邦楽器と洋楽器の合わせによる室内楽の可能性について

高橋 通

不思議なことだが、多くの日本人は、日本の伝統音楽や邦楽器のことを殆ど知らない。西洋音楽の知識に比べれば、無に等しいのが現状であるので、主に邦楽器とその音楽について述べることにし、邦楽器と西洋楽器の特性を考えたうえでの両者による室内楽の可能性について考えてみることにする。

<邦楽(日本の伝統音楽)の特徴>
1、楽器と調律の問題
楽器はそれで演奏される音楽の特徴と歴史を担って作られている。音楽が変貌した時に、楽器は改変されて変わって行く。
人為的に創作された楽器(サックスフォーン、十七弦箏等)もある。しかしそれさえも、歴史の流れの中での必然の出来事に過ぎない。その個人が作った楽器は、彼/彼女が作らなくても、いずれ歴史には登場したものであり、作り出された後も多く使われ続けている。あまりに歴史の流れからかけ離れたもの(アルペジオーネ、オークラウロ等)は消滅してしまった。
ヨーロッパでは、J.B.バッハの頃から、いわゆる平均律が用いられるようになり、ピアノの鍵盤で言えば、それが白くても黒くても、どの鍵盤からも音の高さが異なるだけの均質な音が発するよう作られている。この平均率の考え方は、転調の可能性に起因していると思われる(厳密には様々な問題があるが)。一方で、平均率の採用によって、音階の夫々の音の持っている機能や表情を薄めてしまったことも事実である。
邦楽器の場合、楽器の発音出来る音数が限られているものが多い。その制約の範囲で色々な音楽が演奏されている。なぜそれが不自由ではなく、日本の伝統的な音楽が歴史をたどって来られたのかと言えば、大半の伝統音楽が(日本の民族的な特性を持った調性音楽である)声楽中心であり、それに見合う音の数があれば良かったからであろう。箏、三味線などの弦楽器類は、声の高さに従って調弦をすれば良いので、使用しない音を予め楽器に設定しておく必要がなかった。尺八等の笛の類いでは、基音の異なった楽器を用意することで、対応は充分であった。さらに、使われる音階のどの音も同じような音質(音色や音程すら)求められていた訳ではなく、基準となる核音以外は、都節=陰音階の音楽では微弱で翳りのある音が望まれていたし、陽音階=田舎節の音楽では明るい旋律に見合う音色が求められていたし、そう言った種類の音楽が演奏されていた。それが旋律を重視した日本の伝統音楽であったからである。

2、音楽の違い
明治維新以後は、日本に西洋の文化や文明が怒濤のように流入して来た。音楽もそのうちの一つである。
伝統音楽の世界ではどのような影響をうけたであろうか。良く知られているように、宮城道雄が西洋音楽を取り入れた箏の音楽を作曲し、それが現在に至まで影響を及ぼしている。
今でこそ、伝統の十三絃の箏よりも弦の数の多い楽器は数多く使われているが、1929年に宮城道雄は、ピアノの鍵盤数に迫る80本の弦をもつ箏を作った。宮城の業績の中で数少ない失敗に終わったものである。その80弦箏で宮城が試みたのは、バッハのプレリュードの演奏と西洋音楽の影響が色濃い自作の曲を編曲したものであった。
旋律の流れを重視する日本の伝統音楽が、構築的な西洋音楽とは相容れなかった。もともと、歌や物語を謡語ることで時代を経て来た邦楽は、重層構造を持った構築的な西洋音楽とは音楽の質が違っていた。

3、和声,音響、リズム、「間」について
1)低音楽器が無い理由
日本人には音そのものに、独特な嗜好あった。雅楽では、低い音の楽器が殆ど無い。それは、平安時代に楽制改革があり、低い音のする楽器が排除された故である。何故排除されたのかは、幾つかの理由が考えられる。低音楽器は物理的に大きく、それだけ演奏や取扱いが大変だからであろう。もう一つは、当時の低音楽器が発する音があまり良い音ではなかったのかもしれない。さらに、低い音が当時の日本人の好みに合わなかったからとも考えられる。しかし、雅楽でも大太鼓のように低い音のする打楽器がある。寺院の梵鐘は低い音が持続し、西洋の教会の鐘とは対照的ですらある。
楽制改革で捨て去られた低音を発する楽器は、宮城道雄の十七弦箏まで復活すること無く忘れ去られていた。その結果、音楽では旋律が重視され、音響的なものは発達しなかった。旋律以外では、お寺の梵鐘のように、一つの音(響)が醸し出す世界を重視するようになった。低い音から順次音を積み上げて構築的な音響を作り出すことよりも、一つ一つの音そのものの響きを大事にする音(響)が重視されるようになった。

