自己と非自己と「寛容な利己主義」 | クラスタ民主主義システム研究室

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自己と非自己の認識は、生物の免疫系で常に行われています。自分に害を与えるものを非自己として認識し、自己から排除することによって、生物の恒常性が保たれているわけです。


これを人間社会に適用すると、自己に害を及ぼすものは非自己と考えることができます。一例をあげると、自分の仲間は自己の一部ですし、ドロボウは非自己ということになります。


こうした自己と非自己の認識において、生物の免疫系では「免疫寛容」という状態があります。小麦で発症する気管支喘息の患者さんに対して、少量ずつ小麦を食べさせて喘息アレルギーを発病しないようにする「減感作療法」などは、この免疫寛容を誘導する治療法と言えます。


究極の免疫寛容は、母と子です。母の胎内にいる子供は母に自己の一部と認識されて寛容状態にあります。創造主の愛に通じる母の愛こそ、寛容の原点といえるでしょう。


要するに、慣れによって非自己と認識しなくなったり非自己と認識する機能が低下していると「免疫寛容」になるわけです。


この免疫における自己と非自己の認識は、人間の利己主義に通じるものがあります。利己主義は、自分自身の利害に基づいて判断し、自己の幸福を最優先して、他人に被害があっても構わないわけです。


利己主義は、自己か非自己かを選別して自らの利益のために行動しているわけで、個人の利己主義、家族の利己主義、企業の利己主義、国家の利己主義といった具合に、個人ばかりではなく共同体単位で利己主義が実践されていると言えるでしょう。


では「寛容な利己主義」とは、どういった状態なのでしょうか?


これは個人的な解釈ですが、「免疫寛容」から類推すると「自己と非自己」の認識が寛容な利己主義だと私は解釈しています。


つまり、家族という共同体、企業という共同体、国家という共同体で「自己と非自己」の認識が甘く、個人(個体)が家族間、仲間間、企業間、国家間を自由に行き来できる状態を「寛容な利己主義」と言うことができるでしょう。


利己主義者が企業間や国家間を行き来できると、その個人は利他主義の人々を最大限に利用して自分の利益を貪ることができますから、生存競争に勝ち残ることができるわけです。こうした環境では、利他主義者はバカをみますから、利己主義者が遺伝子的にも生き残り、社会全体から見ても利己主義優位の社会になっていきます。


「自己と非自己」を厳しく認識して他者を排除し仲間と協調する「偏狭な利他主義」をとる企業や国家が少ないと、コミュニティ間の敷居(ボーダー)が低い企業や国家が増えて「寛容な利己主義」が優位になっていくわです。


現在の新自由主義と呼ばれる世界は、この寛容な利己主義優位の社会といえるでしょう。


ただし、他者を拒絶したり他者を排除して相容れない利己主義では、利己主義者同士が対立して孤立化してしまいますから、仲間との協調性が乏しくなり、生粋の利己主義者は生存しがたい一面もありますが、利己主義者は生存能力が高いので、利己主義社会では、どうしても敗者が増えてしまうことが問題となります。


現代社会で99%の貧困層が生まれてしまうのは、利己主義の蔓延が遠因…





では、利己主義から進化させた「寛容な個人主義」が増えると、どうでしょう?


個人主義は、他者(非自己)の拒絶や排除によって成り立つ利己主義とは異なり、自己のみならず他者(非自己)の人格をも尊重しますから、「自己と非自己」の選別において寛容度が高まり、寛容な利己主義より進化した状態と言えます。


他人(非自己)に対するように自分(自己)を尊重し、自分(自己)に対するように他人(非自己)を尊重するならば、波及的に社会全体の個人を尊重することができますから、「寛容な個人主義」は迫害や抑圧や隷属を一掃する可能性を秘めています。


理論的には、全世界の隣人同士が「寛容な個人主義」を実践すれば、1%の富裕層による99%の貧困層からの搾取も解消できる…


「寛容な個人主義」をマスターし、礼節をもって自らを律しながら自由に行動する人間が増えていけば、社会全体の向上も達成される可能性が高まるはずです。


逆に、自分の理念や論理に合わない者を拒絶や排除することで成り立つ「偏狭な利己主義」では、エゴイズムの暴走を招いて共同体は崩壊していきます。


共同体の敷居(ボーダー)を高くして仲間を選別し共同体の利害を優先する「偏狭な利他主義」と、共同体の敷居(ボーダー)を低くして全人類一人一人の独自性と自律性を尊重し個体の利害を優先させる「寛容な個人主義」のいずれを選択するか…、21世紀のいま、私たち一人一人の選択が必要ではないでしょうか。