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モナカ寅次郎



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                       こんにちは。モナカ寅次郎です。


私のミッションは「つなげる」こと。厳密にいえば、すべてはすでにつながっているので、その「つながり」に目覚めるお手伝いをすること、あるいは、「つながり」を深めていくお手伝いをすることです。


そのために、私はさらに日々精進し学んでまいります。そして、そのささやかな学習体験をみなさんにシェアしていきたいと思います。そして、特にDrディマティーニの教えを少しでも世界に日本に広げることで、さらに「目覚め」を精力的に進めて行きたいと思っています。


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2017-07-22 06:00:00

The Life Cycle - 全ては「大いなる存在」から生まれ、「大いなる存在」へ帰っていく

テーマ:┃- 宇宙の根源的な存在

 

 

 

この宇宙のすべては「大いなる存在(Being)」から生まれ、「活動(Doing)」を体験し、そして、再び「大いなる存在」へ帰っていきます。

別の言い方をすれば、全ては形を超えた次元からすべての形がうまれ、また、形の次元へと帰っていくといえます。

それは、人間一人の人生のサイクルにもみられることであり、

人間の「夢」から覚めて、一日の活動を体験して、また、「夢」に戻っていく際にもみられることであり、

静寂(Stillness)から音(sound)が生まれ、音が静寂に帰る際にもみられることであり、

空間(space)から、物体(objects)が生まれ、また、空間へと戻る際にもみられることであり、

ちょっと感覚を「いまここ」で研ぎ澄ませてみると、様々なサイクルが私たちの内外で展開していることがわかります。

しかし、私たち現代人の多くは、「思考中毒」ともいうべき、思考の強力な流れが頭の中を満たしており、なかなか、「大いなる存在」や、その入り口となる「エネルギー」を体験することができにくい状況にあります。いいかえると、「大いなる存在」から切り離された「思考」を自分自身だと思い込み、様々な「問題」を生み出しているようです。

だからこそ、「いまここ」で、思考をストップさせて、体内のエネルギーを感じ、そこから「大いなる存在」に飛び込んでみると、そこには「静寂な空間」があり、思考を超えた深遠な叡智があり、二元論を超えた深遠な愛があり、私たちは真の平安を体験することができます。

 

オーストラリアより愛と感謝をこめて。

野中恒宏

 

 

 

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2017-07-21 06:00:00

「言葉」の背後に飛び込んでみたら愛が出てきた

テーマ:┃- 愛

 

 

私はこれまでの学びの中で、この世界は「形」と「形を超えた世界」の両側面から成り立っているということに気がつきました。しかし、それでも私の学びの中で気がついていない点がありました。それは、エネルギーというレベルの認識でした。

 

それまで私はエネルギーというのも漠然と「形」のない次元に属するものだと思い込んできました。しかし、エックハルト・トールさんの「パワーオブナウ」を読み返していたら、エネルギーというのは、「形」と「形を超えた世界」の中間点であり、「形のない世界」への入り口であり、「形」を生み出す出口でもあることに気がついたのです。

 

この認識は私にとっては、とても重要な意味を持ちます。

 

すなわち、私の意識をいまここにもってきて100%「存在そのもの(Being)」になるためには、まずこのエネルギーを通過してその先の「空間(space)」や「静寂(stillness)」に飛び込む必要があるというクリアな認識を得たからです。それまでは、私は自分の身体の中で振動するエネルギーを感じることがすなわち「存在そのもの(Being)」になることだと思ってきたのです。

 

しかし、エネルギーというのは、そもそも動きを伴っており、「活動(doing)」を表現しているので、それは「存在そのもの(Being)」ではなかったのです。「存在」というのは、「活動」を生み出す「静寂(Stillness)」であったのです。

 

たとえていうなら、二つのベルをぶつけて音を出すことを思い浮かべていただければわかりやすいと思います。まずぶつける前にはそこに「静寂」があります。そして、そこから二つのベルをぶつけようというエネルギーが生まれ、「音」を発生させます。そして、その「音」はやがて、「静寂」へと戻っていきます。私はこの「静寂」と「音」という、「形ではない次元」と「形」の二点にのみ焦点を当てており、その中間の「音が生まれていくプロセス」や「音が消えていくプロセス」が眼中になかったのです。

 

そして、私は、この「音」と「静寂」、「形」と「形を超えた次元」の中間点であるエネルギーから「存在そのもの(Being)」の次元へと入り込むことこそが、大切であるという体験をしたのです。

 

昨日、授業中、二人の生徒(男子生徒と女子生徒)が大きな声で言い争いにも聞こえる状況になったのです。私は思いもかけず飛び込んできたその状況によって、「存在そのもの(Being)」から切り離された「無意識」状態になり、視点も過去や未来の間を行ったり来たりして、ちょっと感情的に対応してしまったのです。「せっかくきっちり授業の準備をして最高の授業をしようと思ったのに邪魔してきた!」とか、「こんなことが親や校長の耳に入ったらどうしよう」という過去と未来が頭の中を駆け巡り、文字通り頭の中がカッとした燃えるような状態になってしまったのです。何とか意識をいまここにもってきて、「存在そのもの」になりきろうとしたのですが、私の中で発生した感情は強烈で大きく、私は、いつまでも生徒たちの言葉や行動などの形にこだわり続ける状態が続いてしまったのです。

 

そして、今朝、近くの公園を散歩しているときも、そのことが頭を離れず、いつまでも頭の中をネガティブな思考が駆け巡っていました。しかし、歩いているうちに、ふと、その思考が途切れる瞬間があり、私はふと、昨日の教室の状況を再現してみたいと感じたのです。それも単にその状況を映画のスクリーンのように思い浮かべるというレベルではなく、実際に言い争いに聞こえるくらい大きな声で話していたそれぞれの生徒たちの内面に「いまここ」で飛び込んでみたのです。そこには文字通りの「静寂」の「空間」がありました。そこには、相手に対する決めつけの感情もなく、何の言葉も思考もありませんでした。

 

