案外短かった梅雨、それ自体は、嬉しかったけど、市民農園で野菜を栽培してる人間にはちと酷なことも。

そうなのだ。わかるでしょ、水やり。これが超大変。

最初のうちは片道20分を8リットルを背負ったり両手に持ったりしながら、徒歩で通っていた。

なのに、なかなか育ってくれない野菜や、スイカに思わず愚痴もさすがにでましょ。

しかし今はちょいと作戦を変えて、うちには車はないし、自転車は一台なので、まず第一弾のの水やりは

早朝4時半に、つまり陽がまだ愚図ついてるときに私が自転車で運び、それに遅れて第2弾を家人が同じく自転車で、と言う運びになった。

やっぱり自転車と歩くのとではぜんぜん違う。ふう。

ところで現在、少しづつ野菜の収穫が出来るようになった。

白ナスやプチトマト、ほかにも少しづつ。でも、同じ農園の方々からおすそ分けをもらっている野菜の

方がいまのところ多い。不思議なのはそれがいわゆる「贈与」って感じがまるでなくて、言葉は正しいか分からないが

「分有」てな風なのだ。

不思議な連帯感に、ふとロシアの「ダーチャ」を思い出した。

これから懸念される食料不足がこの20平米の畑で解消はされないけど、でもここは小さなダーチャだぜ。

 

 

 

 

 

アンドレイ・プラトーノフの「チェヴェングール」が今日届いた。

著者のプラトーノフは、岩波文庫の「プラトーノフ作品集」で初めて知った。

圧倒的な物語と筆力に呆然とし打ちのめされた。

その後日本語で読めるもう一冊「土台穴」を読んだ。

ただしあと三分の一くらいが残っていて、5年くらいそのままになって読了とはなっていない。たぶん、ぼくが大好きな「ジャン」より、読むのに骨が折れたせいもあるかもしれない。

さて、今日届いたのはかなりな長編「チェヴェングール」だ。

なんと597ページもある。

本の帯にはパゾリーニの「わたしもプラトーノフのようになれたら」や、ジジェクの「20世紀には重要な作家が3人いたーーベケット、カフカ、そしてプラトーノフだ」。帯には書かれていなかったがグレツキーの言葉はあまりに有名だ、「プラトーノフは翻訳不可能だ」。

さて、今年一番の文学的体験となると思うんだけど、果たして彼のポリフォニー的な作品の読みが少しでも僕にできるのだろうか。

 

 

冷奴は、果たして料理と言えるのだろうか?

刺身が洗練された技術を持ってではあるが、単に魚を切っただけで料理と呼ばれるなら、

冷奴だって料理と呼ばれても良いではないか。

いやいや、それは僭越だ。

むしろ、冷奴は豆腐の食べ方と考えたほうが良いのではないか。

冷奴はいかようにしても食べられる。

生姜を擦ってのせても、大葉を刻んでのせても、カツオ節を散らしても、それぞれが味わい深い。

今夜、私がビールのあてに試したのは、豆腐の上にちりめんじゃこを散し、その上にちょっと贅沢なオリーブオイルを垂らしたもの。

これが、陶然とさせられる味、つまり、天上的な美味しさでした。