天地人リレー講演会 第13回「上杉氏の分国支配と印判状」に参加してきました~
久し振りの長岡市・・・・
そして、歴博は今年の2月、サブカゲ君の焼きおにぎりを
見に行って以来でございます → 詳しくはコチラ
今回は、歴博の企画展「ハンコの今昔 」の事業の一環でもありました
天地人リレー講演会に参加してきました
(「ハンコの今昔」の感想は、また後日・・・・)
本当は、花押のお話でございましたが、担当の講師の先生が病気で来られなくなったので
印判状を研究されている先生が講演されました
私、学生時代から、文章が書かれてある紙切れが
印鑑や花押で命令書に変わるその作用と言いますか、効果と言いますか
そう言うものに興味がありました
至極当然なことですが
花押や印鑑の捺印があるだけで文章の重みがグンと変わる
と言うことが、何だか不思議で、興味深いことだったのです
まあ、私めの話はどうでもいいとして・・・・
今回の講演は、レジュメを見れば分かるという、シンプルなお話でありました
日本の印判は、鎌倉時代にその習慣が中国から禅僧を通じて伝わり
禅僧に帰依した武士に影響を与えました
鎌倉時代終わり頃には、画の評価で押したり、収集した書や鑑識したものに
印判が押されていた事が確認出来るそうです
花押の代わりに、文書に印判を押すようになったのは、14C後半以降だそうです
これも、禅僧から使用し始められ、同じく禅僧に帰依していた武士達にも影響されました
どのような時に発給された文書に印判が捺されたかといいますと・・・
花押の代用のため
花押を持たない女性&元服前の男子が使用していた
とのことです
例えば、手が負傷したとか病気などで、花押が書けない場合に
花押の代わりに印判を捺していたという例があるそうです
そして、花押とは、元服した時に「判始式」なる儀式もありまして
元服した男子でないと、花押は使えなかったということで
夫に先立たれた未亡人や元服前の男子が
文書を発給する時は、印判を使用していたそうです
↑それくらい、花押に重みがあったと言うことですね~
あと、面白いことに、越後の国の中では、越後毛利氏が早くに印判を使用していたそうでして
この辺から、越後毛利氏は、独自の制度&文化を持っていたと言うことが言えるかもしれない
とのことでした
ここで付け足しですが・・・・・
直江信綱とお船の連名の文書があるそうです
直江信綱の署名と花押が書かれてあるその右隣に
お船の名前と印判が捺されているとのこと・・・・
こういう夫婦連名の発給文書とはとても珍しいとのことです
これが、同時期に捺されたものであれば
お船という女性はそうとうの大物だと見ていいそうですが
この文章が発給された2ヶ月後に信綱が殺されてしまいますので
もしかして、信綱が死んでしまった後、その発給文書の効力が失われるのではないか?と恐れた
受取人が、再度未亡人のお船に署名を求めたのではないか?という考え方もあるそうです
まあ・・・正直、後者の方が自然な話だと思いますが
かといって、直江家の後継者は、信綱でもなく兼続でもなく
事実上お船だったと思いますので、前者でもおかしくはないと思います
それくらい、お船に権限はあっても、不自然ではない気がします
いずれにしても、なかなか興味深い文書でありました
では、上杉氏が分国支配にどのように印判状を用いたかと言いますと、下記の通りです
花押と印判とを使い分けて、身分&家格などの秩序立てのために利用された
判物(花押を使用した文書)よりも、短時間でより多くの文書を発給出来た
印判状は、目下の者に発給する事が多い文章だそうです
つまり、下に命令を下す時に、印判状だと短時間でスムーズに
しかも大量に発給出来るというメリットがあるんですね~
そして、発令権者が不在でも、代理の人が代わりに発給する事が出来るというメリットもあります
↑その代わり、そうとう信頼出来る人でないとダメですが・・・・
もちろん、悪用されるためです
悪用防止のために、花押と同様、印判も頻繁に換えられていたそうです
謙信は、約17年間に11種類12通りの印判を使用していました
(↑もちろん、改名も多かったので、それに合わせての印判&花押の変更もあります)
12通りというのは、同じ印判を朱印と黒印で使ったことがあると言うことだそうです
ちなみに、朱印が黒印より格式は上です
ちなみに景勝の印判は、謙信の印判を4種類継承して使用していました
↑こちらは、上杉家の後継者だというアピールもあったことでしょうね~
大量発給の出来、代理も利く印判状は、あらかじめ印判だけ捺された紙を何枚も用意して
遠隔地に赴任している、信頼のある部将に送っていた例もあるそうです
景勝の春日山の留守を守っていた黒金景信宛の文書で
「印判をさしこす」という言葉がみられるそうですが
「さしこす」の意味が、上記のように、印判だけ捺された紙を表しているのか
それとも印判そのものを指しているのか、不明だそうですが
もし、印判そのものであれば、かなり黒金さんを信頼していたと言うことでしょう
と言うことでした
あと、
極秘の場合は、この印判を使ってね
表向きの場合は、この印判を使ってね
という約束事が書かれてある文章があって、面白かったです
「おんみつのはん」と言われる印判が捺されている文章は
隠密なだけあって、殆ど見つかっていないそうです(「宝在心」の印判がそれにあたります)
そして、内々の用件に関しては「梅」と呼ばれる印判を使っていたそうです
↑この印判状も、殆ど見つかっていないそうです
上記は君主の印判使用に関しての話ですが
では、家臣たちはどうだったかといいますと・・・・
家臣が発給する印判状は、基本的に「黒印」を使用していたそうです
そして、知行の多い重臣たちの場合は、自分の署名だけで文書を発給出来ていましたが
その下の奉行職の人たちは、独自で文書は発給出来ず、必ず連名で文章を発給していたそうです
そして、署名時に実名を使わず、名字か官途名のみで印判を捺しているケースが多いそうですが
それは、公的権限を帯びて文章を発給しているからこそ
実名を書かなかったのだとおっしゃっておられました
といいつつも、実名に印判を捺した文章もありますが
それは、差出人と宛先人が親密な関係であれば、名前を書いて印判状を発給していたようです・・・
仲がいい相手に差し出す文書に、名字だけや官途名のみと言うのは、水くさいと感じたのでしょうか?
その辺は、通り一辺倒ではなく、人間臭さが感じられると思いました
禅僧から影響を受けた武士の印判状ですが
江戸時代に入ると名主や年寄りなどの民衆も印判を使うようになったそうです
その際、やはり花押は「武家のもの」であり、武家の女性&元服前の男子同様
花押を使用する資格はなかったそうです
そして、武家の印判状も、時代を経る毎に意匠を凝らしたものが多く登場しましたが
民間の印判は、今の三文判のような丸い形の印が使用されまして
それが変わることなく、今に至っているそうです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私、武家ではなく、しかもおなごで
バリバリ「花押」を使っています(なんちゃってだけど)
(しかも朱印まで・・・・・)
まあ、公文書で使用していないし~、「びびんば」で使っているし~、もちろん洒落も加わっているし~
正直、「天地人」とはあまり関係のない話だったような気もしますが
(上杉という事では関係あったと思いますが)
内容も分かりやすく纏められていて、かなり面白く聞かせて頂きました
次はもがみんとのお話・・・12月の講演会が、私的に最後の講演会ですが
今からとても楽しみにしておりまする~