2)「間」「拍子」
日本の様々な分野で「間」「拍子」と言われる言葉がある。西洋音楽では、音は高さと強さと長さの夫々が独立した単位で構成されている。日本の伝統的な音楽では、一つの響きとして捉えられている。音は空間を占めていてその空間には時間も含まれている。一つの拍は、ある時間的な一点を中心とした前後にも広がりを持っている。音の鳴る瞬間よりも前から始まっている。その結果、一つの音によって(物理的に音の鳴っていない時間を含めて)緊張のある時間的な空間が生まれる。太鼓の音一つで、ある時空間が出来上がるのである。その感覚が、楽音だけでない雑音までも音楽の中に取り込む要因になっている。このことが、西洋音楽のリズムと日本の伝統音楽の「間」「拍子」の差である。この「間」「拍子」は、音楽だけでなく他の分野にも応用される。一つの音が鳴ると、その音の時間的空間が生じる。次の音が鳴るとそこにも時空間が生じる。二つの音の間には、音が物理的に鳴っていなくても、そこに休符があるとは限らない。

<邦楽器と洋楽器のコラボレーション>
このような特性、西洋音楽とは極端に違った質の音楽を担って来た日本の伝統楽器を、ピアノやヴァイオリン等の西洋楽器と併せて使う場合は,どうしたら良いのだろうか。

先ず、考えなくてはならないのが、どういう目的で邦楽器を使うのか、である。単に、邦楽器の持っている音色や演奏技法による効果を使いたいのか、邦楽の世界そのものが欲しいのか、これをはっきりと認識することが重要である。

音色や効果が欲しいのならば、そのまま使えば良い。箏ならば音程を十二音平均率に調弦しておけば、音量の問題は別にして、たいていの西洋楽器と合わせて使うことが出来る。音の数も、伝統的な箏は13絃であるが、現代では21弦、25弦の楽器とその奏者は簡単に見つけることが出来る。尺八は、基本的には五つの指孔しか無いので、半音を出すにはそれ相当の技術が必要である。しかし、どの音も均一に出る訳ではない。もし、均一な音色を望むならば、七孔や9孔の尺八を持っている演奏家を捜すのが手っ取り早い。

一方、伝統的な邦楽の世界を取り入れたいのならば、音組織が平均率などの西洋音楽的なものとは一致しない、リズム感が違う、等々の問題があり、通常の意味で調和させることは無理である。その点、武満徹の採用した方法は、西洋音楽は西洋音楽として、邦楽は邦楽として作曲し、音楽的な特性は各々の演奏者にゆだねてしまい、その違いを摺り合わせること無く共演させることによって解決している。演奏者の質によって出来上がる音楽には差が大きいが、作曲者の意図を理解してくれる演奏者を探すことが出来れば、予想以上に良いものが出来上がる。

邦楽器と洋楽器の合わせによる室内楽の可能性についての結論から言えば、可能性はある。邦楽器は、基本的にあまり現代化されていないので、自由度が大きい。西洋楽器に合わせることが可能である。調律については、ピアノを邦楽器に合わせることは困難であるが、邦楽器の調律をピアノに合わせることは出来る。しかし、邦楽器らしさは失われる。
両者の特徴を生かした室内楽となると、考えなくてはならない技術的な問題は前述した様に多い。

NHK邦楽技能者育成会は2010年に閉講してしまったが、音楽大学に邦楽科のあるところも多く、西洋音楽的な知識を併せて教育しているので、洋楽の基礎的知識を持った演奏家は多い。にもかかわらず、邦楽器の演奏家には五線譜に抵抗を感じる者も多い。また、邦楽に特有のリズムを微妙にこなすが、三連符でさえ不得手な演奏家も多い。
種々の邦楽器の特徴や記譜法を含めた楽器法については、近年幾つかの本が出版されているのでそれを参考に出来る。(記譜法の問題については、楽器と同様に歴史を持っているので、問題は大きい。いずれ、別の稿で述べる機会があると思う)

筆者は邦楽器を演奏するが、洋楽器使った曲を書くことが多く、作曲者の側に偏ってしまったが、演奏家にも知っておいて欲しいことを書き述べた。