天地人リレー講演会 第14回「直江兼続と最上氏」に参加してきました~ | 己鏡(おのれかがみ)

天地人リレー講演会 第14回「直江兼続と最上氏」に参加してきました~

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12月21日の話ですあせる


いつもであったら、とっとと記事にする所ですが


今回の講演会の内容としては、大学学部の「概論」的な内容でした


と言うわけで、「基本的な」内容と言う事で・・・・


今回は、心を動かされた事だけを書きたいと思います


(先生のこの講演会の目的の一つが「歴史を学ぶ楽しさキラキラ」でしたので・・・)


ところで、今回の先生は山形大学の伊藤清郎先生でした


この講演会に参加する前に、うちの地元の図書館で本を借りていました



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↑これです


新潟から帰ってきて気がついたのですが、伊藤先生の本でした!!ひよざえもん びっくり


タイトルと内容で、この本を借りようと思って、筆者・編者を見ていなかったので


なんだか、すごく偶然って感じ~




閑話休題!



で、今回「ほお~!」と思った事は


①もがみんが、今の山形に繋がるの城造りをしていたのは


唐布陣に出兵している頃だという事です


名護屋で指示していたらしいですよ~ひよざえもん びっくり


②・・・で、朝鮮半島に渡る事はなかったですが、名護屋で家臣宛の手紙に


「もう一回山形に帰りたい」だの「山形の水を飲みたい」


と泣き言を言っていたとか・・・・にひひ


まあ、当時であれば、自分の所領から外に出る事は


近隣に出陣する事以外無かったでしょうし


しかも、いつ海の向こうに出陣するか分からない状態だったでしょうから


もがみんでなくても、ドキドキものだったでしょうね~


③サル(秀吉)が死ぬ前に、秀頼に対する忠誠を誓う血判署


五大老達に求めた事は有名な事ですが


五大老の他にも、28名の連署起請文がありまして、その一人にもがみんがいたそうです


・・・出羽の国の窓口は、もがみんだったそうですから


当たり前と言えば当たり前ですが・・・・・苦笑い


ですので、上杉征伐の時も、最上川以北の大名を取り仕切ったのがもがみんであります


④直江状が「上杉」のアイデンティティの表れであったという事


↑この表現は、全く持ってそのとーりって感じでございます!合格


(大学教授の仰った事に対して・・・私は、偉そうに・・・パンチ!


⑤上杉軍が、小山から引き上げるたぬ(家康)を追撃出来なかった理由に


会津に転封になったばかりで、上杉の支配力が十分に浸透していなかったのが


不安材料であったので


・・・・・つまりは、国元で一揆を起こされることもありえた


と言う事も考えられると・・・


↑こんな不安材料を抱えて、一か八かの賭をする景勝君ではないでしょう!


まったくもってそのとーりなお話だと思いました!!ラブラブ


⑥上杉軍が畑谷城で行った行為(放火・殺戮)は


必ずしも上杉軍の脅威を知らしめた訳ではなく、兵農分離が進んでいなかったこの時期


兵農一致の戦いが展開されていた為である


↑村に放火をするのは、城攻めの常套手段であった


↑つまりは、戦国時代の戦では、日常茶飯事だった・・・・と


⑦もがみんが取った対策が、山形本城に兵力集中


長谷堂城あたりが防衛ライン


↑これは、基本的な情報ですが、改めて書いてみましたにひひ


⑧るっちー(留守政景)率いる独眼竜からの援軍は、今の山大付近に陣を布いていた



と言う所が、私が本題から得た事でございますチョキ


もがみんが絡んでいたので、ほんのちょっとオノデラーズが出ていましたラブラブ



その後、シンポジウムを行う予定でしたが、予定が変更されて


「越後文書宝翰集」にみる会津の景勝と兼続


と言う題の講演会となりましたが、時間が十分ではなかったので


レジュメの始めあたりで終わってしまいました・・・・・ガクリ


文書の内容の講演は楽しいですので、テーマとしては面白かったのですが・・・・合格



これで私の天地人リレー講演会が終わりました!


冷静に考えると、よくもまあ、何度も新潟に通ったものだなあ・・・・ハムスター


後は、来年に一回は新潟に行く予定です


米沢も・・・確実に一回は行きます


私のカゲカツィストの活動は、来年も続きまするグー





チューリップ赤おまけチューリップ黄



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↑21日にとった、ばんえつ号でございます



己鏡(おのれかがみ)

クリスマス仕様でしたので、私もついついデジカメのシャッターを押してしまいました


これは、毎週鉄ちゃんが集まるわな~ひよざえもん ラブラブ