いさどんの心と鬼の面 | 宇宙の秘密みかこのブログ

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もうすぐ「富士浅間木の花祭り」の日がやってくる。1月31日の本番まで、みんな夕飯後それぞれの練習をする為に、夕食の時間を6時にした。この祭も2013年に始まって以来、今年で三年目になる。

富士浅間木の花祭りは、愛知県奥三河の天竜川水系にある東栄町の「花祭」に由来している。花祭は、鎌倉時代末期の頃、熊野の山伏や加賀白山の聖などによって伝えられたといわれ、約700年続いている。国の重要無形民俗文化財に指定されており、東栄町の中にある11の地区がそれぞれ独特の花祭を開催している(11月~3月)。

東栄町の榊鬼


この祭の意味は、太陽の力が衰える寒い冬の季節に、次の季節の生命の復活と豊穣を願う「豊穣祈願」、そして「無病息災」に加え、人間が心をきれいにして「生まれ清まる」という深い意味がある。さらには、祭の中で舞い手も奏者も観衆も神とひとつになってうねる「神人和合」を表現する祭でもある。

この貴重な祭が、縁あって木の花ファミリーでも行われることになったのは三年前である。木の花ファミリー創立以前から懇意にさせていただいている、花祭の研究家である大野富士夫さんからの声かけがあって、木の花ファミリーで本格的に行う流れになった。本場の東栄町では若い舞い手が減っており、地区ごとの存続が難しくなっている。他の市町村から舞い手がきて存続させている地区もある。

木の花ファミリー初期メンバーは実際に花祭に参加したことがあり、木の花創立以来、節分にはみんなで東栄町の花祭で観客が鬼に向かってかける「てーほとへ、とほへ」というかけ声をして子供たちが鬼の舞をしてきた。
そして七年程前に、いさどんから「木の花独自の節分祭を創るように」という提言を受けて、節分祭に取り入れ三年前までやっていた。

子供鬼の舞
「テーホトヘトホヘ」のかけ声で舞う子供達

子供榊鬼
初代榊鬼の、靖太郎

いさどんから東栄町の花祭のことは度々聞かされてきたが、本場の花祭りを知らない私たちのオリジナルの舞のリズムを聴いて、時折、いさどんが「こういうリズムじゃないんだよなあ」とつぶやいていた事が印象に残っている。又、5分、10分の舞で息を切らしているメンバーに、「本場の花祭は、一時間以上は舞うんだぞ。そんなことで疲れているようじゃダメだ。」と、笑いながら語っていた。

そんな木の花ファミリーに、三年前に花祭を伝承しないかという話が持ち込まれた。まずは本物の花祭を体感しようということで、東栄町布川地区でシーズン最後の花祭があるというので、10名ほどで参加した。その地区では、若手が不足しているようで、かなり高齢の男性が舞をしていた。舞手の一人の男性は酔っていて口が悪いのだが、それがいい味を出している。

「舞庭(まいど)」と呼ばれる祭場には観衆が渦巻いて、「テホへ」に代表されるかけ声と歌ぐらで舞手を励ます。
花祭りは悪態祭りとも言われ、この日ばかりは、どんな悪態をついても許されるという。
ほろ酔い加減の観衆(セイト衆)がつく軽妙な悪態ぶりは、舞庭に笑いを引き起こし祭を盛り上げるが、近頃は名人と呼ばれる人が少なくなったという。

又、いさどんが舞手のある男性をさして「あの男性は、花祭の名物で、いろんな地区の花祭りに出没しているんだよ」と言っていた。
激しい舞をとても上手に舞っている若い十代の舞手の少年少女は、花祭保存会から来ているようだった。
実際の祭で、笛、太鼓、歌と舞に観衆も加わり、みんな一体となって舞い踊り、共に揺らぐのは心地良かった。

祭の演目はとても多く、夜通しいろんな舞が行われる。メインの榊鬼の舞は夜中の3時ぐらいだったと記憶している。圧巻は、夜も明けてうっすらと明るくなった頃に行われる「湯ばやし」だ。少年が舞うこの舞は、長時間舞い続けた後、舞のクライマックスで、舞庭の中央の釜戸の湯を、舞手が持っていた「たわし」で会場中に振りまく。長時間舞う少年たちの表情は、トランスに入ったかのようにとても美しかった。一種の神がかり的な状態になるのかもしれない。この少年たちが振りまく湯がかかると今年一年健康で暮らせるなど御利益もうたわれているが、そこにはもっと深い意味がある。