そして、そこから、その生徒の表現した言葉のレベルへと意識をシフトさせたのです。すると、そのときに生徒から言葉が生まれる直前に、私はそこに純粋なその生徒のエネルギーを感じたのです。それは言葉になる前のものであり、言葉で100%完璧に表現することはそもそもできないのですが、あえて、それを言葉で指し示すと、それは「僕を愛してほしい」「僕は君が好きだ」「僕に気がついてほしい」「私のことをわかってほしい」「あなたに誤解してほしくない」「こんなの本当の自分じゃない」という感じのエネルギーだったのです。

 

それは愛でした。

 

そして、その愛のエネルギーが「言葉」という形でお互いの間で交わされ、それが、言い争いにも聞こえる強く大きな音として私の耳に入ってきたということに気がついたのです。私はその言葉という形のみに注目していたのです。言い換えれば、彼と彼女の「言い争い」は単なる一つのエネルギーのパターンから産まれたものだったのです。

 

さらには、その「言葉」がやがて「エネルギー」レベルになり、再び「静寂」になっていくプロセスをクリアに感じることができたのです。それはまるで、静かな海面から大きな波が生まれ、それが再び静かな海面にもどっていったことを体験したかのような感覚でした。

 

私はいつの間にか頭の中から燃えるような怒りが消えていることに気がつきました。そこには、静寂の空間がありました。いいも悪いも、過去も未来もなく、ただいまここに存在しているだけでした。

 

私たちの存在のエッセンスは愛だったのです。

感謝につつまれました。

 

まさしく「目覚めの朝」でした。

 

 

今日も読んでいただいて、ありがとうございました。

オーストラリアより愛と感謝をこめて。

野中恒宏

 

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2017-07-19 20:08:04

思考をストップさせると天才になれる?!

テーマ:┃-目覚め・悟り

 

 

 

古今東西に、様々な天才が存在していますが、そうした彼ら彼女らの共通点はいったい何なのでしょうか。

私は実は、本当の天才というのは、「思考をストップさせる天才」ではないかと思うのです。

 

「えっ? 天才っていうのは思考を使うから天才っていうんじゃないの?」

 

という疑問をもたれた方もいらっしゃると思います。

 

では、いったい、思考を止めるってどういうことでしょうか? 

 

どうして思考を止めることと天才は関係しているのでしょうか?

 

どうぞご覧くださいませ。

 

オーストラリアより愛と感謝をこめて。

野中恒宏

 

 

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2017-07-19 07:00:00

「生かされている」という体験のパワー

テーマ:┃- 宇宙の根源的な存在


私は人生の中で何度か「自分は生かされている」と感じた瞬間がありました。それはプールで溺れかけているときに、自分はもうダメだと思って諦めかけた時に、家族や友人に助けられた時でもありましたし、幼い頃にひきつけを起こして、意識を失ない、あと10分遅れたら私の命はなかったと言われた瞬間でもありました。


また、私にとっての「生かされている体験」は、自分にとって身近だった人がなくなり、それに伴って自分には生きている価値がないと思った時に、朝校門をくぐった時に、ある生徒から言われた「おはようございます」という言葉を聞いた瞬間でもありました。


またドクターディマティーニのセミナーに参加して、自分にとって大きな心の重荷となっていた生徒に対してワークを行い、その生徒が私に対して行ってきた様々な「授業妨害」は、私は人間として教師として成長させるためのかけがえのない経験だったことがわかり、心の底から感謝の念が湧いてきた翌日に、同じ生徒ががらりと態度を変え、私の授業に真剣に打ち込む姿を見た瞬間でもありました。


こうした様々な体験を通して、人生と言うのは、私個人が「生きている」と言う側面だけではなく、その背後に「生かされている」と言う重要な側面があるということに気がついたのです。


今日、インターネットでニュースをチェックしていたら、トップニュースは、日本で高齢者の生きがいや、人間の生死について様々な提言を行ってきた医師の日野原重明氏の死去のニュースでした。日野原さんは、105歳に至るまで現役の医師として、活躍し、人生について、生死について、生活習慣病について、様々な本も出版してこられました。その日野原さんは、59歳のときに、よど号ハイジャック事件の人質の1人となり、機内に四日間の閉じ込められた体験をしたそうです。そして、4日後に解放されタラップを降りたときに、「私は生かされている」という強い感覚を感じたそうです。その後、彼は「与えられた人生」を懸命に生きぬき、1995年の地下鉄サリン事件の時は聖路加病院で担ぎ込まれた数百人の人たちを救う懸命の努力をされたり、先ほど述べたような人間の人生について、生きがいについて、高齢者のあり方について、様々な提言を精力的に行ってきたのです。


つまり、日野原さんの人生においても、「生かされている」という体験が、その後の人生に於いて大きなインパクトを与えたと言う事は間違いないようです。


また、世界的に人間行動学の権威として著名な、ドクターでマティーニも、ハワイでヒッピーのような暮らしをしていたときに、ふと口にした雑草の猛毒が、彼の命を奪いかけたことがありました。しかし、「偶然」そこを通りかかった女性に助けられ、彼はその後彼のメンターとなるポール・ブラグ氏に出会い、その後の人生を決定づけるビジョン見て、今もそのビジョンに基づいて彼は自分のミッションをまっしぐらに生きているわけです。こうした1連の出来事は、ドクターでマティーニ個人の意思ではどうにもならないことであり、やはりここでも個人の意思を超えた大きな力が働いていたと言う意味で、彼は自分は「生かされている」という感覚を持っただろうと言うことを想像する事ができます。


このように生死に関わる出来事を体験することによって、「生かされている」という体験をされたことがある方は少なくないでしょう。しかし、「生かされている」という体験は、何も生死に関わるという形だけではないように思われます。もっと身近な生活の中で、自分は、人知を超えた存在によって生かされているというふうな体験をした方も大勢いらっしゃるのではないでしょうか。


つまり、私たちが通常五感を通じて感じるのは、「生きている」という感覚であり、それは言葉で表現できたり、「形」で認識したりすることができます。それは、呼吸活動であったり、歩く活動であったり、人と話す活動であったり、食べる活動であったり、仕事をする活動であったり、様々な「形」で認識することができるのです。言い換えると、「生きている」という感覚は、「活動(doing)」の側面であると言えると思います。

一方で、「生かされている」という感覚は、「形」を通してその背後にある形を超えた存在を感じる感覚だと言えると思います。つまり、私たちの日常生活の様々な活動の背後にある「存在(being)」を感じる感覚だと言えると思います。


