人間と機械の間には考えられているほど深い「境界線」はないのかもしれない | 我が学習の変遷の記録(旧・宇宙わくわく共創局)

人間と機械の間には考えられているほど深い「境界線」はないのかもしれない

車のエンジンを入れて、止めてあった場所から離れようとした時、突然エンジンが止まりました。

正直焦りました。時間は朝の7時前で、今から娘を学校に連れて行ったり、色々と車を使ってやることが山積みになっている時間帯です。私は心の中に、いろいろな不安がよぎりました。

私は、何度も何度もエンジンをかけようとしました。しかし、何度試してもエンジンは動こうとしませんでした。少なくとも10回は試したでしょうか。試せば試すほど私の不安は大きくなっていきました。

しかし、私は自分の行為をあきらめ、しばしじっとしていました。

ちょうど私は、自分の周囲の静寂さと自分の中の静寂さについて書いたブログの記事を書いたばかりだったので、自分の周りに静寂が展開してることに気が付きました。

しばし、私も車も静寂の中にいました。静寂の中で、私と車は生物と無生物の境界線を取っ払って、1つになりました。

境界線。

実は、私の車は学校の前の路上に駐車していたのですが、その路上から車を発車させようとした瞬間にエンジンが止まったのです。しかし、そのエンジンが止まった場所というのが絶妙な場所だったのです。それは、路上駐車が許されている白いラインの境界線の直前で止まっていたのです。

それは、私にとってはとても示唆的な出来事のように感じました。つまり、私はその境界線の内側でとても不自由な思いをしていました。不安を募らせていました。しかし、その境界線を乗り越えると、そこには自由があるのです。今思うと、境界線の内側で止まって不自由な思いをしていたのは、境界線を取っ払って、もっと自由になりなさいと言うメッセージだったのかと思います。

車とともに静寂さの中にあった私は、気がつくと車に話しかけていました。

「ねぇ、ちょっとでいいから、短い時間でいいから、エンジンをもう一度動かしてくれないかなぁ。いつも感謝してるからさ。いつも愛してるからさ」

静寂。

そして、私は恐る恐るエンジンをかけてみました。すると、先ほどまで何度試してもダメだったエンジンが、いとも簡単に、何事もなかったかのように、自然に動き出したのです。

私は驚きましたが、それでも1回だけの偶然だろうと思って、エンジンを再び止めて、また試してみました。しかしエンジンはまた動き出しました。それでも私は信じられず、エンジンを止めてエンジンを動かすと言う動作を2、3回繰り返しました。しかし、エンジンは良い意味で期待を裏切り、毎回ごく自然に調子よく動き出したのです。

おかげで、私は家に戻ることができ、娘を学校に連れて行くことができ、ワイフを職場に送ることができ、自分も時間通りに学校に到着することができました。

ある朝起こったほんの10分足らずのわずかな出来事ではありましたが、私にとってはそれは大きな永遠の奇跡のように感じました。

そもそも、人間が日常生活の中で体験する幻想の1つは、人間と機械の関係にあるのだとされています。例えば、機械はいつも自分の思い通りに動くものだとか、宇宙のバランスに反した考え方を持ったり、する事は1つの幻想の形だとされています。しかし、今回私の車が示してくれ た事は、思い通りに動いてくれる機械と、思い通りに動いてくれない機械の両面だったことを考えると、今回の体験は見事にバランスを私に体験させてくれたと言っても良いのかもしれません。

しかし、人によっては、私の経験した事は、単なる偶然だとか、都合の良い解釈だ、のように受け取られるかもしれません。1つの出来事について、いくつもの解釈があるのはごく自然なことですので、それは全く問題ないと思います。

この世界には無数の可能性が同時に存在しています。素粒子のレベルといっても、私たちが固体だと思っているモノも、ミクロのレベルでは実際は99%以上が空間といっても良い状態であり、その空間の中には、無数の可能性が含まれていると言われています。だとするならば、日常生活で体験する出来事についての解釈も無数にあって不思議はないと思います。どうせ多くの解釈があるんだったら、自分の人生にとってエンパワメントするような解釈をしても良いのではないかと思うのです。社会は内なる世界の選択の結果なのですから。

少なくとも、人間である以上、日常生活の中で、自分の思い通りにならないような経験をすることがあるわけです。重要なのは、その時にどのような姿勢でいるかと言うことだと思います。私が冒頭で感じたような、未来に対する不安で心をいっぱいにすると言う選択肢もあるでしょうし、今回私が選択した静寂を選ぶと言う選択肢もあるでしょう。

静寂と言う選択肢は、いってみれば、日常生活の中に空間を見出す事でもあります。その空間というのは、単に外的な空間と言う意味だけではなく、自分の内的な空間も意味します。すなわち、私たちは日常生活の中で、毎日様々な刺激を受けながら生活していますが、心に余裕がないと、言い換えれば、焦点が過去と未来に向けられていると、心の中に空間が持てず、余裕がなくなり、刺激に対して、1つの反応だけしかできなくなります。

しかし、私はエックハルトトールさんの講演会に行ってから、心の中にスペースがどんどん大きくなっていることを感じます。しかも、そのスペースと言うのは、何もないあっけらかんとした無味乾燥なものではなく、私にとってとてもフレンドリーに感じるスペースなのです。フレンドリーと言う言葉にしてしまうと、何か薄っぺらなように感じますが、そこで私が感じている事は、フレンドリーと言う軽い意味ではなく、もっと言葉を超えた実感レベルのワンネス体験と言っても良いのかもしれません。

もし、心の中にスペースがなかったら、私は、未だにあの学校前の路上にとどまっていたのではないかとすら思ったりするのです。

私は、この文章、まさしくその車の中の、スペースの中で書いています。

私は今ここで自由です。

{13073678-7156-4812-92A0-FB490B6CADA0}今日も読んでいただいて、ありがとうございました。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