$宇田明のウダウダ言います

新聞のなにげない記事
「アサヒ、カルピス買収へ」
2012年4月28日朝日新聞(田舎には夕刊がなく、漫画も小説もまとめて朝刊に掲載)
年配の人には「初恋の味」としてなつかしいカルピス
このカルピスの創業者が、
1910年(明治43年)、東京府上大崎(目黒)においてカーネーション栽培をはじめ、
「カーネーションの父」とよばれる土倉龍次郎、
ということを知っている人は少ない
カーネーションとカルピスは切っても切れない仲

$宇田明のウダウダ言います

いままさに母の日商戦真っ盛り
土倉龍次郎の生涯をたどることは無意味ではない
奈良県吉野郡川上村
「吉野林業の父」、「日本の造林王」とよばれた土倉庄三郎
その次男として生まれた龍次郎は、
1895年(明治28年)、若干25才で台湾に渡る
日清戦争後、台湾を領有した日本は、
台湾先住民、いわゆる高砂族がいる山岳部には手がだせなかった
そこに龍次郎は1万町歩300年の借地権を得て、
(林業家のスケールの大きさ
1万町歩=3,000万坪=甲子園球場600万個分を300年!、
香港を強制的に借地した英国でも99年)
先住民の抵抗のもと植林を進める
さらに、台湾の工業化を推進するために、
初の本格的な発電事業として、
1903年(明治36年)、台北電気株式会社を設立
現在、「林業・水力発電の先駆者」として、台湾の歴史に名が残る
吉野川上村の土倉本家の財政が放漫経営で傾く
台湾での事業を財閥三井合名会社に譲渡した龍次郎は
本家を助けるために1909年(明治42年)帰国
目黒でカーネーション栽培をはじめ、
「カーネーションの父」とよばれた
なぜ林業家、企業家がカーネーションをつくったのかは
ここではふれない
一方、龍次郎の弟 五郎と
北京に「日華洋行」を設立した三島海雲は
1903年(明治36年)日露戦争に備えて
軍馬調達のため内モンゴルを訪れた
口にしたのが、後のカルピスのヒントになる乳酸発酵物
1912年(大正元年)辛亥革命がおこり清朝が滅亡、
1915年(大正4年)三島らはすべてを捨てて帰国、
無一文になるが、
1917年(大正6年)五郎、龍次郎とともにカルピス社の前身、
ラクトー株式会社を設立し、
カルピスを製造販売
初代社長は台湾で土倉の事業の総支配人だった津下紋太郎、
自身は監査役に就任
戦後、長男 富士雄が1983年(昭和58年)まで社長、会長を務めた
下の龍次郎の肖像画は、三島海雲とともに、
カルピス社長室に掲げられていたが、
2007年 味の素との経営統合とともに取り外された

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写真 カーネーションの父であり、カルピス創業者の土倉龍次郎

今度は味の素からアサヒグループへ
アサヒビールには、
カルピス創業者の一人土倉龍次郎が
「日本のカーネーションの父」ということを
知っていていただきたい
花部門をもたないアサヒグループ
これで花との縁ができた
サントリーさんやサッポロさんには悪いが、
来年の母の日が楽しみ
ロマンは受け継がれ、
夢は広がる