先程の例で言えば、私の「問題生徒」に変容をもたらした「存在」であり、日野原氏の命を救いその後の人生へと導いた「存在」であり、ドクターディマティーニのもとに女性を導き、その後の彼のビジョンを見せてミッションを生きる方向へと導いた「存在」でもあるといえます。


こうした存在は、実は私たちの生活の中で様々な形を通して体験することができます。


それは例えば、


車を運転してる時に、前方の車とぶつかりそうになったり、急に飛び出してきた人間や動物をひきそうになったりして、それを避けることができてひやっとした瞬間であるかもしれませんし、


前の晩にどうしても解けなかった問題が、一晩寝て翌朝目を覚ましたときに、その問題の解決方法は頭に思い浮かんだりした瞬間かもしれませんし、


ある人との出会いが自分の人生を大きく左右した瞬間だったかもしれませんし、


自分が試練を体験した瞬間に、サポートをもたらしてきた人を認識した瞬間だったかもしれませんし、


どこか遠い外国の人の描いた絵画であるにもかかわらず、その絵画を見ているうちに何かとても懐かしい気持ちになったりした瞬間かもしれませんし、


前の日までたくさんの時間とエネルギーをかけて準備した原稿を家に忘れてしまったにもかかわらず、実際に発表の場になってみると、手元に原稿がないのに、口から様々な言葉が出てきて助けられた瞬間かもしれませんし、


さっきからずっと考えていた人から、突然電話がかかってきたり、メールが送られてきた瞬間かもしれませんし、


自分が頭の中に思い描いていた言葉を、そこに通り掛かった通行人が口に出したり、


予想もしなかった突発的な出来事に巻き込まれて、意識が今ここに引き戻され、自分の力を最大限に発揮することができ、心が生き生きして来た瞬間かもしれませんし、


私たちが「生かされている」と感じる体験は、様々な形をとるんだと思います。


そして、忘れてはいけないのは、私たちがこの宇宙に生かされていると言うことです。つまり、私たちの住んでいる地球は太陽から適切な距離にあるため、気温が保たれ、私たちは生きることができるわけです。もし、この地球と太陽の距離がもう少し近づいていたら、地球上は灼熱地獄で生物が存在することができなかったでしょう。また大気中の成分も、適切な配合で酸素や二酸化炭素やその他の分子が存在しているので、私たちは今こうして呼吸していけることができています。太陽の距離も、大気中の成分も、私たち個人の力を超えています。つまり、こうした、宇宙や自然の中で私たちが生きていると言う事は、個人の意思を超えた、まさしく「生かされている体験」なのです。


しかし、そうした「生かされている経験」の全てに共通しているのは、先ほども述べたように、私たちの人生と言うのは、目に見える五感の「活動(doing)」の世界だけではなく、その背後に存在する形を超えた「存在(being)」の世界があると言うことを示していることであります。そして、その「活動」と「存在」を統合したときに、その後の人生の質が飛躍的に向上すると言う点だと思います。


言い換えると、自分を生かしてくれている存在に対する感謝を忘れず、常に今ここでその大いなる存在とつながり続けながら日々の活動することが、私たちの人生をより充実させる秘訣なのだと思います。

今日も読んでいただいて、ありがとうございました。

オーストラリアより、愛と感謝を込めて。

野中恒宏


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2017-07-18 06:35:31

自力か、他力か

テーマ:┃- エックハルト・トール

 

最近私は、道元禅師の教えについて色々と学ばさせていただいております。それは、私がこれまで学んできたエックハルトトールさんの学びと多くの共通点があり、また、両者を統合させることで、それまで不明だった点が明確になったり、私たちの人生をより充実させたものにするための学びが深まるからです。

 

よくエックハルトトールさんがセミナーや著作の中で、禅僧の教えや話を紹介するので、いつか禅について学んでみたいと思っていたのですが、ちょっと学び始めてみると、この両者の世界観が見事にマッチすることに気が付いたのです。

 

そこで、今回は、道元禅師とエックハルトトールさんの両者の教えを参考にしながら、色々と深い世界に飛び込んでみようと思います。

 

道元禅師の教えを理解するうえで大切な入口に「身心脱落」というものがあります。これは、ひろさちや氏によると、「身も心もすべて脱落させるということ。その意味するところは、『あらゆる自我意識を捨ててしまうこと』だと考えればいいでしょう」ということです(「NHK 100分で名著・正法眼蔵」より)。

 

私たちはともすると、自分の身体や心にこだわって、様々な「問題」を体験することになります。それは、身体の点でいえば、病気、怪我、自分の容姿に対するコンプレックス、他者の容姿に対する羨望や蔑視、そして、心についていえば、私たちの多くは常に「思考の流れ」が頭を満たしており、ネガティブとポジティブの感情の間をゆれうごいています。つまり、心や身体というのは自我意識(エックハルトトールさんはエゴといいますが)というのは、私たちに様々な不安定さや「苦しみ」をもたらす象徴的な要因であるということになります。

 

道元禅師はそうした身心を脱落させること、自我意識を脱落させることを説くわけです。そして、エックハルトトールさんも心身に代表される「形」によって自己を同一化するのではなく、そこから自由になり、「形」を超えた次元にアクセスすることを述べています。すなわち、どちらも、身体や心に対する執着、すなわち、自我意識(またはエゴ)をはずすことを述べている点では共通だと思うのです。

 

では、どうすれば自我意識を超えることができるのでしょうか。

 

私は「一度にひとつ」という原則をつらぬくことによって、自我意識を乗り越えることを促す点においては、道元禅師もエックハルト・トールさんも同じだと思います。道元禅師は「只管打坐(しかんたざ)」という言葉で言い表されるように、ただただ座禅することを勧めました。そして、坐禅の間には一切の思考や感情を交えず、ただただ座り続けることを推奨したのです。しかし、ただ足を組んで座禅することだけが禅の修行ではなく、生活のすべての一つひとつの営み(例:朝顔を洗うこと、食事など)が禅の修行であるということを述べているのです。その点、エックハルトトールさんも、日常のいたる場面での練習を推奨しています。何か特別な形があるわけではないのですが、日常生活において見ること、歩くこと、感じること、など、すべての五感を研ぎ澄ませて、生活の様々な場面(例:食事、散歩、人を待つときなど)で思考や感情を交えないで一つのことに集中する練習をすることをすすめています。

