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野中恒宏
「動物化するポストモダン」では、オタクを世界的なポストモダンの流れの中で位置づけている。
つまり、「大きな物語」を失った多様化・相対化の時代の中で、「中心」なき物語を生きる存在としてのオタクだ。
今は宇宙戦艦ヤマトのように地球を救う「大きな物語」も無数の物語の一つにすぎないのだろう。
「動物化するポストモダン」でいうところの「動物化」とは、自分の欲望を他者を介さずに、自己完結的に満たしてしまうオタクの閉じた在り方を指しているようだ。
「自由に生きたい」という根源的な欲望を、相互承認する近代の民主主義の大原則はどこに行ってしまったのか?
オタクは本当に自由なのか?
私は普段ほとんど観光をしないが、東浩紀さんの「観光客の哲学」「訂正可能性の哲学」を読んで観光に対する見方が「訂正」された。
二項対立の世界から距離を置いた「観光」の次元では、これまでの「当たり前」を超えた新しい物語(実は〇〇だった)が見え、新たな言語ゲームが展開される可能性が広がる。
「ウクライナと新しい戦時下」(東浩紀著)を読んで、今のウクライナと昔見た新宿の光景が一瞬重なる。
独立広場で泣き崩れるウクライナの女性と新宿の地下道で胸に手を置き苦しむ老女。
他者の痛みに慣れてしまったのか余裕がないのか、声もかけず人々は通り過ぎていく。
日本も別の形での「戦時下」かも。
長く生きていると許せない他者と出会うことは珍しくない。
特に今日のような「不寛容の時代」では相手の存在すら否定するようなケースも目につくが、最低限他者の存在は認めるべきではないか。
そこから批判すべきは批判していけばいいのではないか。
存在に不寛容になった結果は歴史が何度も示している。
今朝突然頭に湧いてきたのだが、日本庭園や茶道や武道の中に見られる素朴さやシンプルさは、その背後にある奥行きや複雑さを同時に表現しているのだなぁと。
複雑さがあるからこその単純さ。
複雑さは肉眼では見えないので抽象化思考や感じることで体験する必要がある。
複雑さから切断されたタイパは痛い。
物事は複雑で、単純な構造や因果関係で理解することは不可能。
物事の単純化は偏見や差別を助長する温床に。
しかし限られた時間の中で人間は全てを理解することも不可能。
だからこそ、学びを通じて、物事を可能な限り複雑なものとしてアップグレードして訂正していく姿勢を学ぶことが重要。
学校でも同じ。
むずかしいタスクに挑む時、子どもの中には弱音をはきたくなる子もいる。
そんな時、トトロが海を越えてオーストラリアの子どもたちにも優しく微笑みかけてくれる。
どこの子もトトロの前では素直な気持ちが出せる。
子どもの時にだけあなたに訪れる不思議な出会い🎵
良い心があっても健康な良い体があるからとは限らない。
過去に大病を患った偉人は無数。
心身は相関しているが、いつもそこに絶対的な因果関係があるとは断定できない。
だとしたら体の痛みを言い訳にしていい加減な生活態度を取るより、自由意志を使って前に進みたい。
五十肩の激痛に顔を歪めながら。