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桂浜から長宗我部元親公初陣祈願之宮 若宮八幡宮へ。


一の鳥居をくぐり、真っ直ぐな参道を進むと右手には、


長宗我部元親公銅像
この銅像は元親公没後四百年に当たる平成十一年(一九九九)五月に、地元有志の発案により建立されました。
元親公は永禄三年(一五六〇)五月、二十二歳の折り、本拠地の岡豊城を進発し、宿敵、本山氏の守る長浜城を陥落させ、初陣を飾りました。その際、若宮八幡宮の社頭に陣を張り、戦勝を祈願したことから、この地に初陣の雄姿を再現したものです。その後、約二十五年をかけて四国全土を掌握しましたが、豊臣秀吉の軍門に降り、慶長四年(一五九九)に六十一歳で京伏見の館に没しました。
銅像の高さは台座も含め約七メートル、槍の高さは五・七メートルあります。
-案内板より
初陣像由来記
頃は永禄三年(一五六〇)五月末、二十二歳で初陣を迎えた若武者元親は、父国親と共に宿敵本山勢の立てこもる長浜城攻めに取りかかる。
決戦前夜、若宮八幡宮社頭のこの地に陣をはり、必勝を祈願し、見事これを打ち破る。
初陣以来二十五年、ついに四国全土を掌握す。
元親公没後四百年に当たり、文武両道にわたる公の郷土への偉大なる業績を顕彰し、歴史に名を残しながら悲運のうちに倒れた長宗我部一族や、あまたの武将達の御霊を鎮めると共に末永く郷土の誇りとして語り伝えん為、この像を建つ。
平成十一年五月二十三日 長宗我部元親公初陣銅像建立期成会
-案内板より

更に200mほど進むと社頭に辿り着きます。


少し痩せている参道の狛犬(安政二年(1855)乙卯六月吉日建立)

大鳥居


大鳥居手前の狛犬(安政六年(1859)己未三月吉日建立)


鳥居のいわれ
長宗我部元親公は、当社を出陣祈願の社と定む、天正14年秋、豊臣秀吉軍の先鋒隊として九州征伐に赴く際、社頭に武運長久を祈りいざ出陣という折りも折り軍旗が鳥居の笠木にかかり墜落す。衆人これを不吉となし出陣を見合わす形勢となるも、公は殊更に「敵を笠にかけて討つの吉祥前兆である」と祝し出陣す。
果たせるかな、豊後戸次川にて島津軍と戦うも惨敗し嫡子信親公以下、七百余命の将兵は異郷に討ち死にす。帰郷後、元親公はこの鳥居を不祥の鳥居とし海上遥かに流しやる。爾来二百八十余年間、鳥居なき社として有名なるも、慶応元年、地震の際、根石の自然に浮き出したことから衆人これを神意となし、再建す。時に明治3年3月の事なり。更にその後昭和11年1月に建て替え、昭和55年10月には従来の木の鳥居から鉄筋コンクリートに変わり今に至る。
-案内板より

御祭神
誉田別命(応神天皇)息長帯比売命(神功皇后)
市杵島姫命、湍津姫命、田心姫命
相殿 高オカミ神 (雨の神)
祭礼日
1月1日・歳旦祭、2月3(4)日・節分祭、4月下旬・祈念祭、4月第1土曜日から3日間
・神田祭 どろんこ祭、5月下旬・初陣祭、6月30日・夏越祭、7月25日・夏祭り、
11月5日・宵祭り、11月6日・秋祭り 神幸祭、11月15日・七五三祭、
12月上旬・大麻頒布始祭、12月中旬・新嘗祭 鎮祭
由緒
文治元年3月、平氏を檀ノ浦に滅ぼした源頼朝公は、全国に守護・地頭を置き鎌倉幕府の基礎を固めました。同時に、祖父源為義公の冥福を祈り、源家の家運長久を願って京都六條の為義邸跡にあった六條左女牛若宮(六條左女牛八幡宮)に石清水八幡宮の御神霊を御勧請し、ここに新たに六條若宮八幡宮を御創建されました。
その際、土佐国吾川郡の南部一円を六條若宮の神領地として奉納せられ、神地鎮護の神として現在の地に御創建されたのが若宮八幡宮です。時に文治元年(1185年)12月30日のことでした。
以上のことは、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に記されています。
その後、鎌倉、室町の各時代を通じ、武家尊奉の神社として大いに尊崇せられましたが、特に戦国時代に入るや、永禄3年(1560年)長宗我部元親公が、父国親公に従い、本山氏の支城であった長浜城を攻略した際、当社の馬場先に陣所を構え、一夜、心静かに戦勝を祈願し初陣にのぞみましたところ、見事にこれを討ちやぶることが出来ました。元親公はまだ22歳の若武者でした。このことから、当社を出陣祈願の社と定め、社殿を出蜻蛉式建築に改めたことは有名です。とんぼは一名勝虫ともいわれ、昔から縁起のよい虫とされています。
元親公の四国平定の途は、実に当神社の馬場先よりはじまったと申せましょう。
なお、高知市一宮の土佐神社は元親公の凱旋報賽社として崇敬せられ、御社殿は当社とは逆の入蜻蛉(いりとんぼ)式建築になっております。
元親公が土佐守として浦戸城に居城するに及び、特に当神社を西ノ宮と称え、歳月の祭儀を厳重に執行せられました。更に慶長5年(1600年)山内一豊公が新たに土佐国主に封ぜられ、当初浦戸城に、その後大高坂城(後の高知城)に移られてからも崇敬の念篤く、祈願八社の中の一社として年々の祭典はもとより、藩主の交替毎には社殿の修理が官費をもって行われました。
明治維新後は山内藩との関係も絶え、明治6年(1873年)郷社に、更に昭和5年には県社に昇格され終戦を迎えました。戦後はこうした社格もなくなり、宗教法人若宮八幡宮として、長浜、御畳瀬、浦戸、瀬戸、横浜地区の総氏神、更に又、厄除け開運の神、安産の神、雨乞いの神等として、近郷近在の里人から広く信仰を集めております。
-若宮八幡宮公式Webより

御社殿
トンボは一名、勝虫ともいわれ、戦には縁起のよい虫とされました。
神社の本殿をしっぽに見立て、トンボが飛び立とうとしている姿になっている建築様式で、元親公が御定めになられました。
-若宮八幡宮公式Webより



長宗我部元親公初陣祈願之宮
若宮八幡宮 御朱印
つづく
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