 

そして、両者とも自分からその練習や修行をはじめることを進めている点も同じだと思います。すなわち、道元禅師もエックハルトトールさんも、「自力」の教えが根っこにあるのだと思います。すなわち、自我意識を超えるために、道元禅師は、自らが座禅をしてその境地にいたる取り組みを強調し、エックハルトトールも意識的に自分で一つのことに集中する「いまここ」の練習することで、この境地にいたることを推奨するのです。

 

しかし、これは仏の力(他力)を無視するということではありません。自らが座禅などの練習によって取り組むことによって、自らの仏性(エックハルト・トールさんの言葉でいえば「大いなる存在」)の力(他力)も働くとしているのです。すなわち、自力も他力も一つのものとしてとらえている点も共通しているようです。もともと私たち一人ひとりも仏(大いなる存在)なので、当然といえば当然です。

 

さきほど紹介したひろさちやさんは、道元の「自力と他力」の教えを理解するうえで、興味深いたとえ話を紹介しています。すなわち、何か危険が差し迫ってきたときには、子ザルは「自力」を使って親にしがみつき、親ざるはその子を安全なところに運ぶ(他力を使う)わけで、これが道元禅師の教えを表現しているというのです。エックハルトトールさんも、講演会やセミナーの中で、日常的に「いまここ」に意識を集中させる練習を繰り返すことによって、「大いなる存在(Being)」の力が流れ込んできて、事態を次のレベルにもっていくことを示唆しています。一方で、同じく危機が差し迫ったときに、子猫を口にくわえてどこかに逃げる親猫というのは、子猫は「自力」を使わず、親の「他力」に頼り切っているとしているのです。

 

言い方をかえれば、道元禅師もエックハルトトールさんも、「自力」の取り組みなしに「他力」の発揮はありえないということをいっているようです。

 

さらにいえば、他力というのは自分の意思でコントロールできるものではなく、ある日、自分のところにやってくるという感覚があるようです。

 

「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」(正法眼蔵)

 

と道元禅師がおっしゃったように、「自分のほうから悟りの世界に近づいて行こうとするのは迷いであり、悟りの世界のほうからの働きかけがあって、それで身心脱落できる」(ひろさちや)というのが本当のようです。実際、道元禅師は、宋(当時の中国)で修行をしていたとき、他の修行僧が座禅の最中に居眠りして、マスターから叱責を受けた瞬間に、自分自身が「身心脱落」、すなわち、悟りを経験したといわれています。エックハルトトールさんも、昔は精神的にかなり追い込まれていた時期があったといいますが、ある時、眠れない真夜中に自らの人生を投げ出そうとしている自分を見つめる、もう一人の自分がいることに気がつきました。この瞬間が、エックハルト・トールさんにとっての「悟り」の瞬間であり、その後の彼の人生を大きく変えたのです。これらの「悟り」の訪れは、彼らの個人的な意思を超えたレベルから彼らのところに近づいてきたといえると思います。

 

ですから、私たちも必死に「悟ろう」とか、「目覚めよう」とあくせくするのではなく、ただひたすら、毎日ひとつのことに「いまここ」で集中することが求められているのではないでしょうか。悟りの瞬間はいつでもどこでも訪れる可能性があるのですから。

 

そして、興味深いことに、両者は時間に関して共通の認識をもっています。道元禅師もエックハルトトールさんも、過去から現在、そして、現在から未来へと時間をとらえません。私たちが体験するのは「今」だけだと述べているのです。すなわち、過去は過ぎ去ったものであり体験できず、未来はまだ来ていないのでやはり体験できない。過去に体験したのもそのときの「今」であり、未来がやってきたとしても、そのときに体験するのは未来の「今」であるというわけです。したがって、私たちが体験できるのは、今だけであるとしているのです。

 

つまり、今この瞬間を思考た感情を交えず、自我意識を捨てて体験することの重要性を両者は説いているのです。では、なぜ日常生活のあらゆる場面で、禅の修行をしたり、練習をするのでしょうか。それは、そうすることで、「本当の自分のエッセンス」に出会えるからであるとしています。

 

さきほども少しふれましたが、道元禅師は、本当の自分のエッセンスは、「仏性」であり、エックハルトトールさんは私たちの存在のエッセンスは「大いなる存在(Being)」であると述べています。そして、そうしたものは、どこか自分から離れたところにあるのではなく、自分を含めて、すべては「仏性」であると道元禅師は述べているわけですが、エックハルト・トールさんもすべては「大いなる存在(Being)」と述べています。すなわち、「形」の次元で「大いなる存在」が体現されたものが、人間であり、人間の思考や感情であり、生命体であり、モノであり、それらはすべて「形」の次元を超えた「大いなる存在」から生まれてきたとしているのです。

 

しかし、先ほどから述べているように、思考や感情などを使って、自我意識の中にいると、そうした存在のエッセンスに出会うことができないので、そうした自我意識から脱落するためにはいまここに100パーセントありのままに存在すること、すべてのことをありままに受け止めることを推奨しているのです。

 

この考え方は「違い」を強調する考え方が蔓延している現在社会においては、重要な意味をもっているといえます。たとえていうなら、種から芽が出て、花が咲くといった場合に、花にばかり目が奪われてしまいがちですが、種であろうと、芽であろうと、花であろうと、すべてが仏性を体現しており等しく重要であるということになります。

 

学校教師の視点でいえば、勉強のできる子も、できない子も、みんな一つの仏性(大いなる存在)を体現しており、等しく重要ということになります。

 

文化や人種の視点でいえば、肌や言語や文化が違っても、みんな一つの仏性(大いなる存在)を体現しており、等しく尊いということになります。

 

経済的な視点でいえば、富める者も、貧しいものも、みんな一つの仏性(大いなる存在)を体現している、等しく尊いということになります。

 

身体的な点でいえば、健康も病気も、すべて一つの仏性(大いなる存在)を体現しており、等しく尊い体験であるということになります。

 

悟りの点でいえば、悟っていないからだめだとか、悟ったから素晴らしいというのではなく、すべてが尊い悟りの一環であるということになります。

 

