追悼モハメド・アリ/【特別連載】わが心のキックボクサー③ 中京ジム/他 | 舟木昭太郎の日々つれづれ

追悼モハメド・アリ/【特別連載】わが心のキックボクサー③ 中京ジム/他


※会場は、代々木八幡「七福」から台湾料理の「麗郷・富ヶ谷店」に変更になりました。
※詳しくは、チラシをご覧ください。

第1回キックボクシング・デーの詳細はこちら
 
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[随感]躾の問題
 ~大和君行方不明騒動に問う~
 ~果たして親を非難できるのか~
[哀悼]モハメド・アリさんの死去
 ~永遠のスーパースターよ安らかに~
 ~世紀のショー、猪木との対戦の記憶~
[畑]殺虫剤は最小限にして
 ~畑は害虫との戦いの日々~
【特別連載】わが心のキックボクサー③
 ~中京ジム・大沢と延長6回を戦った片山源太あり~
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[随感]躾の問題 
   
大和君行方不明騒動に問う 
 

北海道七飯町の山林で行方不明となり、6日振りに自衛隊員によって保護された田野岡大和君(7才=小2)は、助かって良かったとしかいいようがないけれど、同時に親の躾(しつけ)という問題も世間に問いかけた。
 
親は息子のいたずらに業を煮やして、体罰として山林に放置した。もういいだろうとその場に戻ってみれば、大和君の姿が見えず親は焦って捜査願いを出し、大騒動になったというのがことのあらまし。
 
大和君はといえば、自衛隊の演習場内の宿泊施設に歩いて辿り着き6日間を水だけで生き延びた。自衛隊員に保護されたときは、大和君?と聞かれる、「うん」答えて平然とした容子は、稀にみる胆力の持ち主とみた。
 
生死を彷徨って、普通の子なら、忽ち堰を切ったように泣きじゃくるのに、それもせず差し出されたお握りを食べたらしい。お握りを手にした大和君のしっかりとした目つきを写す写真も頼もしい。これ稀にみる怪童也。
 
桁外れのこういう息子だから、いたずらも半端じゃなかった、と私は臆断する。そこで生半端なことでは反省しないと、親は体罰として山林に置き去りにした。確かに褒められた方法ではない。だが、待てよだ。
 
     
果たして親を非難できるのか 

お見受けしたところ父親は悪人じゃなさそうだし、我が子を何とか矯正させようとしての、愛情から出た、止むにやまれぬ体罰とするなら、父親の行為そのものは短絡的に「悪い」と責めること如何か、と思うのである。
 
「子の躾は80%以上は家庭で決まる」の理(ことわり)もある。子供の躾は難しい。教育者は断固反対するであろうが、時には体罰も必要だとオジサンは力説するのだが、間違いだろうか。
 
ところで、名前の大和も、その胆力、行動力に相応しい。真っ当に育てば、一角の人間になれると私は睨んだ。幸い「お父さんは優しいから許す。」と言ったそうな。堅い絆で結ばれた親子が事件を糧に、新たな船出を期待したい。 
 
  
[哀悼]モハメド・アリさんの死去 
 
永遠のスーパースターよ安らかに 

「蝶のように舞い、ハチのように刺す」あの20世紀のボクシング界が生んだ最大のスパースター、元ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリさんが3日、「パーキンソン病」との闘病の末、アメリカアリゾナ州の病院で死去した。享年74才。
 
64年ローマ五輪でL・ヘビー級で金メダルを獲得、プロ転向して64年2月、ソニー・リストンを7回KOで倒しヘビー級の王座に就いた。「アイアムザ・グレーテスト」の伝説の始まりだ。
 
以来ヘビー級タイトルを19度防衛、3度王座獲得と次々と歴史を塗り替えてきた。私が特に印象に残るのは、キンシャサの奇跡といわれたジョージ・フォアマンとの一戦だ。
 
32歳のアリは40戦全勝37KOの無敵王者フォアマンに挑んだ。大方の予想は「アリはKOされるだろう」だった。だが、アリは勝った!8回2分58秒、不倒王は倒れ、新たなアリ伝説がまた始まった。
 
ベトナム戦争では、「私には罪もない人々を殺すことはできない」と徴兵を拒否したためタイトルを剥奪された。アリは、人種差別とも戦う平和の伝道師でもあった。
 
76年月日本武道館でヘビー級現役チャンプとして、プロレスラーのアントニオ猪木とボクシング対プロレスの異種格闘技も行った。
 
私も記者席に座ったが、遥か右方には作家野坂昭如さんもいた。野坂さんが国歌吹奏のとき一人立ち上がらなかったのが何故か印象深かった。
  
この試合、引き分けだったが、名勝負と云う人もおれば、世紀の凡戦と云う人もいるが、私はただ退屈な3分15ラウンズだったと記憶する。 
 
  
世紀のショー、猪木との対戦の記憶 

アリを投げてはいけない、ケガさせてはいけないの、雁字搦めの暗黙のルールに縛られて猪木は試合させて貰いなかったのだから、幾ら講釈を垂れても、そりゃあ名勝負にはならない。
 
