堂山物語 第10話 | エラー|Ameba(アメーバーブログ)

堂山物語 第10話

何気に書いてる堂山物語ですが


パチンコ業界以外の方々からも


ペタ、コメント、読者登録を頂いて


ありがとうございます。







堂山町も含めて今までいろんな人との


出会いがあり別れがありました。


そんなこんなもまとめて書くために


僕のしょーもない生い立ちから書こうと思います。







本来の堂山物語からは趣旨が外れるのですが


なんせブログ初心者なのでタイトルは


そのまま堂山物語を引き続かせていただきます。
































僕は大阪の北摂地区で生まれました。


平凡な家庭の次男坊で


上には兄と姉が居ます。







家は貧困では無いけど裕福でも無いほうでした。







どんな感じかと言うと


無理して車を買ったのでしょうが


駐車場は当時住んでいた家から歩いて10分程


のところに法務局があって、法務局前の道路は


駐車禁止区域ではなかったので


我が家の駐車場は法務局前の路上でした。







プロフィールにある家系の話をすれば


曽祖父つまりひいおじいちゃんの時代は


結構、財力があったそうです。







ひいおじいちゃんは医学博士で小児科の開業医。


熱心なクリスチャンで駅前に教会を創立し


街の人たちからは


センセイと呼ばれる偉大な人物だったそうです。








その偉大なひいおじいちゃんの長男が


僕の祖父、おじいちゃんです。








当時でも大家族の部類に入るであろう


9人兄弟の長男でした。








曾祖母、ひいおばあちゃんは食事の用意をする時に


し、と、か、す、の、や、た、し、き


と子供達の名前の最初の文字だけを言いながら


茶碗を並べていたと、ひいおばあちゃんが存命中に


幼い僕に話してくれた記憶があります。








そんな一家の跡取りのはず?


長男のはず?のおじいちゃんは医者ではありません。

















レーサーだったそうです…




















ちなみに戦前の話です…
















ひいおじいちゃんも諦めたのか医者の跡取りは


おじいちゃんの弟のとおる叔父さんに託したそうです。









しかしとおる叔父さんは軍医として出征していた


アッツ島の日本軍玉砕で戦死されたのです。








終戦後おじいちゃんは無事帰還し鋳物工場かなんかを


経営していたそうですが上手くいかなかったそうです。





そんな豪快なおじいちゃんも僕が生まれてすぐに


ガンで亡くなりました。





実家には僕を抱いている


おじいちゃんの写真が一枚だけあります。





僕も持っている写真とは


比べ物にならないくらい





やせこけたおじいちゃんとの


たった一枚のツーショットです。





そんなおじいちゃんが亡くなった時に


友人の森繁久弥さんが日経新聞に追悼記事を


投稿くださいました。





偉大なおじいちゃんの追悼の意味も込め


下記に昭和54年10月7日の日経新聞記事を


抜粋させていただきます。





~私の履歴書~   森繁久弥





ー中略-


そんな友達の中に先日ガンでなくなった





○○○という理工科の友達がいた。





この男とは北野中学以来の友達で、





親父は当時有名な○○○という医学博士だが、





本人は頭のいい割に無頼途方もない男で、





クサイ屁をするところから中学時代に





イタチというあだながついた。











彼の学友には、親しかったソニーの





井深大氏などもあるのだから





学問はできたのだろうが、





オートバイのレースに出場して





足を折ったり、四十五年も前に、





彼はすでにレーサーとして





学校などゆかずに競走用の自動車を





自分でこしらえたのだ。





助手が乗らねば出場できないので





お前乗ってくれんか





と私と心中するよなことを





頼みにきたりした。














馬鹿はイタチひとりではない、





私も同意した。





二、三度は練習に同乗しろという。














これが物すごい音で耳がどうかなる





という程の騒音で走り出したのだ。














そして疾走する車の中で





彼は大声で





「アカンなあ、大事なネジがゆるんできたナ!」





「じゃ、とめろよ!ガタガタいっていたじゃないか!」





「まあ、こわれるまで走ろう」





私は何度も、これでダメかな





と思いながらつきあったが、





レースの当日、幸いなことに、





エンジンが駄目になって





私は命びろいをした思い出がある。














後年、私の新京放送時代、





新京の南にある通信隊の隊長をやっており





大尉姿で時々オートバイで





私の家にメシを食いにきたが、








酔うとしつこく





女房を口説いて





一晩いっしょに寝かせろ





といって私を困らせた好漢であった。






続く