このように、両者の教えには根本のところで重要な共通点があることがわかります。鎌倉時代の禅僧の教えが、西洋の人間の口から語られているといってもいいかもしれません。形は違っても、大切な教えは共通しており、普遍であるといえるのでしょう。いいかえれば、仏性や「大いなる存在」と呼ばれているものが、鎌倉時代には道元禅師の口からメッセージを伝え、21世紀の今日はエックハルトトールさんたちによってメッセージを伝えているといえるのかもしれません。

 

 

今日も読んでいただき、ありがとうございました。

オーストラリアより愛と感謝をこめて。

野中恒宏

 

 

(注:以上の見解はあくまでも私個人の見解であり、日本の仏教研究のすべてを反映したものではないことをお断りしておきます)

 

 

 

 

 

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2017-07-17 06:23:08

ぎこちない外国語の言葉と言葉の「間」にあるもの

テーマ:┃-コミュニケーション
 
人と会話をするときは、100%意識を今ここに持ってきて、相手に対して100%心も体も魂も全て集中させることが大切です。そうしないと、意識が今ここにあらず、過去や、未来に焦点が当てられ、相手を理解することに対して大きな障壁となることがあるからです。逆に、今ここで相手にありのままに丸ごと接すると、相手が言葉で表現すること以外のことであっても、感じることが可能になってきます。
 
実は昨日、私のワイフと娘を空港に見送りに行ってきたのですが、その時に、ある若い女性が私たちのところに近づいてきて、ちょっとたどたどしい英語を使って、「チェックインはどこでするのか」ということを聞いてきました。
 
しかし、考えてみると、その女性もワイフも娘もすでに飛行機のチェックインは済ませており、もうその女性はチェックインはしなくてもいいはずです。したがって、言葉だけで理解しようとすると、その女性の言ってる事は意味不明になってしまいます。
 
しかし、その女性の様子に今ここでありのままに焦点を当てて感じると、その女性が、次のステップである、セキュリティーチェックや、出国審査を受ける場所を探していることがわかります。そこで、私たちは、次の出国審査などを受ける場所の方向を示しました。
 
この会話はわずか10秒足らずのものでしたが、非常に深い意味を持っていると思いました。

すなわち、私たちが思考を通して、相手の「形」(例、言葉)に焦点を当てると、相手の本当の意図してることを理解できない可能性が高まりますが、一方で、相手の形だけでなく形では見えないところまで焦点を当てて、相手を今ここで丸ごと理解しようとすると、相手の形以上のものまで含めて理解できる可能性が高まると言うことです。
 
私たちは、日常生活の中で、知らず知らずのうちに、思考と言うフィルターを通して、相手の形に焦点を当てる傾向があります。そのほうが、簡単で手軽だからと言うこともありますが、私たちはあまりにもその思考を中心とした姿勢になりきっているというか、中毒になっている可能性すらあるのではないでしょうか。
 
しかし、外国語を学び、外国語でコミニケーションを取ると言う事は、その言葉だけでなく、言葉を超えた次元まで含めて相手に接することの必要性や重要性を私たちに知らせてくれます。
 
私は日本語教師として働いていますが、日常的に生徒たちが日本語を使ってコミニケーションをする場面に接しています。その時に、言葉だけで相手の言ってることを理解しようとすると、とんでもないことになったりします。
 
例えば、ある生徒は、考えに考え込んで、「私は、寿司です」という文を作ったりします。この言葉を文字通り理解しようとすると、英語で言えばアイアム寿司(I am sushi)と言うことになり、変な意味になってしまいます。しかし、相手の存在を今ここで100%感じて、その会話のコンテクストまで含めて相手を理解しようとすると、相手が自分が寿司が好きであるということを表現したいと言うことがわかります。もし、この時に、文法などの「形」に執着したり、目の前の生徒は日本語初心者であり、日本語がわからないと言う「思考のフィルター」を通して相手に接すると、相手の理解に障壁になる可能性が高くなると思います。
 
もちろん形をしっかり学び、文法的にも正確に表現することが重要ですが、それだけでなく、その文法と言う形では表し切れない背後にある次元まで含めて相手の存在を丸ごと理解しようとする姿勢が外国語の学習やコミニケーションで求められているということがわかります。
 
言い方をかえれば、相手の言葉だけではなく、言葉と言葉の「間」にも意識を集中するのです。つまり、音だけではなく、音と音の間にある「静寂」にも意識を集中するのです。この世界のすべてが「静寂」から生み出されてきたことを思い出せば、この静寂の中にこそ、私たちの存在のエッセンスがあることがわかります。そのエッセンスは相手の中にも自分の中にもありますので、そこを共有することができれば、相手との一体感というか、ワンネスが発生し、相手のことを言葉を超えて理解しやすい状況になると思うのです。
 
そして、相手の存在を、「形」も「静寂」も丸ごと今ここでありのままに受け入れることができれば、自分と他者との間に言語や肌の違いや文化の違いを超えて、共通の「大いなる存在(Being)」として、お互いのハートがオープンになり、一気に会話がはずんだり、自由の感覚が広がったりするのです。
 
私たちは外国語を流暢になることを目指す傾向がありますが、外国語が流暢だからといって、言葉だけで自分をすべて表現できるわけではありませんし、言葉だけで相手をすべて理解することが必ずしもできるとは限らないのです。だから、外国語がぎこちないとか、たどたどしいとかということで落ち込む必要は全くないと思います。形の違いを超えてお互いの理解を進めるためには、流暢になるための練習(Doing)を続けながら、いまここで自分と相手の存在(Being)にフォーカスすることも極めていく必要があるのだと思います。
 
そうすると、いつの間にかお互いの「形」の違いを超えて、一つになっている瞬間を体験することがあります。

ここに外国語学習や外国語のコミニケーションの大きな魅力の1つがあります。
 
今日も読んでいただいて、ありがとうございました。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏
 
【特別特典】「ぎこちない外国語の言葉と言葉の「間」にあるもの。」((動画版)
 

 

 

 
 
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2017-07-13 20:36:28

人生の真の目的は、起きていようが寝ていようが実現することができる。

テーマ:┃-目覚め・悟り

 

