ハートの次元 | ユニティインスティチュート

ハートの次元

ユニティインスティチュートでは、「ハート」ということをよく言います。

しかし、そのハートは体験することはできても頭で理解することはとても難しいのです。

ここでハートというときは、心臓のことではなく、いわゆるスピリチュアルハートといわれている部分で、ヨガのチャクラでいうところのハートチャクラの領域のことをいっています。

ハートが大切なのは、いわゆるマインドとは別の次元に開き、より大きな次元に開いてくれるからです。

もし、私たちがマインドの次元だけにかぎられていると、人生は非常に限られたものになってしまいます。

悲しみや苦しみに打ちひしがれたときに、そこからの出口を見いだせなくなってしまいます。

ここでいわゆるマインドの次元というのは、マインドで見る世界、この物質世界と外側の世界です。
分析し判断する科学的、論理的な世界です。

そして、ここでハートというのは愛の世界、あるがままに受け入れる受容的な世界、内側の世界への入り口を意味します。
今、ここにいて、気づきとともにあることです。

マインドとハートはそれぞれ相反するものではなく、この世に生きていくためにはマインドはなくてはならないものですし、ハートは人生をより豊かに意味のあるものにしていくために必要なものなので、それぞれの違いを認めあう必要があります。

でも、ハートはマインドの次元を超えてしまっているので、マインドにはハートのことは理解できないようです。

ハートにはマインドを越えて、ダイレクトに物事を知り、その本質を認識する能力があるようです。
ですからマインドを通してハートを知ることはできず、私たちにできることは、ただそのハートの感覚を信頼することしかできません。
そのハートを信頼することを学ぶことからしかハートの次元を知ることはできないのです。

最近、私はとても悲しい出来事に遭遇しました。
長年、和尚アートユニティで日本に招待してオーラソーマを教えてもらっていたヌラが、突如としてこの世からいなくなってしまったのです。

マインドのなかにいるかぎり、そこには救いがない、絶望的な気分になってしまいます。

ヌラが倒れてからマインドは、ジェットコースターのように絶望感と希望との間をアップダウンしていました。

医師の話を聞き、ヌラの身体の様子を見ると絶望感と悲しみに落ち込みます。
そして同時に、さまざまな希望や奇跡を夢見ようとします。

しかし目を閉じて、ハートを感じてつながっていると、そこには静けさとやすらぎとあたたかさがあり、ヌラは肉体のなかにはいないこと、苦しんでもいないことがわかります。

ヌラの最愛の人であるラハシャも同じようで、さらに大きな悲しみ、そしてまた深いつながりや喜びを感じていたようです。

このような状況で喜びなんてあり得ないとマインドでは思われるのですが、ラハシャはまさにハートのなかにいて、肉体ではないヌラと出会っているということもよくわかりました。


私はOSHOからそういうことを教えられました。

私がOSHOに出会ったのは、父を亡くして、自分の死に直面し、生きるとはなにかということを真剣に考えていた時期でした。

今まで知っていた生と死の世界以上の多くの次元をOSHOは語っていて、その世界を体験していきたいと思ったのがOSHOの世界へと深く入っていくためのきっかけとなりました。

そのような世界を知らないかぎり、それまでの生き方のままで人生を終えてしまうのでは、自分の人生はあまりにむなしく思えたのです。人生にはもっと大きく、豊かな可能性があることをOSHOは示唆してくれていたからです。

OSHOに出会うことで、愛とはなにか、ブッダの慈悲とはどういうことかを体験として知ることができて、そのことが目に見えない生の次元へと目を開いてくれたのです。

それは瞑想を通してでした。

そして、それはマインドでは理解できないハートで感じることのできる世界でもありました。

OSHOは、ことあるたびに言っています。

「あなたは肉体ではない。マインドでもない」

「私の肉体にとらわれるかぎり、私に会うことはできない。

瞑想のなかで出会うことができる」


その言葉も半分は方便にすぎなかったとあとでわかったのですが、そのときはOSHOに会いたい一心で瞑想した時期もありました。
しかし、そのおかげで、OSHOが肉体を離れても、OSHOはどこにも行かずに私たちとともにいるということもわかりました。

そういうハートの次元でつながることができれば、肉体はそこになくとも、つながることのできる次元というのはあるのです。

マインドは表層の物事を知り、表層の世界、肉体や物質の世界を生きていくためには欠かせない道具です。
でも同時に、そのマインドの世界だけでは表層の世界、表面的な世界だけを生きてしまうことになってしまいます。

過去と未来のなかにのみ生きることになってしまいます。

その内側にある深み、本質や仏性、空の世界、今ここに生きる世界を見逃してしまいます。
マインドや感情に気づいていることのできる世界はハートの次元に気づくことでより容易になります。

ハートの次元に気づくまでは、ただマインドのジェットコースターに翻弄され、過去と未来、表面的な物質的な世界のみに生きることになり、そこには出口はありません。

肉体の死とともに、すべてが終わってしまう世界です。

ハートの次元に気づくことで、そのマインドで知ることのできる世界とは別の次元に開いていくことが可能になるようです。

ハートを通して、愛を通して、外側を知覚することができるようになることで、人生はより豊かになり、そうすることで自分のこれまでのマインドでの見方や在り方とはまた別の人生を、そこに見ていくことができるようになっていきます。

そういう世界に目を開いてくれたのが瞑想であり、ハートの次元なのです。

江谷信壽 記


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