過ごせました。


ベガさん本当にありがとうございました。




昨日の記事の続編のような内容になっています。

この記事を読んで欲しくて、その前に理解を深めて貰おうと

昨日の記事を出したわけです。





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善と悪の基準とは一体何なのか?


善という物が法律や宗教に拠って規定されている行動であると定義すれば

善=人間にとって必ずしも望ましいものとは言えません。


例えば、何の規制も無い社会状態が悪であると考えても、

元々その無規制状態に置かれている人間達に

他人に危害を加えるような行為である

殺人、窃盗、強姦等を行う意識が存在しなければ、


無秩序で在ってもその状態は悪とは呼べません。


逆に善と言う意識は法律や教えに従う事であると定義しても

その法律や教えが人間にとって絶対的な指針となるものではない以上、

それに従う事が絶対的に正しいのだという保障もありません。



(法の隙間を狙って非道徳な行動を繰り返すと言う

本来悪の意識を持っている人間でも

制定されている法律を守りさえすれば善人と判断されてしまう事になります。)


そう考えれば法律や規約を皆が守っている世の中=善人の世界とは限らないし

規制や法律のない世界=無秩序の悪人の世界とも言えず


結局全てはそこで生きている人間の意識しだいと言う事になります。



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人間の意識を善と悪とに分類した時に

例えば私のような人間は正直言えば本来どちらにも属していないと思います。


無秩序で他人を殺傷したり人から物を奪ったりするような意識はありませんし

善良な一般市民の嫌がる事を意図的にする事も在りません。


一方、法律の規定であっても其れがおかしいと思えば

恐らくは守る事も無いでしょう。


決まり毎で何もかもを雁字搦めにされる事は大嫌いですし、

例え決め事であってもそれが不条理であると判断した場合には

事は時には平気で破ります。


赤信号は止まれと言われても

自動車の流れがなければ渡ってしまうことも在りますし


”姦淫犯すなかれ”と言われても

時には薄着の女性を目で追ってしまう事もあります。


そして結果的には善でも悪でもありえない意識をしている人間。

私は自分をそのように分析しています。


そもそも善とか悪とかは一体どこから生まれた概念なのか?