舞庭の中央にある湯釜には、清水(特に、木の花祭りでは全国各地から集まる清水)が注ぎ込まれ、火を焚くことで舞庭に湯気が立ち上がる。そこでは、天の象徴である「火」と地の象徴である「水」が出会い、火と水で神(カミ)となり、天地創造が起こるのである。釜戸から立ち上る湯気に宿る神々とともに、釜戸の回りを大勢で長時間ぐるぐる舞いながら回る事で、ともに天地創造を表現しているのだ。この世界は全てのものが回転し螺旋を描いて生命を存続させている。そして、右回りと左回りのくり返しが「満ちては欠ける」というこの世界の仕組みを表現する。
そんな釜戸のお湯が祭のクライマックスで舞庭に振りまかれるのだ。この祭の体験は、私たちの心に残った。

湯釜
この釜戸の回りで、これから舞が始まる

観衆1
釜戸の回りでうねる観衆

その後、今度は大野さんが段取りして下さって、実際に笛、太鼓、歌ぐら、舞を教えてもらうために現地に何人かで出向いた。その時点では、エッセンスだけをもらって、独自の舞をつくろうと思っていた。しかし、そこで本場の方々のお話を聞くうちに、ちょっとさわりをかじるだけでは出来ないことが分かった。花祭りの笛、太鼓、歌ぐら、舞は全て一体のものであって、切り離せるものではないのである。

しかも、舞の数はとても多く、一つの舞もとても長い。舞も演奏もひとつひとつが意味深いものである。丸ごと学んで、一通りのことをやろうという流れに自然となっていった。笛、太鼓、舞、祭事の前後に行う神事の行程の他に、会場を飾る「ざぜち」と呼ばれる切り絵の切り方、天井から湯釜の上にふさふさとぶら下がる美しい五色の「湯蓋」等の作り方に至るまで、現地へ行って直接本場の方々から伝授していただいた。ひとつひとつが、精度が高く芸術的で、私たちがそれまで見よう見まねでやっていたことが如何に幼稚であったかが分かった。

湯蓋
本場東栄町の舞庭の湯蓋

笛隊
木の花の笛隊

この新たな試みに対する木の花のメンバーの意気込みはすごかった。普段笛など吹きそうにないメンバーが次々と笛を吹き出し、音感が悪そうと思っていたメンバーが、花祭の舞になったとたんに生き生きと舞う。もちろんそこには大変な努力があるのだが、生き生きと花祭の練習に取り組むメンバーたちの姿を見て、時が来ればこうして人はやるべき事「約束」に目覚めてゆくのだと思った。その後も、さらに何度か現地へ伺ったが、毎回現地の方が何人も集まって下さって、とても熱心に教えていただいた。

何故私たちはこんなに花祭に真剣になるのか、分からなかったが、何か目に見えない強い力が働いていることは確かだった。みんなの中に、「火がついた」という感じだった。

花祭には、様々な鬼が、個性的な面をつけて登場する。鬼は「鬼様」と呼ばれ、みんなに親しまれている。中でも、メインの鬼は榊鬼と呼ばれる鬼である。最も大きな面をつけて舞う鬼の総大将である。
一般的には、節分には「鬼は外、福は内」といって豆まきをするように、鬼は人間たちに疎まれ恐れられる存在である。鬼が災いをもたらすものとされているのである。
ところが、東栄町の花祭りでは、鬼が主人公であり、人気者である。神に等しい存在として親しまれ、敬われている。

榊鬼の舞の最中に、「榊鬼と翁の問答」のシーンがある。その中にいずれ富士に花祭りが伝承されるということを示唆するくだりがある。「やいやい 伊勢天照皇太神、熊野権現、富士浅間。所は当初の氏大神。神の稚児の舞遊ばし給うこの御庭を、ことどもしき姿をして舞荒らすは なんたる何ものにてさむらう」という翁の台詞が出てくる。「富士浅間」が何故ここに出てくるのか。今、富士の麓で暮らす木の花ファミリーの元に花祭が「富士浅間木の花祭り」として受け継がれていることが答えなのではないだろうか。

問答
榊鬼と翁の問答シーン

鬼の舞
厳粛な榊鬼の舞

今まで、長いこと、花祭は小さな山村で熱心に行われてきた修験の祭である。この祭に託された深い意味を人間たちは知らずに、しかし大切だからということで引き継がれてきている。

花祭の鬼の意味はとても深い。榊鬼は、「艮の金神」つまり「国常立大神」であると私たちは捉えている。この捉え方は現地の方々の間にはないものである。国常立大神は、鬼または閻魔様となって節分前の寒い時期に現れ、人々の心の闇を浮かび上がらせる。鬼や閻魔様は、怖いものとされているが、本当は地獄まで人々を助けに行く最も慈悲深い神なのである。この一年の汚れを祓い清めるために節目の時にやって来る。節分は農業の暦でいうと、大晦日にあたる節目の時である。翌日は立春正月であり、新たな農の暦と共に種まきが始まるのだ。

