「おそ松くん」「天才バカボン」などで知られる漫画家の赤塚不二夫(あかつか・ふじお、
本名・藤雄=ふじお)さんが2日午後4時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。
72歳だった。旧満州(現中国東北部)出身。自宅は東京都新宿区中落合1の3の15。
葬儀・告別式などは未定。


終戦で大陸から引き揚げ、奈良県で育つ。小学生時代に手塚治虫作品に感激し、
漫画家を志した。中学を卒業して3年間、新潟市の看板店に勤めた後、
昭和28年に上京。化学工場で働きながら、漫画雑誌への投稿を重ねた。


31年、「嵐をこえて」でデビュー。東京都豊島区椎名町にあったアパート「トキワ荘」に転居し、
石ノ森章太郎や藤子不二雄らと腕を磨いた。34年には“赤塚ギャグ”のはしりとなる
「ナマちゃん」が好評に。37年には「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」が爆発的にヒット。
続いて「天才バカボン」「もーれつア太郎」などのヒット作を連発し、“ギャグ漫画の王様”となった。


ニャロメ、ウナギイヌ、レレレのおじさんなどのユニークなキャラクターを生み、
「シェー」「ダヨーン」「これでいいのだ」などの流行語も数多く誕生させた。


平成9年12月に自宅で吐血して入院、食道がんが判明。その後も急性硬膜下血腫や
脳内出血で緊急手術を受け、14年以降は創作活動を休止していた。


昭和40年に小学館漫画賞(おそ松くん)、47年に文芸春秋漫画賞(天才バカボンなど)を受賞。
平成10年に紫綬褒章を受章。15年には東京都青梅市に「青梅赤塚不二夫会館」がオープンした。


最終更新:8月2日21時22分 8月2日21時22分配信 産経新聞


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080802-00000949-san-ent




とうとう怖れていたことが、現実のものとなった。

赤塚先生が随分前からほとんど人事不省の状態だったことは伝え聞いていた。

先日も美容師の先生と「赤塚さんも、もう長くないでしょうねえ」などと赤塚先生の病状を案じていたのだが、とうとう逝ってしまわれた。

漫画ファンとしては漫画家が亡くなることはまことに悲しい思いがする。


藤子・F・不二雄先生が亡くなられたとき、あの時、私は小学六年生だったが、なにやら無性に悲しくて胡瓜をばりぼりと一本丸ごとほおばった記憶がある。

なぜそのようなことをしたのかは良く覚えていない。


赤塚不二夫先生はF先生と同じくトキワ荘のメンバーでギャグ漫画の神様とも謳われた人だ。

赤塚先生の作品、「バカボン」や「おそ松」、キャラで云うとニャロメやイヤミなど日本中で知らない人を探す方が難しいのではないだろうか。

私は幼稚園の頃、アニメの「平成天才バカボン」と「もーれつア太郎」をリアルタイムで見て、

後に夕方の再放送で「おそ松くん」や「元祖天才バカボン」を見た世代にあたる。


「平成天才バカボン」の最終回の最後の場面はあの有名なエンドレスギャグなのだが、その時、洋間で父と二人で見ていて共に爆笑したのを覚えている。

当時、私は五歳。この頃の記憶が鮮明に残っていたのだから赤塚ギャグの衝撃の凄さがうかがえる。

「たたえよ鉄カブトなのだ」の回もかなりの衝撃で怖いくらいだった。

「もーれつア太郎」や「おそ松くん」も様々な記憶が残っていて、赤塚作品はその後の私の人格形成に少なからず影響を与えている。

例えば私が秋刀魚好きなのは本官さんが秋刀魚を美味しそうに食べようとして食べられなかったエピソードに由来する。


赤塚先生の死期を早めたのは何と言っても酒だろう。

先生はアルコール依存症で、医者に酒を止められても「ボクは酒を止めたほうがもっと大変なことになる」と言ってきかなかった。

御夫人の話によると先生は家でよく幻覚を見ていたようで、一人で見えない相手と楽しそうに喋っていたという。

先生御自身もそれを自覚していて「いま、幻覚の人と喋っていた」などと笑顔で仰っていたらしい。

ギャグ漫画の神様は私生活もギャグそのものだったわけだ。


赤塚先生といえば、タモリとのエピソードもなかなか楽しい。

赤塚先生とタモさんが出会ったのは東京のジャズ好きが集まる「ジャックの豆の木」というバー。

それ以前に知り合っていたジャズピアニストの山下洋輔さんが密室芸をさせるために福岡からタモさんを「ジャックの豆の木」に呼んだのだ。

タモリの芸に感動した赤塚先生は「自分の出ているTV番組に出演しろ」とタモリに打診するが、

タモさんは「八月の出演までは東京にいられない」との返事。

そこで、赤塚先生はタモリを自分のマンションに住まわせることにした。

家賃十七万、4LDKという高級マンションで冷蔵庫にはハイネケンがぎっしり。

さらに、月二十万の小遣いを渡され、ベンツも乗り放題だったという。

はて、赤塚自身はどこに住んでいるのだろうとタモリは案じたが、赤塚先生は事務所のロッカーを倒しその上に布団を敷いて寝ていたという。

もちろん、この頃またタモリはまったくの無名の素人で、赤塚先生らの支援があって芸能界入りを果たすことになったわけだ。

このたびの訃報にタモさんはどんなコメントをするだろうか。


今夜は『まんが道』を読んで在りし日の赤塚先生を偲びたいと思う。