私たちは日常生活の中で様々な活動をしながら生きていますが、しかし、その活動してる間、私たちは根源的なレベルで本当に目覚めているとは言えないかもしれません。

 
身体的なレベルでは目覚めていても、より根源的な本質的なレベルでは、眠りつづけていると言えるのかもしれません。
 
つまり、「目覚めていても、目覚めているとは限らない」と言う逆説的な状況が私たちの真実を示しているかもしれないのです。
 
どういうことかと言うと、私たちは朝目を覚ましたときに、自分がどこの部屋にいて、今何時であるか、今日何をしなければいけないのか、誰と一緒に暮らしているか、などの思考が大量に流れ込んできます。そして、気がつくと、そうした思考の流れと自分を同一化させて、1日を始めるのです。
 
布団から外に出て、顔を洗い、仕事や学習やその日の活動に足を踏み出す頃には、完全に眠気が吹っ飛んで、目覚めていると思っています。しかし、だからといって精神的な本質的なレベルでは、目覚めているとは言えず、まだ眠ったままなのです。
 
つまり、思考の流れのフィルターを通して、すべての日常生活を知覚し、認識していると、私たちは「形(form)」がすべてであると思い込みがちになります。言い換えると、形と言う目隠しをされて、全てを体験していると言うことになってしまいます。つまり、何も本当のことが見えていないのに、それが目に見えていると言う確信を持って、毎日を送ることになってしまっているのです。
 
思考と言う流れを通して、自分の生活を捉えると、そこには大きな欠乏感があることに気がつきます。そして、それを埋めるために、必死に思考を巡らせ、行動を起こすと言うわけです。
 
しかし、実際のレベルでは、私たちは何も失っていないし、それを埋めるためにあくせくと行動起こす必要もないのです。それは、この世界の全ての形が、形を超えたレベルから発生したものであると言うことを思い出せば、わかりやすいことです。その形を超えたレベルを、静寂の世界と言うことができますし、「無」の世界と言うことができますし、ゼロポイントフィールドの世界と言うこともできますし、無意識の世界と言うことができますし、大いなる存在の世界と言うこともできますし、「仏」の世界ということもできますし、魂の世界ということもできます。その次元の世界では、獲得と損失、自分と他者、裕福と貧困という二元論の境界線がなく、全てが今ここに存在しているのです。
 
しかし、現実の形のレベルになると、獲得と損失、自分と他者、裕福と貧困と言う境界線が明確に惹かれ、私たちは欠乏感と欲望、過去と未来の間で揺れ動く存在になるのです。つまり、本質的なレベルでは全く必要のないことを、現実的な世界ではしなければいけないと思い込んで生きているわけです。それはまるで、私たちが眠っている間に現実にはその体験がないのに、寝言を言って、あたかもそれが現実であるかのように喋っている声と似ています。また、現実には全くその必要がないのに、寝ている間に泣いたり、叫んだり、笑い出したり、どこか遠くの場所に歩き出して逃げようとしたりする行為に似ています。
 
体が眠っている間に、喋り出したり、動き出したりすると言う事は、あまり深い眠りに入っているとは言えず、表面的なレベルにいると言われています。
 
精神的なレベルにおいても、私たちが深い気づき(awareness)のレベルにないと、表面的なレベルで欠乏感や欲望を感じ、あくせくと考えを巡らし動き回ることになるのです。
 
つまり、身体的に深い眠りに入れば、私たちは喋り出したり、歩き出したり、泣き叫んだり、過剰に笑ったりする必要は全くないと言うことになります。それと同じように、深い本質的な精神レベルにおいて、様々な「形」の次元を超えて、私たちが深遠な気づき(Awareness)のレベルになると、現実の様々な出来事に関して、必要以上に過剰に反応したりして感情的になる必要もなくなってくるというわけです。
 
私たちの多くは、自分の口から出てくる言葉を、自分の意思によってしゃべっていると思い込んでいます。しかし果たして、思考の流れを超越して、喋っている人が人がどれだけいることでしょうか。実際は、他の人たち、すなわち、社会的な通念や、一般的な常識や、社会理想主義いや、集合的無意識などを知らないうちに自分の思考の中に取り入れて、その思考の流れを自分だと思い込んで、思考の流れを「子守唄」のように感じながら、口から「寝言」のようにしゃべり続けていると言う事ではないでしょうか。
 
シェイクスピアが、「この世は全て夢である」と言ったのは、私たちが、この世界を全て思考の流れのフィルターを通して「形」という幻想の中でのみ捉えているということを意味しているんじゃないかと思うわけです。
 
私たちは夜身体的に深い眠りに入ると、思考の流れから解放され、また、あらゆる形から解放されて、形のない次元に入り込むことができます。一方で、起きている時も、今ここに100%意識を集中させ、気づきのレベルで自分を捉えると、大いなる意思と自分がつながり、思考の流れから解放され、あらゆる形から解放されて、形のない次元に入りこむことができるのです。
 
つまり、身体的に深く眠ると私たちは目覚め、一方で、精神的に深く入り込んでも私たちは目覚めるのです。別の言い方をすれば、寝ている時も、起きている時も、私たちは形を超えて目覚めることができるというわけです。
 
 
では、私たちは何に目覚めるのか、それは、先ほどから繰り返し述べているように、形の次元を超えたエッセンスの次元に目覚めるのです。この次元は、言葉や思考と言う形も超えているので、そもそもここで文章で表現することはできないのです。ここでできるのは、その次元を指し示すことだけなのです。いくら言葉で、詳細に目覚めを表現したとしても、その目覚め自体を言葉として表現することができないのです。
 
しかし、にもかかわらず、私は言葉でそれを表現し続けることを止めることができません。なぜならば、形の次元を超えた本当の自分のエッセンス、すなわち「大いなる存在」に目覚めることこそが、すべての人類に共通した人生の目的だからです。それなしに、いかなる人生も充実させることは不可能だからです。その目的を体験すると言う事は、起きていようが寝ていようが、関係ないのです。
 
そもそも、私たちは1日の約3分の1を身体的に眠っているわけですが、形を超えた「大いなる存在(Being)」の次元に目覚めるという私たちの人生の目的は、起きている間だけに実現されると言うのも変な話なのです。寝ている間も人生であることに変わりはないわけであり、真の目的であれば、起きていようが寝ていようが実現することが可能なはずなのです。
 
今日も読んでいただいて、ありがとうございました。
 
オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏
 
2017-07-11 21:00:00

人から決め付けられたら自由になれる!?

