沖縄 編(37)4日目⑫「島守の塔」 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


                 [沖縄 編(36)のつづき]





 摩文仁の丘を下り、島守の塔に。



島田 叡知事、荒井退造警察部長外、戦没した458人の県庁職員を
合祀した塔であります。



島田 叡は、1945年(昭和20年)1月10日、沖縄県知事の打診を受け、即受諾した。各官庁と折衝すると称して東京に頻繁に出張していた前任者の泉守紀[注釈 1]には、出張中にも係わらず、香川県知事の辞令が出された。沖縄への米軍上陸は必至と見られていたため、後任者の人選は難航していた。沖縄に米軍が上陸すれば、知事の身にも危険が及ぶため、周囲の者はみな止めたが、島田は「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」として、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ。
同年1月31日、島田は赴任するとすぐ、沖縄駐留の第32軍との関係改善に努め、前任者のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していった。
[注釈 1]軍人嫌いの泉は、ことあるごとに軍部と衝突し、政府の県民疎開の方針に公然と反対したため、疎開は立ち後れ、10・10空襲に際しては県庁に出張せず、終始防空壕に避難し、空襲後はいち早く那覇から脱出するなど、警察部を除く県政に大きく支障をきたしていた。
(Wikipediaより)




慰霊塔の先には、終焉の地と書かれた碑が建っております。

 

1945年(昭和20年)6月9日、島田に同行した県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい。」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じた。同年6月26日、島田は荒井退造警察部長とともに摩文仁(糸満市)の壕を出たきり消息を絶ち、今日まで遺体は発見されていない。
元兵士による「(島田は)壕で自決した」との証言もある。また、1971年(昭和46年)9月1日付の沖縄タイムスに掲載された記事によれば、機関銃隊の兵長だった山本初雄が、「私ら独立機関銃隊の一部は敗走し、摩文仁の海岸から具志頭の浜辺に出た。日没時、食糧さがしに海岸沿いを糸満方向へ約二百メートル行った。海のすぐ近くにごう(壕)があり地方(民間)人が三人いて“知事さんがはいっておられますよ”という。奥行き六メートルくらいの横穴で、頭を奥にし、からだの左側を下にしておられた。“知事さんだそうですね”とたずねると“私は島田知事です”と胸から名刺を出した。“負傷しているんですか”ときくと、“足をやられました”といわれた。知事さんが“兵隊さん、そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい”と言った。何も食べ物がないときですよ。えらいと思います。二つもらって“元気にいて下さい”といって自分のごうに戻ったのを忘れません。その翌日、海岸に流れついた袋の中にはいっていたメリケン粉をハンゴウで炊いてスイトンをつくり、島田知事に持って行った。ところが、先日と同じ地方人が“知事さんはなくなりましたよ”という。ごうにはいるとヒザのそばに短銃があった。右手から落ちたような感じで“ああ自決したんだなあ”と思った。合掌して知事さんのごうを出ました。知事は白の半そでシャツ、ズボンはしもふりかと思ったが軍隊ズボンではなかった。髪、ヒゲは大分のびていた」と証言をした
(Wikipediaより)


手を合わせていると、どこからか子供たちの唱和が聞こえてきた。
よく聞き取れなかったが「~ここに誓います」は聞き取れた。
帰宅後、調べたら「平和学習」「平和の誓い」なるモノがある事を知った。
その内容は、特定のイデオロギーに偏っているように感じ、正確性に欠ける部分も見てとれた。
戦争の歴史教育は大切だが、一方的なイデオロギーによる教育は、教育でなく洗脳ではないだろうか。






                           つづく