平野綾がツイッターであらぬ発言をしてファンとアンチを騒がせていることは今に始まったことではない。
最近では事務所からツイッター禁止令が出たのか、しばらくつぶやかない宣言をしたようだ。


平野綾の振る舞いが他のアイドル声優と異なる点は、一般的なアイドル声優が少なからずファン向けの偶像を作り上げているのに対し、平野はありのままの自分を見て欲しいと考えているところだろう。


いささか旧聞に属すが、そんな平野綾に対して、元ファンクラブ会員(平野塾・塾生)だったという人物がツイッターに以下のような書き込みをした。
なお、この書き込みには前段があって、平野綾がカフェでお茶していたら目の前にかっこいい人がいて一目惚れしそうになったという趣旨の発言を受けてのものだ。


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元平野塾生:
はっきり言ってね、素の自分を曝け出すのってある意味一番楽なんですよ。
でもみんなそれはやっちゃ駄目な道と知ってるからやらないんです。
自分を売り出そうとして人にも迷惑かかるからね。
他の声優さんは少なからず素の自分を殺して、ヲタに献身してますよ。
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声優に限らずアイドルと名のつく芸能人がファン向けに「素の自分を殺す」ことはごく普通のことだ。
「アイドル」という言葉はラテン語の「イドラ(idola)」を語源とし、イデア(真実)に対して幻影や虚像という意味を持つ。
つまり、アイドルは本質的に真実(素)のものではなく、偽り(虚像)のものなのである。
元平野塾生氏の「素の自分を殺してヲタに献身」という言葉は、表現の良し悪しは別としてアイドルの本質を突いている発言といっていい。
これに対する平野綾の返信がこうだ。


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平野綾:
他の声優さんは少なからず素の自分を殺して、ヲタに献身してますよ…って失礼すぎませんか?
私のことが気に入らないのはいいですけど、このような言い方をされると自分のことより腹が立ちます。
一体人に対してどういう見方をしているんですか。
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恐らく、平野綾は「素の自分を殺し」と「ヲタに献身」という表現に違和感ないし嫌悪感を抱いたのだろう。
その気持ちは理解できなくも無いが、この後に

「私は声優です。アイドルです。役者です。アーティストです。」

と発言している以上、やはりアイドルの本質を理解せずしてアイドルをやっているとしか思えないのだ。


ここで、平野綾の考え方を忖度して、

「素の自分を殺すことは良くない」
「ありのままの自分で生きてゆくことが一番素晴らしい」

と言い替えてみよう。


本人から反論があるかもしれないが、とりあえず、以上の二点が平野綾の基本的な立場であると思う。

このような考え方は平野綾に限ったことではなく、多くの人々、特に若者は共感を持つのではないか。

しかし、嫌な大人からの意見を述べさせていただけば、人はありのままでは生きてゆけない。


上に、アイドルの例を出した。
アイドルはありのままの自分を殺し、ヲタに献身するものだと。
しかし、これはアイドルに限ったことではない。
現実社会を生きてゆく多くの人が、少なからずありのままの自分を殺し、会社であったりお客であったり、社会に献身している。
況やアイドルをや。
人が少なからず演じながら生きていることは何も悪いことでもなく、むしろ、当然のことだ。
そのことに言及すること自体は平野綾がいうように「失礼」なことではないのである。


ここで私の記事にはよく登場する福田恆存先生の言葉を紹介したい。
かつて福田先生は『人間・この劇的なるもの』でこう述べている。


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自然のままに生きるといふ。
だが、これほど誤解されたことばもない。
もともと人間は自然のままに生きることを欲してゐないし、それに堪へられもしないのである。
程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがつてゐる。
また演じてもゐる。ただそれを意識してゐないだけだ。
さういへば、多くのひとは反撥を感じるであらう。
芝居がかつた行為に対する反感、さういふ感情はたしかに存在する。
ひとびとはそこに虚偽を見る。
だが、理由はかんたんだ。一口にいへば、芝居がへたなのである。
(略)
舞台をつくるためには、私たちは多少とも自己を偽らなければならぬのである。
堪へがたいことだ、と青年はいふ。
自己の自然のままにふるまひ、個性を伸張せしめること、それが大事だといふ。
が、かれらはめいめいの個性を自然のままに生かしてゐるのだらうか。
かれらはたんに「青春の個性」といふありきたりの役割を演じてゐるのではないか。
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『人間・この劇的なるもの』では人生は劇のようなものであり、一人ひとりに与えられた役割(運命)があり、それを上手に演じなければならないという趣旨のことが述べられている。
つまり、人生とは演じることなのだ。


平野綾は素の自分を殺して偽りの自己を作り上げることは悪いことだと言う。
しかし、彼女がありのままでいたいというその「ありのままの自分」もやはり、ありきたりの「素の自分」という役割を演じているに過ぎない。
それも、その演じ方が下手であるがゆえに、ファンを動揺させ、アンチを増やす結果となってる。


「ありのままの自分」に拘るあまり、自分を見失ってしまう。
このような弊に若者は陥りやすい。
一時期、自分探しをする若者が増えたが、それも結局は自分の演じるべき役割を見失った結果ではなかったか。
そういった典型例が平野綾であるように思う。


勘違いしないで欲しいが、何も「ありのままの自分」を出すことが悪いとは云っていない。
私が述べたいのは「ありのままの自分」というものも「素を殺した自分」と同じく一つの役割に過ぎず、どちらも演じていることには変わりないということだ。


人生は演じることだ、とすでに述べた。
であれば、自らが「ありのままの自分」を演じたければその役割を上手に演じればいいのだ。
しかし、演じ方が下手であれば、どちらの役割を演じても、平野綾のような弊を犯す。
平野綾は声優としてキャラクターを演じるは上手いのだろうが、「平野綾」を演じるのが下手なことを残念に思う。


平野綾の演じ方を青年は他山の石とされたい。