榊鬼は、斧を振るって、「反閇(へんべい)」と呼ばれる大地を力強く踏みしめる所作をくり返して大地を祓い清め、大地に亀裂を入れて、真冬となって地中に沈み込んだ精霊たちを呼び覚まし復活させる。鬼が激しく舞い踊るとき、祓い清められていく大地の奥から新しい生命が次々と鼓舞されて出てくる。
祭の奥深くには、一度生気を失ったものを復活させる「疑死再生」の考え方があり、この思想がやがて人間の魂の復活を願う「生まれ清まり」の概念へとつながり、花祭の根本理念となったと言われている。

今、近付いてくる花祭に向けて、りょうちんが今年買ったばかりの榊鬼の面に手を入れている。榊鬼の顔に、怒っている表情を出すために、顔に陰影をつけたり、鼻の穴を大きくしたり、角を増やしたりと、数々の工夫を凝らしている。買ったばかりの鬼の面は、つるっとして威厳に欠けていた。いさどんは、この面に手を入れて、榊鬼らしい表情をつくりたいとしきりに言っていた。

いさどんの想いを受けて、りょうちんが手足となって鬼の面に手を入れていく。いさどんは毎日散歩がてら、りょうちんの作業場に顔を出してりょうちんと話し合いながら、自らもやすりで角のカーブを出したり、とても真剣にそして楽しそうに鬼の面を見ている。

いさどんとりょうちん2
鬼の面の前で話し合ういさどんとりょうちん

いさどんと鬼の面
鬼の面にやすりをかけるいさどん

ある日、鬼の面を見に来たいさどんが「大鹿窪遺跡」という、この地域に残る縄文遺跡の話をしてくれた。この遺跡は今から何と13000年前(縄文時代草創期)の遺跡で、カタカムナとほぼ同じ時代のものなのだ。縄文時代草創期は、氷河期が終了し温暖化に向かう時代にあたり、動植物の生態系が大きく変化した時期になる。それまでの人々は、動物を追いかけて移動を繰り返す生活を送っていたが、この時期になると、煮炊きする道具である土器が開発され、住居を作りそこに留まりながら、植物を採集し魚や動物を狩猟する生活を送るようになった。このような定住化の初期の段階が縄文時代草創期であり、大鹿窪遺跡にはその痕跡が残されていた。

大鹿窪遺跡


木の花のメインの施設であるひまわりや、新たにできた湧泉閣もこの地域に属する。一昨年に出会った、富士山の向こう側「艮の方角」にある不二阿祖山太神宮は、6000年前に栄えていたといわれる古代富士王朝の復活ということをいっているが、こちら側にはその二倍以上も古い遺跡があって、その上で私たちは暮らしていたのだ。

カタカムナと同じ時代の遺跡の上で暮らしているとなると、ぐっとカタカムナが身近に感じられた。実はカタカムナの時代に生きていて、カタカムナを創り出したものであったかもしれない、と想像力が働く。そんな話をしながら、いさどんが散歩のついでに千居の圃場へ蜜蜂を見に行くというので、りょうちんと私も同行した。そういえば千居には「千居遺跡」という縄文の遺跡があることを思い出した。

そのすぐ近くに、いさどんの蜜蜂が住んでいるのだ。鶏舎もこの近くにある。遺跡の看板を見てみると、4000年前の遺跡と記されていた。いさどんは、そんな場所に自分たちが住んでいるということの意味を、りょうちんに伝えたかったのだという。

面の制作場では「ここをこうしたらもっと怒って見える。ここもこうしたらもっと怒って見える。ついでに髪も逆立てるか」とおもしろおかしく話すいさどん。「そしてこれ以上ないぐらいに怒りを表現したら、怒りを通り越して、おかしくなるんだよ。」
鬼が表現する怒りの表情は、心が悪い人間に「それではいかん。間違ってるぞ。」という戒めと叱咤激励の表情なのだ。だからその心は温かい。人間のために怒る鬼の心を人間はなかなか理解出来ない。

ある日、いさどんが日課の散歩をして、私の仕事場であるまことの家に入ってきて「オニという意味をカタカムナの単音で調べるとどういう意味かしっているか?単音豆辞典の104ページを見て」というので、一緒に見てみた。カタカムナで調べたオニの意味は
 「オ」 六方(前後左右上下)へ限りなく拡散、または凝縮する思念  
     大きい、重い、奥の方・潜象の場
 「ニ」 定着する
合わせて考えると、「オニ」とはマクロにもミクロにも限りなく広がる現象界、および現象界の元になる潜象界をも含む、両方の世界の働き(仕組み)を定着させるものである。そして、「鬼が云う」と書いて「魂」となる。魂とはこの世界の仕組みのもとにある心で、鬼は人間に、この世界の道理を伝えるものなのである。そういう説明をいさどんがしてくれた。

