映画「終戦のエンペラー」 | クラスタ民主主義システム研究室

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映画「終戦のエンペラー」、封切りの日に観に行きました。観客は私と同年代か年上の人々が多かったです。ラストでは思わず泣いてしまい、私も天皇陛下を敬愛する日本人なのだと思い知らされました。ノンフィクションといっても過去を忠実に再現できるわけではありませんし、こうした映画のどこまでが史実に基づき、どこからがフィクションなのか…、あと100年も経てば判然としなくなるのでしょう。 



いま、映画「プラトーン」を撮ったオリバー・ストーン監督が長崎を訪れています。明日が長崎に原爆投下が投下された日だからです。

アメリカ人は映画を通して戦争の実像に迫ろうとしています。映画「アバター」を撮影したキャメロン監督は広島・長崎への原爆投下を題材とした映画を撮ろうとしましたが、原作だった米作家チャールズ・ペレグリーノさんのノンフィクション小説「ザ・ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ」に史実と異なる部分が見つかったため、退役軍人などから批判の声が上がり、映画の計画は中止されてしまいました。残念ですが、アメリカ人監督たちの戦争を真摯に見つめようとする努力には敬意を払いたいと思います。この原爆映画の題名は「JIGOKU」だったそうです…

私たちは8月15日を終戦記念日と呼びます…。しかし本当は終戦ではなく無条件降伏した敗戦の日です。私たちは、なぜ敗戦したのか?、もっと真摯に向き合うべきではないでしょうか。

なぜ負けたのか、なぜ失敗したのか、何が悪かったのか、誰が間違えたのか…

日本人は失敗に学びませんし、何処に責任があったのか追及しません。うやむやにしてしまうのです。責任追及は、叱責するためではなく、責任の所在を明確にして、二度と同じ過ちを犯さないために行うものですが、日本人は過ちを叱責し腹を切らせる一方で、他方では責任の所在をうやむやにして誰も責任を取らず過ちが無かったことにしてしまいます。

この日本人の特性というか習性は、私たちの心の中に深く澱んでいます。

日本では終戦のエンペラーのような責任の所在を明らかにしようとする映画は撮影されません。なぜなら、仲間内の責任を追及しようとすると、日本人は本能的に仲間を守ろうとするのです。それは、白黒をつけず、事を曖昧に済ませ、和を重んじる手法でもあるわけですが、だからといって、仲間を守ることと責任の所在を明確にすることを混同してはいけません。

こうした責任追及せず仲間を守ろうとする日本人の特性は、原発事故処理や東電体質にも見られます。

原発事故発生当時の責任所在はあやふやなままで、なぜ事故回避に失敗したのかの解明も不十分ですし、除染や廃炉のプロセスも「間違いがない」ことを前提にして、失敗することを想定せず、次々と起こる小さな過ちに目をつぶり、ただただ規定路線を突き進む…

失敗は、小さな失敗を繰り返しているうちに、大事故が発生します。

だからこそ、常に小さな失敗に学ぶことで、大きな失敗を防ぎ、成功へと導くプロセスを大切にしなければなりません。




では、私たち日本人は太平洋戦争という大失敗から何を学んだのでしょうか?

太平洋戦争が起こったのは欧米が日本を追い込んだから…

最高責任者だった東条英機は戦犯ではなく何の落ち度もない…

慰安婦問題は悲劇だったが日本は何も悪くない…

戦死者や旧軍人は、みな日本のために命を捧げたのだから英霊として奉る…




なぜ膨大な数の戦死者が出たのか、なぜ失敗したのか、なぜ敗戦になったのか…

私たち日本人は責任追及しない…

それでは、ダメなんです。



先ずは、原発事故を終わりにせず、敗れたことを認めるべきです。

同様に、終戦にしてしまわず、敗戦を認め、次に活かすべきでしょう。



原発を安全神話にしてしまったことと、日本は戦争に勝つと神話にしてしまったことは、同じことだと思います。そして、今また日本は勝つという前提で敵基地攻撃能力を持とうとしています。

ゼロ戦では、勝つという成功だけを想定し、敗れるという失敗を想定しないことで、装甲板を減らして運動性能を高めましたが、その結果として多くの優秀な操縦士を失いました。人は使い捨てだったわけです。

多くの作戦は燃料や食料の補給が想定されておらず、勝つという成功しか考えていませんでした。それで多くの兵士が玉砕していったわけです。戦艦大和も片道燃料で沖縄に特攻しました。

回天、震洋といった特攻兵器も開戦当初から計画されていて、旧軍部は自爆テロを続ければ神風が吹くと最初から考えていたわけです。しかし、特攻しても戦況は変わりませんでした。本来なら戦果が上がらなければ、すぐに失敗に学び、作戦変更するなり、降伏するなりすべきでしたが、旧軍部(戦前の国體)は今の東電のように次善の策を用意しなかった…。

戦前の国體が戦況を適切に判断せず、日々の小さな失敗に学ばず、早期に降伏しなかったため、アメリカは原爆の人体実験場として広島にウラン型爆弾、長崎にプルトニウム型爆弾を落としました。

どんなに死傷者や犠牲者が出ても戦争を止めなかった日本も、原爆を実験目的で投下したアメリカも、どちらも悪い…。にもかかわらず、日本人の一部、アメリカ人の一部は、俺達は悪くないと主張するわけです。



誰の責任も追及せず、仲間を守り、過ちは終わりにしてしまい、失敗(敗戦)に学ばない…

いつも、日本人は、日本人です。

そういう陰の部分があることを私たちは忘れるべきではないでしょう。



この映画「終戦のエンペラー」

日本陸軍の一部は、天皇陛下の玉音放送を録音したレコードを奪取するため、なんと皇居に侵攻します。日本という国體は、天皇陛下を祭り上げていますが、実は、天皇陛下を利用してきただけ…。その事実を観客に突きつけます。

その祭り上げられていた天皇陛下が御自らの決断で戦争を終わりにするため玉音放送を録音されて、マッカーサーの私邸に自ら向かわれ「全ての責任は自分にある」と言われました。

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日本人は、責任を明確にし、後世で二度と同じ過ちを繰り返さない…

映画はフィクションでしたが、おそらく天皇陛下の御言葉はノンフィクションだったと思います。

天皇陛下の御心に涙が止まりませんでした。



明日の原爆被爆者慰霊の日、私たち日本人は私たちの責任を振り返り、失敗(敗戦)に学ぶことができるでしょうか。 

それとも、これからも日本人は敗けや失敗に学ばない東電社員と同じままでしょうか。

終わりにしてはいけない…

また、毎年そう思う日がやってきます。


ウサギ