歴史的に悪とか悪魔と言われる存在が出てくるのは

やはり宗教にその端を発していると思います。


元々神と悪魔の戦いを記述していたのは

ゾロアスター教という宗教であり

その後多くの宗教がその意識を受け継いだとも言われています。


そして宗教の信者にしてみれば

教祖の教えと教祖の信仰する神こそが正しいものであり善ですし、

その教祖が敵として戦っている物こそが悪であると言う事にもなります。


現に創価学会のような組織や統一教会のような組織は

敵となる人間を、悪とか悪魔とかと称しては

信者に叩かせている節があります。


つまりカルト宗教にとっての善と言うのは

その教祖の教えとされる行為を全うする事であり

悪というのはその教えを破る事となりそうです。


勿論彼らにとっての神は教祖であったり

教祖が信仰している神であり、


彼らにとっての悪魔は

教祖の敵対している存在であり

教祖の神が戦っている存在です。


ここで考えて貰いたいのが

歴史における宗教です。


まず歴史の中の宗教は

支配者が一般大衆を管理するための道具として

頻繁に利用されました。


国家として暮らす人間達に同じ宗教を信仰させる事で

人々の価値観を規制し、意識を画一化するにも有効だったからです。


その一方では歴史の中では

宗教による争いも絶えませんでした。


例えばプロテスタントとカトリックの争い、

更にはキリスト教徒とユダヤ教パリサイ派との戦い、

そして今現在のイスラム原理主義とキリスト教世界の争いです。


今では不思議な事に多くの宗教が

他の宗教の神を否定する機会も減ってきているようですが

宗教が10存在すればそこには10人の神様が存在する事になり


10人の神様が存在すればそこには10通りの善のマニュアルが

存在する事になるわけです。


教祖の目的が例え金儲けであったとしても

熱心な信者はその教祖を心底信じているわけですから

その教えこそが善であると考えます。


そしてその教えの元では他の宗教は邪教と言う事になり

他の宗教の教えは否定される事にもなります。


つまりは似通っている教義であっても

人間様の個人の都合でその信仰は別の物とされ


悪と善の概念が不確実なまま

信者へと伝えられる事になるのです。


そして信者はその教えを正しいと信じて

その正しい教えを実践するわけです。


そこで問題となるのは、教祖や信仰する神の教えが

絶対的な意味で正しいものであるかどうかと言う問題です。


困った事に私達は誰一人絶対的な真理なるものを掴めては居ません。

その信仰が正しいかどうかを客観的な基準で判断する事は出来ないわけです。


でも少なくとも確実に間違っていると言う教えに関しては

判断する事が出来ます。


その組織の人間達が

社会的に見て悪であると判断される行為を

組織の教えに乗っ取ってしているような場合、

その組織は少なくとも正しくはないと判断する事は出来ます。


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宗教の教えは毒にも薬にもなると思います。

大勢の無法者を集めてその意識を良い意味で変貌したのであれば

その範囲でその宗教は薬になっている事になります。


一方、その極端な教えが信者を暴走させるような事になっていれば

その宗教は毒になっている事にもなります。


例えば創価学会の信者がその教えに乗っ取って

より良く生きようとする姿は薬になっている事になりますが


一方組織に騙され組織の金儲けのため、

自らの組織での覚えを良くする為に

新たな信者を入信させて多額の財務(お布施)を引き出すのであれば

其れは毒であると言えます。


つまり多くの宗教の教えは其れを運用する人間の意識によって

善にも悪にも成り得る物であると言う事、

宗教はそのぐらいの危険性を持っている存在なのです。


そしてその宗教が今現実にカルト宗教に於いては

金儲けの手段として利用されているわけですから

正しい教えが信者に伝わるはずがないのです。


現に信者は暴走している

其れも正義と言う名に於いてです。


創価学会の組織的犯罪を見ていて気が付いたのは

ターゲットと看做した人間を悪人に仕立て上げると言う行為と


自らの価値観を押し付けると言う行為が

彼らの行動の前提には在るのではないかと言う事です。


つまり朝鮮半島の血のために働く信者を除けば、

その行動の基本には悪を正すと言う名目

存在しているように思えるのです。


つまりターゲットは悪であるから是正しなければならない

そして創価学会の敵は巨悪であり仏敵であるから

排除しなければならないと言う意識です。


彼らを動かすのは信仰であり

教祖とも言える池田大作名誉会長への忠誠心ですから

彼らにしてみればその行為は絶対的な善である事になります。


でもその善と称してやっている事が他人の悪評を流したり

悪と決め付けた人間を組織的に監視したり

挙句の果てには科学力を使用しては行動を誘導までしてくるのですから

本来悪とか異常といえるのは創価学会の信者の方です。


しかし熱心な信者にしてみれば、

当人達は絶対的な善に基づいて生きているつもりなのかもしれないわけです。


つまり彼らの意識に在るのは善。

自分達は善人のつもりかも知れないと言う事です。


そして彼らの行動は善人として悪を正しているつもりであるとも言えます。


勿論其れは少なくとも正しい行いではありえません。


組織と言う枠組みの中で彼らは独自の教えを受けて

其れを善と信じて生きているのですから

当人に悪気はないかもしれません。


しかしここで問題となる事は

その価値観が組織内部にとどまらず

外部の第三者にも影響を与えていると言う事です。


元々いくら素晴らしい宗教であったとしても

その価値観を一般人に押し付ける事自体が問題であると言えるのに


歪んだ信仰を正しいものと信じては

一般市民に押し付けると言う事になればこれは存在自体が有害となります。


「自分達はこんなに信仰を守っているのだから

お前達も其れを遵守しろ。」


他人を悪人と決め付けたり

敵と決め付けるその行為の裏には必ず何かの

判断基準があるわけです。


そして宗教の信者の場合はその基準は

信仰に基づく事になるでしょうから


その行為の前提には

「俺達が正しいのだからお前は間違っている」

「俺達が守っている戒律をお前達も守れ」

と言う意識が存在している事になると思います。


創価学会あたりは熱心な信者ほど制約も多く、

TV番組や映画、更には図書やネットまで

有害とされたものを目に触れさせようとしないと言う話も聞きます。


恐らくはポルノサイトのようなものは

当然のごとく規制されている事でしょうが

それで影で睡眠薬強姦でもしていれば何の意味もありません。


要するに人間としての資質が彼らの組織の規律についていっていない。。


元々人間としての精神が豊かでない人間に過剰な規制を植えつける事が

そんな信者達の性格を捻じ曲げている可能性があると言う事です。



勿論これは多くのカルト宗教共通の意識であると思います。

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創価学会と言えば熱心な信者と同様に

犯罪者予備軍が多い事でも知られています。


保険金絡みの連続傷害事件や殺傷事件でも

犯人として創価学会の信者が頻繁に取り上げられていました。


小学校で暴走した宅間氏のような人間も

しっかりとその組織の一員だったようです。


つまり創価学会には極端な善を実行しようとしている人間と

極端な悪を実行している両方の存在が居る事になります。


そして其れを善と悪とするのであれば

極端な善と悪は紙一重。。。


意識を善と信じていても

その結果実行している事が犯罪となれば

その行為は悪そのものと判断されるからです。



そして私が想像している事は、

善と悪と言う概念も実は

宗教を管理支配の道具とする時に

その管理を効果的にするための概念であって


実は善も悪も極端に走る事は

結果として同じ事を意味しているのではないかと言う事。


つまりは悪と善は表裏一体

過度に法律や規律で人間を縛る行為も

人間を混沌状態に放置する事も


今の私達の精神レベルでは

どちらも人間の意識にとっては良くないと言うこと。


宗教組織と言われる創価学会を見ていると

そんな事をひしひしと感じてしまいます。


欲を断つのが善であるという考え方も私は反対です。


欲を断つと言う行為は

制約をされて行うものではなく


気が付くと自分はそんな人間になっていたと

言う事こそが意味がある。


本当は食べたいのに其れを只管我慢して

本当は性的な物に興味が強いのに其れを無理に押さえつけて


それで出来上がる人間は

世間の認識としての善人ではなくて

善人もどきの精神の歪んだ人間だと思います


現にそんな人間の煩悩は消えているわけではありませんから

其れを他人にも押し付けようと言う意識が心のどこかで強くなる。


そこでは奔放で自由な人間への嫉みや羨望が

生まれて来るのではないでしょうか。


そしてそんな中で溜まった不満がそのままエネルギーとして

利用され其れが彼らを暴走させる力とされている。


つまり善の勧めはそのまま悪への誘導にもなっていると言う

不思議な実態が見え隠れするわけです。



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P.S.


統一教会のマインドコントロールから

解き放たれたと言う方の著書に


統一教会の信者で激しい労働に付かせるときは

意図的に禁欲を奨励すると言う内容が書かれていました。


それも結局は同じ事で

溜まったストレスや欲求不満を

一種の歪んだエネルギーへと変換する行為だと思います。


元々煩悩の塊の人間が

ある日突然宗教を始めたからといって煩悩が祓えるわけがなく


逆に精神が歪む原因にさえなると言う事が

カルト宗教を見ているとよく理解できます。


平気で他人を騙す人間達の意識は

そうやって作り上げられているのかもしれません。

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