~北へ~(457)82日目⑤ 恵林寺Ⅲ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





いよいよ、武田不動尊が祀られている恵林寺の庫裡に入ります。



禅寺のなかでもめずらしい、日本有数の大庫裡です。



織田信長による焼き討ちの後、徳川家康によって再建された壮大な伽藍は、
明治38年の火災によってそのほとんどを焼失していまいました。

 

現在の本堂、庫裏も、明治末期に再建されたものです。
戦中には東京の学童疎開の場となり、小学生約150人が
寄宿生活を送った場所でもあります。


 風林火山


疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山
(その疾きこと風の如く、その徐かなること林の如く、
 侵掠すること火の如く、動かざること山の如し。)



本堂には、ご本尊の釈迦如来が安置されております。

        

西の間は貴人席となっており勅使が端坐される間がございます。



本堂の正面を進むと、左手にみえるのが枯山水式の方丈庭園です。



うぐいす廊下を通るとその先が武田不動尊が祀られる明王殿です。
日本の古来の建築物に見られる、人が床の板の上を歩く事によりきしみ音が鳴る様につくられた仕組みを、うぐいす張りという。外部侵入者の危険探知の為に設けられたのがはじまり。廊下を歩くと、うぐいすの鳴くような音が聞こえてくる。 -公式Webより

 
 武田信玄
信玄は俗名を晴信といい清和源氏の新羅三郎義光の子孫信虎の嫡子として大永元年十一月三日石水寺城に生まれた。幼少より禅僧に学び、のちに快川を師と仰ぎ又好んで六韜三略、孫子、呉子等の兵法を学び、十六才の時元服して大膳大夫、従五位下に叙せられた。甲信両国の太守として早くから天下制覇の大志を抱き川中島5度の大合戦の後、北条と和し、越前の朝倉、近江の浅井や本願寺と結び足利義昭の意を受けて元亀三年三万の大軍を率いて上洛の途につき三方ヶ原に織田、徳川の連合軍を破り更に三河の野田城を陥れて宿願成らんした時、病を得て帰国の途中信州駒場で死去した。
信玄は稀にみる軍略家であり又外交家、民政家でもあり、仏教にも深く帰依し徳栄軒と号し大僧正の位を受けた。(原文ママ)   -案内板より


       
 明王殿
武田信玄公が生前に対面で摸刻させたという、等身大の不動明王が
安置されており、「武田不動」として今なお尊崇されております。

    
(殿内は撮影禁止の為、画像は公式Webよりお借りしました)
 武田不動尊・二童子像
山梨県指定文化財(木造・三躯/室町時代)
信玄生前のお姿を仏法の守護神・不動明王に見立て、京から西佛所職「康清」を招き対面にて摸刻させたという等身大の坐像。
伝承によると、信玄は剃髪した毛髪を膝に混ぜ、自ら坐像の胸部に刷毛で塗りこめたと伝えられている。 -案内板より






                              つづく







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