テーマ:┃- エックハルト・トール

私たち現代人は、様々な言葉を使って、自分を定義しようとしますが、時に、他者からも自分に向けて定義づけや決めつけが行われることがあります。いや、私たちの中には、日常的に他者からの決めつけや定義づけの嵐にさらされている人もいるようです。特に多くの学校や職場というのは、そういうことが普通に行われている場なのかもしれません。

 

そういうとき、あなたはどうですか。

 

人から定義されたり、決めつけられたら、自分に何か問題があると思って、落ち込んだりしていませんか。「自分は人より劣っている」とか、「自分には何かが欠けている」と思ったりしていませんか。

 

でも、真実は、あなたは他者からどんなに決めつけや定義づけをされても、まったく落ち込む必要はないのです。それは、あなたを決めつけた他者自身の問題だからであって、あなたに問題はないからです。

 

エックハルト・トールさんは、「人々があなたを定義づけしようとしたら、それは人々が自分自身を制限しているのである。だから、それは彼ら彼女らの問題なのだ(When they define you, they are limiting themselves, so it's their problem)」ということを、著書「ニューアース」の中で述べています。

 

私はこの言葉を読んでハッとしました。

 

そもそも他者を定義するということは、その人についての「形」に注目しているということです。形のないところでは、決めつけや定義づけはできないからです。

 

私たちのアイデンティティーには、「形のアイデンティティー」と、「形」を超越した「エッセンスアイデンティティー」の二つがあります。現代人の圧倒的に多くは、全社の「形」のアイデンティティーのみが自分や他者だと思っているので、何の疑いもなく、「形」を通して自分や他者を理解しようとします。

 

それは、その人の顔かたちかもしれませんし、

体形かもしれませんし、

性別かもしれませんし、

言葉かもしれませんし、

肌の色かもしれませんし、

年齢かもしれませんし、

職業かもしれませんし、

出身かもしれませんし、

匂いかもしれませんし、

人種かもしれませんし、

学歴かもしれませんし、

地位かもしれませんし、

名誉かもしれませんし、

過去の実績かもしれませんし、

価値観かもしれませんし、

信念かもしれませんし、

思考のパターンかもしれませんし、

感情の表現かもしれませんし、

その他、様々な「形」かもしれません。

 

しかし、私たちの正体は、そうした「形」を超えたところにあるエッセンスである、「大いなる存在(Being)」です。その次元では、思考や言葉を使って、本当の自分を理解することはできません。

 

この次元は、あらゆる「形」が生まれる源であり、広大な静寂空間であり、深遠な喜びがあり、自由です。この次元において、あらゆる生命はその生命力をイキイキと表現するのです。人間も思考を超えて、この次元とつながっているときに、いまここで創造性を発揮し、充実した人生を送ることができるのです。

 

エックハルト・トールの言葉を借りれば、「大いなる存在(Being)」は大海であり、「形」で定義できる部分というのは、その表面の波に過ぎないのです。

 

つまり、他者を定義づける、あるいは、決めつけるという行為は、この大海を無視して、自分も他者も波であると言い張る行為で、自分を極端に制限している状態であるということがわかると思います。

 

定義づけというのは、思考の次元で行われているので、相手を定義づけするということは、思考の次元でのみ、概念でのみ他者を理解しているということであり、他者のありのままのイキイキとした存在が全く見えていない不自由な状態なのです。

 

それはまるで、目の前においしい料理があるのに、

 

写真をとることに集中したり、

 

その料理を思考を使って解説することに集中したり、

 

その料理を食べても頭の中が過去や未来のことでいっぱいになってリアルでいきいきした味を感じないような状態といえるでしょう。

 

目の前の人間と、自分の根底のエッセンスである「大いなる存在(Being)」を感じないで、思考というフィルターを通して相手を見ているので、その人とイキイキとした交流ができずに、交流の中身も限定してしまう生き方になってしまいます。

 

 

エックハルト・トールさんは、「愛することは他者の中に自分自身を認識することである(“To love is to recognize yourself in another.”)と述べています。その意味で、思考のフィルターで相手を定義し、決めつけるということは、愛に気がつかない不自由な生き方をしているということになります。

 

「大いなる存在」は誰の中にもいまここにあるのに、それを自分の中にも他者の中にも感じられないということは、いまここにある愛がみえないともいえるとおもいます。

 

エックハルト・トールさんが薦めるのは、「人々と交流するときはいつでも、主に機能や役割として存在するのではなく、いまここにある意識の領域として存在すること (Whenever you interact with people, don't be there primarily as a function or a role, but as the field of conscious Presence)です。

 

いいかえれば、ビジネスマン、学生、父親、母親、会社員などの役割の中で、「活動(Doing)」をしていても、常に、根底に「存在(Being)」つながりながら生きることを推奨しているのです。この「活動」と「存在」の統合こそが、人生のマスターなのだという強いメッセージがここにあります。

 

したがって、他者を決めつけるということは、この両者を切り離し、人生のマスターの道からはずれることにもなります。

 

相手が自分を何らかの形を通して定義づけてきたら、それは自分が人生のマスターへの道を歩んでいるかどうかを確認する貴重な機会です。もし、その定義づけや決めつけで落ち込んでいるとしたら、それはあなたが「存在(Being)」から切り離され、「活動(Doing)」のみの次元で生きてしまっている証であり、それは両者の統合を促すためのフィードバックでもあるのです。

 

相手が決めつけてきたら、それは「私はあなたの表面的な形しかみえなくて不自由しているんです」という意味です。だから、相手からの決めつけは形を超えた次元を教えてくれている行為だともいえるでしょう。

 

だから、相手が自分を決めつけてきたら、その形の背後にある存在を感じて、そこにフォーカスしてみてください。そこは「形」を超越しているので、誰からも奪えない次元であり、傷つけることがそもそも不可能な次元です。

 

人から決めつけられたら、その言動が生まれた直前の「静寂」に意識を向けてください。

その言動と言動の間の「静寂」に意識を向けてください。

そして、その言動の後の「静寂」に意識を向けてください。

 

決め付けが行われたと思ったら、それは「よーいどん!」の合図だと思って、思いっきり、決め付けの形の背後にある「静寂」飛び込んでみてください。そこには、大きな空間があり、新しい自由の世界が広がります。

 

今日も読んでくださって、ありがとうございます。

オーストラリアより愛と感謝をこめて。

野中恒宏

 

 

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2017-07-10 19:00:00

一生「真似」すれば、「真似」が「本物」になる!