一方で人間はどういう存在なのかと考えてみた。そもそも現象界とは、カタカムナ的にいうと、完全にかみ合っていたはずの潜象界の間違いから生まれているので、現象界に生きる人間とは「道理を外しながら学ぶもの」と言うことができる。鬼は、道理を外す人間に対して常に道理を指し示す陰なるありがたい存在なのだ。人間にとって鬼は疎ましい存在になっているが、鬼が陰で働いているからこそ、人間は完全に道を踏み外すことなく守られ、中心の意志の方へと引き戻されながら、この世界に存在しているといえる。

「鬼の存在は大きすぎて人間には見えないんだよ」と、いさどんは言う。
子供が、小さいうちは親のありがたみがわからないように、人間という大きな子供は、鬼の心が大きすぎて見えないのだ。

鬼についていさどんと語っているうちに、鬼の存在は大きく、ありがたいものだという実感が湧いてきた。人間に疎まれ、怒った顔をしながらも、なんと優しい存在なのだろうか。そう思って、花祭の鬼のことを思うと、たくさんの鬼たちの表情が親しみと共に見えて来る。みんな個性的でユーモアに溢れている。
いさどんの顔も、優しい鬼の顔に見えてくる。

東園目鬼の面
本場、東園目の面の数々

ところがそんなふうに鬼に親しみを持っているお祭がある一方で、人々は節分の時に、「鬼は外、福は内」といって、豆まきをし続けている。私自身もそうなのだが、人間はあまりにもものが見えない。「悪気がない」というその心の奥に自分以外の世界への無関心があり、そこからくる無知や世界観の狭さから、自分本位の生き方、考え方から抜けられず、その事が地球温暖化という抜き差しならない事態にまで発展しているのだ。

世界観の狭さや、ちょっとした人間のいさかいが、この世界の自然破壊や、民族紛争という大きなことに発展する。しかし、人間は自分の小さいエゴの心の中にいるので、エゴの心を発することが世の中の大きな出来事につながっていることに気がつかない。自分にしか興味がなく、人のことはどうでもよいという状態が、一見平和に見える、人々の心の中にある。まずはそういう自分の心に気が付くことが大切なのだ。

しかし時は今、今まで通りのやり方のままではもう地球がもたないというところまできてしまった。時の流れが変わり、人間が生き方を変えることが突きつけられている。メッセージはこの世界に溢れ、常に二つの道が呈示されている。

甘い数々の言葉と誘惑による「堕落の方向への道」。そして、自我を超えた「全体の調和の方向への道」。天は人間に自由意志を与え、その結果が、今の地球上にもたらされている現状なのである。堕落しない選択も出来るのだが、人間は堕落の方へとなだれ込むように進んできた。しかし、それも時の流れがそのようなサイクルだったからなのだ。

そんな世界の仕組みの奥で、道理の方へと導く隠れた尊い存在として、鬼がいる。
そんなことに気がついた今日のいさどんとの会話だった。
「いさどんが何故、こんなに榊鬼の面に力を入れるのかが、分かった。」と言うと、
「それは分からんけど、ただ鬼の面を怒らせたいんだ。これ以上ないぐらいに怒らせたら、怒りを通り越して、笑えるだろう?」

怖いと恐れる心には、その怒った顔の奥にある「やさしさ」が見えない。
かつての私も、いさどんの「物事を見通す目」が怖かった。
今、いさどんの目を見ると、優しくてユーモアに満ちていて、深い安心感を持つ。怒ることも演技の一つで、奥の目はやさしいのだ。人間たちが心の姿勢を変えたならば、すぐにも許したいのだ。

買ってすぐの鬼の面買ってすぐの鬼の面

今日も、馬鹿な人間たちが世界中のあちこちでいろんな騒ぎを起こしている。それが人間の役割ともいえるのだろう。それがこの世界を動かしている原動力なのだから。天の道理と「差」がある世界は活気に満ちているのだ。
全ての人が悟った(差をとる)ときにこの世界は±0となり消滅する。

そうしたら、天は又こう思うのだろう。
「このように調和で収まった世界はつまらないから、間違いを起こして、現象界を作ろう。」
そうして、天はかみ合って収まっている世界に「間違い」を起こして、また長い長い物語を始める。そしてその物語は、いずれ全ての物事が「かみ合う」=「神会う」ときまで続くのだ。

 富士の地に 約束の御魂集い来て 神人合和し 弥勒つくらむ

 永き夜に 宇宙(うつ)を旅する星々よ 生くる地巡りて 日月と歩まん


花の舞い終わり
花の舞い

少年の舞
少年三つ舞 やち

女子三舞
女性の三つ舞 扇