~北へ~(455)82日目③ 恵林寺Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





甲斐源氏の鎮守 菅田天神社の次に訪れたのは、
信玄公が「武田不動尊」として祀られている「恵林寺」です。

       

恵林寺の南の入口に建つ薬医門形式の総門(通称:黒門)をくぐり抜け、

      



参道を進むと見えてくるのが四脚門(通称:赤門)。徳川家康の再建と伝えら
れるもので、恵林寺の山号である「乾徳山」の額を門の上に掲げています。

       

 恵林寺四脚門(重要文化財 明治四十年八月二十八日指定)
丹塗りの門であるところから通称「赤門」と呼ばれている、切妻造り、檜皮葺きで、本柱、控柱とともに円柱を用い、柱には綜形が付けられ、柱下には石造礎盤が置かれている。中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行に通した頭貫で繋ぎ、その上に台輸を架し大科枠・肘木・実肘木を組み、軒先を海老紅梁で繋いでいる。
このように極めて簡単な構造であるが、全体に木割りが大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現している。 -案内板より


     

四脚門(赤門)をくぐり、庭園を進んでいくと、次なる門・三門です。
この三門には織田信長の焼き討ちで壮絶な火定を遂げた快川和尚の
遺偈が掲げられてます。
この三門は、その悲劇の現場に建てられていると伝わります。

       
恵林寺三門 付棟札一枚(山梨県指定文化財 昭和六十年三月十九日指定)
 構造は一門一戸、楼門形式、この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し仏殿を法空・涅槃模試、そこへ入る端緒たる三解脱すなわち空門・無相門・無願門の意による三解脱門の略で、快川国師が織田軍の兵火で焼き討ちを受けた折り、「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火自ら涼し」と唱えて火定した場所に建つ。
 四本の隅通し柱は、階下が角柱造り、階上部分を円柱造りとする技巧を凝らし、実肘木・板肘木・木鼻などに見られる渦巻き状の絵様は室町末期から桃山期にかけての名作技法である、小規模ながら総体的に溢れる重厚・荘厳さは、同時代の建造物の中でも逸品とされている。
  平成七年三月   塩山市教育委員会   -案内板より


 
  安禅不必須山水 滅却心頭火自涼
「安禅は必ずしも山水を須いず 心頭を滅却すれは火も自ら涼し」
(安らかに座禅をくむには、必ずしも山水を必要とするわけではない。
 心の中から雑念を取りされば火さえも涼しく感じるものだ)
   子供の頃よく爺ちゃんに言われたものだ。

 
 乾徳山 恵林寺
臨済宗妙心寺派の名刹で、元徳2年(1330)の創建。往古は、鎌倉、円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。元徳2年当時甲斐牧ノ庄と称した当地地頭職(領主)二階堂出羽守貞藤(道蘊)が、七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。戦国時代武田信玄の尊崇を受けた快川国師の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)信玄自ら寺領寄進し当山を菩提寺と定めた。境内には本堂、庫裡、開山堂、赤門(重文)、三重塔がならび巨刹らしい雰囲気である。三門に掲げられた快川国師の「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」は有名。また境内の信玄公宝物館には、武田氏関係の貴重な資料を常時公開。 山梨県甲府市  -案内板より








                              つづく







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