テーマ:┃- 今を生きる

 

道元禅師が開いた永平寺の住職、宮崎禅師の言葉です。11歳のときから90年以上、永平寺で座禅の修行を続けてきた方の言葉です。朝起きてから寝るまでの修行の型や手順をそのままひたすら続けているそうです。

 

学ぶの本質は「まねる」であるということがあらためてわかる言葉です。

 

よく成功哲学で、「モデリング」ということがいわれます。成功者の真似をして自分も成功することを目指した「真似」です。しかし、ここでいわれている真似というのは全く質が違うと思います。

 

たいていの成功哲学でいわれる、「まね」というのは、恐怖と欲望がもとになっておりますが、ここでいう「真似」というのは、恐怖も欲望も超越したところにあるからです。そもそも恐怖は「何かが欠けている」ことを前提にしており、「欲望」はその穴埋めをしようとする状態です。いってみれば、「形」に執着して「形」をいつまでも追い求める行為が「まね」ということになるのでしょう。一方で、宮崎禅師のおっしゃる「真似」というのは、その「形」の次元を超えて、「身心脱落」の悟りを目指した「まね」であります。

 

前者の「まね」はある「形」が手に入ったとしても、また別の恐怖がうまれ、欲望を肥大化させ、どこか未来の他のところへ行こうとしますが、後者の「まね」は、欠乏感を前提にしていないので、意識はつねにいまここにあります。


つまり、前者は「足し算」の真似で、後者は「引き算」の真似です。前者はエゴを増長させるための真似であり、後者は本当の自分に出会うための真似です。

 

あなたはどちらの「真似」をしますか。

 

オーストラリアより愛と感謝をこめて。

野中恒宏

 

 

 

 

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2017-07-10 05:00:00

「形」から入り「形」を超えると「本当の自分」に出会える

テーマ:┃- 私はだれ?・自我

 

「形」を超えたところに、あるいは、「形」の中に、「形」を超えた次元があり、それこそが私たちの存在のエッセンスであるということを学んでいますが、しかし、それは「形」を悪とみなせとか、「形」を排除しろということをいっているのではないようです。

 

エックハルト・トールさんによれば、「形」の次元は「活動(doing)」の次元であり、「形を超えた」次元は「存在(Being)」の次元であり、この両者を同時に体験することこそが、人生のマスターであるとしています。

 

私たちは日常生活の中で、朝起きてから夜寝るまで、様々な活動をしますが、その活動をしているときの意識が「いまここ」にあるとき、私たちは「存在(Being)」の次元とつながっていますが、意識が「いまここ」にあらず、過去や未来のことで頭がいっぱいになっているときは、「存在」の次元から切り離された「活動」を体験しているということになるようです。

 

たとえば、私は今日から新学期が始まりますが、気を緩めると、頭の中に「今学期はいろいろとやらなかやいけないことがある。今日は初日で、いろいろとまた始めなければいけないので、大変だ。果たしてちゃんとできるんだろうか。」という思考の活動(doing)がはじまり、心が今ここにあらず状態になります。この状態のときは、何も手につかず、すべてが中途半端になってしまいます。

 

そこで、私は床にすわって、ひたすら呼吸に集中するワークを行います。ただひたすら呼吸に集中する。すると、自然に意識がいまここに戻ってきます。心の中にさっきまであった不安が消えていきます。

 

確かに、すわること、呼吸も「形」といってしまえば「形」といえるのかもしれません。しかし、「形」から入ることによって、「形」を超えることができるので、「形」も大切な経験であるということになります。

 

曹洞宗の開祖である道元禅師は、朝起きてから夜寝るまでの一挙手一投足の「形」を詳細に決め、それを実行し続けたそうです。それはこの21世紀の現代においても、永平寺で修行する修行僧の方々もそのまま踏襲しているそうです。

 

たとえば、概略を書くと、朝3;30頃起きると、冬の季節はそれこそ凍るような水を桶に入れて、顔を洗います。しかし、それは顔の表面に水をつけるというレベルではなく、顔の隅々から耳の裏、頭、後頭部まで水で清めるのです。その際には桶に、一切唾液などが落ちないようにするそうです。そして、それからほどなく朝の座禅がはじまるそうです。当然座禅にも様々な作法や手順が含まれています。そして、座禅が終わると、本堂で全体の祈りの時間がはじまり、その後、朝食が始まりますが、全員で祈りを捧げ、そのあと、ここでも特別な布にくるまれた器を特定の手順にそって開けて、その器でおかゆなどを受け取り、たくあんなども含めて音をたてないように食べるそうです。そして、食事が終わると、その場で特別な道具を使ってその器を洗って、また特定の手順に従って、器をさきほどの布に収納するというのです。そのあと、寺を手順にしたがって、掃除していくのです。

 

まさに一日が「形」、「形」、「形」の連続です。道元禅師の教えの一つに「只管打坐(しかんたざ)」というものがあります。これは文字通りひたすら座り続けるという意味ですが、その座るという「形」をひたすら続けることによって、「身心脱落」という身も心も執着しない形を超えた次元に近づいていくようです。そこで本当の自分(仏教の言葉でいえば、仏様ということになるのでしょうか)に出会うことを目的にしているようです。

 

すなわち、「形(ここでは座禅)」は本当の自分に入るための入り口になっているともいえるようです。

 

私たちの身の回り、心の中、すべて「形」がいっぱいです。つまり、私たちは24時間、地球上どこにいても、「形」とともに生きています。すなわち、私たちはいつでもどこでも、「いまここ」で本当の自分に出会えるチャンスが与えられているわけです。

 

あなたは今日、どんな「形」から出発して、本当の自分に出会いますか。

 

今日も読んでくださって、ありがとうございました。

オーストラリアより愛と感謝をこめて。

野中恒宏

 

 

 

 

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