猪木がマットに寝ころび徒にキックを放つさまは、とても不甲斐なく心に宿った。いってみれば世紀のショー。同じリングに両雄が立ったことに意義があったのだろう。そのアリの名義料たるや何と18億との風聞、やっぱりアリは何もしなくてもスーパースターだった。
 
1966年アトランタ五輪では、アリさんが聖火を震える手に掲げ登場した。パーキンソン病と懸命に闘う姿がクローズアップされ感動を誘ったものである。
 
私はこの偉大なるボクサーと共に同時代を生きて、彼の数々の試合を目に出来た。幸せこの上ない。永遠のモハメド・アリよ、安らかに眠ってください。サヨナラ。 
 
  
[畑]殺虫剤は最小限にして 
 
畑は害虫との戦いの日々 

5月ゴールデンウイーク中に植えた野菜の苗も、適度な雨と高温で、育ちは例年になく良い。直播のトウモロコシもマークシートの穴から元気よく飛び出し、そよ風に揺れる。日毎、我が子の成長を見るようで、畑に足を運ぶのも浮き浮きする。
 
いち早くキュウリもナスも実が生育して、花も次々に開いて、畑はちょっとした花園に変身する。そうすると、モンシロチョウが飛んでくる。これが厄介もので、ちょんちょん野菜に尻を付けていく。その度に夥しい卵を植え付ける。
 
油断すると忽ち卵が孵化して青虫となり、葉っぱがを食い荒らす。そこで虫取り網を買って駆除に当たる。うどん粉病もキュウリには憑き物で、葉が枯れてしまう。この病気には、酢を水で割り葉の表面、裏表に隈なく塗る、これが一番だというので試みた。
 
トマトの害虫駆除には、脇にバジルやネギ、ニラを植えるといいと専門書に書いてあったのでこれもやってみて、キュウリにはパセリ、花のマリーゴールドも推奨するが、昨今マリーゴールドは、香りが臭くなくなって効き目がないように思う。
 
いずれにせよ、収穫まで毎日害虫との闘いが続くが、殺虫剤は最小限にしている。全く使わない有機栽培もあるが、手間がかかるから私には無理だ。収穫期を想像しながらの畑作業は、私の癒しの一時である。
  
 
【特別連載】わが心のキックボクサー③ 
 
中京ジム・大沢と延長6回を戦った片山源太あり 
 
中京ジムといえば、西の黒崎健時といわれた三森(みつもり)義徳会長の風貌容姿が蘇る。空手道場からキックボクシング界に進出して、あの片山源太を育て上げた。”小さな巨人”大沢昇(目白)を散々てこずらせた男である。
 
片山は大沢とは2度戦いいずれも引き分け。S46年11月の全日本王者決定戦バンタム級では、5回引き分け(公式には引き分け扱い)で、決着を付けるために、何と延長戦を6回戦った挙句末の僅差判定負けだった。
 
延長6回、まるで荒野の決闘だ。これは延長戦の明確な規約が無いためこのような惨い試合となった。本来なら特例で2人同時王者を出すべきだった。2度目の試合も判定に差が出ず、ドローで王者大沢は防衛した。
 
極真空手が生んだ最強の男といわれる大沢に二度までも苦渋を飲ませた片山は、キックボクシング史に残る名選手である。無冠の王者といってもよい。私の忘れえぬキックボクサーの一人である。
 
弟に協同ジムで活躍した小源太がいた。引退後は町工場に勤め定年退職したが、勤勉さを買われそのまま同じ職場で正社員としてで働くいている。温和な五島列島出身のファイターも齢、68才になった。じっくり酒でも酌み交わしたい。
 
他に早川新介もいた。華奢な体でフライ級ランカーとして活躍、マネジャー的役割も担っていた。その後中京ジムを受け継ぎ早川ジムを開設した。フライ級王者になった丹代進選手もいた。
 
変わったところでは、ボクシングに転向して後に世界チャンプとなる浜田剛史と対戦したバーニー武田がいる。余談ながら病床にあるという三森会長さんにも、この場を借りて往年の御礼を申し上げたい。数々の試合を見せて頂きに感謝いたします。
 
 
現役時代は大沢昇と死闘を繰り返した片山源太さん(左端)
 
  
梅雨空に咲く青紫のアジサイ。

  
畑の隅にはカサブランカも咲いて、野菜を見守る。  

   

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