3月のある日、道場にいた竜馬は組頭の深尾甚内の小屋に呼ばれた。
甚内はしょうぎにこしをおろしている。竜馬のような郷士の子は土間にひざまざるをえない。
「ご家老がお前を連れて来いとおおせある。すぐに支度しろ」
と甚内は命じた。
言葉が恐ろしく高圧的である。
他藩と比べて、土佐藩程階級のなものが軽格に対して権高な藩はなかった。
竜馬は「へっ」
と恐縮するべきところであったが、この男の癖で、ただ黙ってニコニコ笑っている。
甚内はむっとしたらしく、
「相わかったか」
「うん」
といった顔で竜馬はうなずき、
「御用は何でござる」
「行けばわかる。申しておくが尾までは町郷士ので例に習わぬ。
そそうがあってはならぬぞ」
りょうまはともなわれて山田八右衛門の前に出た。
八右衛門は兜こそかぶってないが先祖伝来の古びた黒川の具足の上に陣羽織をはおり、
古道具屋の店頭の五月人形のような恰好をしていた。
「坂本竜馬ちゅうのはお前のことかい」
と八右衛門は言った。
「はい」
にこにこ図を上げて八右衛門の具足姿を見ている。
組頭の深尾甚内はイライラして
「竜馬、頭が高い」
としかりつけ、二度目には竜馬の首の根を抑えて力ずくで頭を下げさせようとした。
竜馬はこの温和な男にすれば珍しく、
細い切れ長の目をかっと開き、
「うるさい」とどなりつけた。
一座が蒼白になった。
軽格のものが上士に怒鳴るという例はかつてない。
引用著書
「竜馬がゆく」
司馬遼太郎