~北へ~(432)80日目④ 日本100名城 躑躅ヶ崎館(武田神社)Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら


信玄公墓所に続き、甲斐国守護 武田氏の居城「躑躅ヶ崎館」に。

        

甲府盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置しており、
東西を藤川と相川に囲まれ、背に詰城である要害山城を
配置した構造になっています。



現代は、甲斐の國の総鎮護 武田神社が鎮座しております。



武田神社の正面、朱色の神橋が架かる南側は、本来虎口は設けられて
おらず、現在みられる橋・石垣は後世に造られたもの。



まずは、堀沿いを東側に回り込み大手口へ。



別名躑躅ヶ崎館跡と呼ばれる史跡武田氏館跡は、永正16年(1519)に武田信虎によって築かれ、信玄・勝頼と武田氏三代の本拠地として使用されました。二町(200m)四方の規模を誇る主郭部は、武田氏の生活の場であると同時に領国を統治するための政庁であり、武田氏の勢力拡大に伴い、曲輪と呼ばれる堀と土塁で区画された付属施設が主郭部の周囲に増設されていきました。天正9年(1581)に武田勝頼は新府城(韮崎市)を築城し、本拠地を移転したため、武田氏館は一時機能を失います。-案内板より



しかし、翌年武田氏が滅亡すると、織田氏・徳川氏・豊臣氏によって甲斐国の統治拠点として再整備され、その後甲府城が築城されるまで使用されたと考えられます。館の正面玄関にあたる大手には惣堀と土塁で囲まれた曲輪の存在が確認されています。整備前の発掘調査によって、武田氏滅亡後に築かれた石塁などとともに新たに造営された曲輪であることが明らかになりました。-案内板より

                     *説明板画像はクリックで拡大
 
 東側馬出(大手石塁)a       


 大手虎口(東側)

 
 厩跡(礎石)d         

 
 東馬出曲輪土塁 b c      

    
 東馬出曲輪東側の惣堀と土塁     
                       










                               つづく







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