天地人リレー講演会第5回「上杉景勝・直江兼続と上田衆」に参加してきました! | 己鏡(おのれかがみ)

天地人リレー講演会第5回「上杉景勝・直江兼続と上田衆」に参加してきました!

実は、新潟県南魚沼市に行ってきたのは・・・・


タイトルの通りでございます苦笑い


「上杉景勝」という名前が付いている所に行くことが可能であれば


ついつい飛んでいってしまうカゲカツィスト2号(゜∀・)


結構な強行軍でしたが、無事に参加して帰ってきました!


しかも、Step by Step のカタリーナさんには


またしても大変お世話になりました


その件に関しては、また後日に記事にいたしますにひひ



さて、いろいろな出来事がありましたが、今回はピンポイントで


講演会の内容だけ聞いたことを整理するために、記事にしたいと思います苦笑い


聞いた上で、私なりの考えを付け足しているので、もしかして講師の方の


考えからかけ離れてしまうかもしれませんので


興味のある方は話半分で読んで下さいあせる



講師の先生は、長岡市立中央図書館文書資料室嘱託職員の


田中洋史さんでした(長岡市出身だそうです)


上田衆というのは、景勝君の直属の家臣団でありまして


基本的に景勝君の出身地の出身者で形成されている・・・・


これを聞くまでは、上記が私の上田衆にたいする知識でした



まずは、最初に『上田衆』に関する研究史や研究方法の説明がありました


出発点となる研究は、米沢藩の藩政成立史でして


そこから、藩制以前・・・・つまり越後時代である


謙信・景勝時代の家臣団編制の経緯の研究につながり


そして、景勝以前の越後国上田庄の上田衆の研究へと続いているようです


上田庄まで研究範囲が狭まれば、もう文献研究を補う形で


フィールドワーク(現地調査)も行われているようです


それが、現在の市町村史編制にも引き継がれているようです


仮にも文献史学を専攻していた私には(中国史ですが・・・)


フィールドワークは、あくまでも民俗学だけかと思っておりましたので


地方史研究にフィールドワークが行われているとは、知りませんでしたハズぃ!



つづいて、景勝政権を支えた上田衆の構成についてのお話がありました


高野山清浄心院の「越後過去名簿」から、景勝以前の上田庄の供養者の


名前と出身者を調べてみたら・・・・・・・


「坂戸」出身者よりも「樺沢」出身者の割合が多かったそうです


坂戸とは、上田長尾氏の居城がある所・・・・


そのことにより、上田庄≠上田長尾ではないという見解を話されていました



次に謙信時代の上田衆についてのお話でした


景勝君の父・長尾政景が、不慮の事故で亡くなりました


その時、景勝君は10歳くらい・・・・・


上田衆は、実質謙信の指示で動くことになりますが・・・・・


(余談ですが、謙信からみて、上田長尾は野党のような存在ですので


戦の時は前線部隊に投入されていました叫び


栗林次郎左衛門尉(政頼)が、亡き政景の後に実質上田衆を統括していたようです


そして、謙信の指示により、景勝のために、政景譜代の家臣から


人柄と家柄を吟味して、50人五十騎を親衛隊として編制されました


これが、景勝の直属の軍隊なのですが、この時期の五十騎は


上田庄出身者で形成されていたようです


(その根拠となる資料の質に関しては、吟味する必要があるそうですが・・・


または、この中に果たして、樋口与六が入っていたかどうかも分からないそうです)



そして、話は御館の乱に入っていきます


景勝と謙信の後継者を争った三郎景虎は、実家の北条氏へ援軍を要請しました


三国街道から越後に侵入した北条軍は


天正6(1578)年9月に、上田庄にある樺沢城を奪います


樺沢城は交通の要衝であり、上田庄にある城の一つ・・・・


更に、上田長尾家の居城・坂戸城と目と鼻の先・・・・


樺沢城を巡る攻防戦が繰り広げられます


その間に、景勝は手紙を170通位出して、交戦を繰り広げている者たちに


叱咤激励をしたり、細かい戦略上の指示を出したりしています


北条軍は、雪のため樺沢城から撤退!


翌年2月に、景勝方が樺沢城を奪い返し


翌月3月24日に、三郎景虎が鮫ヶ尾城で自害


翌年の6月まで、越後国の混乱を収め、御館の乱は終息しました



そして、景勝政権の誕生と直江兼続の台頭についての話でした


樋口与六・・・・つまり直江兼続の名前が出てくるのは


天正8(1580)年7月13日付の、景勝から泉澤久秀宛の文書からだそうです


それからは、その当時の樋口与六は、軍事物資の管理をしていたのだろうと


言うことでした


天正9(1581)年に、御館の乱の恩賞の不満から


春日山城内で、山崎専柳斎が毛利秀弘に斬られます


その場にいた、直江家の当主・直江信綱も巻き添えになる形で凶刃に倒れ


直江家がお家断絶に追い込まれますが・・・・・


(もちろん、毛利秀弘も景勝の側近にその場で斬られます)


景勝は直江家断絶を惜しみ、樋口与六を直江家に婿養子として入れるように指示し


直江兼続がここに誕生することとなります


この事件が、結果的に謙信を支えてきた勢力(毛利・直江)から


上田衆が上杉政権を担う起点となる事件となったのではないか?と


おっしゃっておられました


その証拠に、この事件に関わっていた五十騎衆は、五十騎衆から抜け


上将クラスに昇格し、分国を与えられています


そして、このころの五十騎衆は、上田出身者だけではなく


御館の乱で功績を挙げたもの、信州出身者、会津出身者なども加えられ


「五十騎」なのに、99人で構成された五十騎衆になったそうです


(99という半端な数なので、もしかして一人取りこぼしているかもしれないと


おっしゃっておられましたが・・・・)



最後に、講師の先生は、一応(?)図書館に身を置かれている方なので


直江兼続が主人公になっている歴史小説の一覧表を作ておられ


その事について話されました


どの小説も


「上杉討伐にやってて急遽西に反転した家康を


どうして上杉軍は背後を襲わなかったのか?」


を問題提起されているとの事・・・・


上杉主従が、家康を追うの追わないの・・・という話のネタは


「北越軍記」からきているもので、実際は主従がそう言うやり取りを


したかどうかは、もちろん謎です



私の感想としては・・・・


講演会の内容は、ご自身の研究経過の研究ノートの公開という感じでした


きっとこれからも研究を深められて行くことと思います



現存する文献資料からの研究の発表というのに、久し振りに参加したので


心がちょいと学生気分に戻りましたにひひ


後は、基本的にローカルネタなので、地名を言われてもちんぷんかんぷん・・・・あせる


みんな上田庄の中の地名なんだろうと、適当に判断するしか・・・・(゜∀・)


ダラダラ描いた割には、講演会の内容を深く記事としてかけなかったのが

私の不徳の致すところでございますしょぼん




レジュメに中にあった文献資料に


「家政婦は見た!」の景勝バージョン(?)


がありました!にひひ


その辺は、きっとカタリーナさんが書いてくれることでしょうキラキラ


(↑丸投げ?爆弾