一絃琴の起源に関する調査・研究
1,目的
一絃琴の起源については、在原行平の須磨配流にまつわる伝説(古今集・謡曲「松風」)、足利義政と能阿弥の須磨の関に関わる話、日本後記記載の天竺人の記録などがあるが、どれも今日行われている一絃琴につながる歴史的事実は見つかっていない。それらの話の内蔵する叙情が一絃琴の持つ音楽的かつ歴史的哀調に通じるものがあて、その起源の物語として語り伝えられている。歴史的な事実をみると、熊沢蕃山(1619~1691)が演奏したという話(柴田花守/一絃琴由来記~土佐人の松崎某の談、一絃琴通史:中根香亭(1838~1921)原稿・木村架空/校註)にあり、池大雅(1723~1784)や柳里恭(1706~1758:柳沢淇園)、高芙蓉(1721~1784)の名前が琴体裏面に記された古琴が存在している(一絃琴通史に徳弘大無が所持しているという記述がある:という)ことから、17世紀末か18世紀初頭にはこの楽器を弄んだ人たちががいたことがわかる。河内の仏僧・覚峯(一絃琴中興の祖)以後については諸本に記述があり、全てが詳らかと言うわけではないが、おおよその伝承については知られている。
ほぼ時代を同じく(元禄)して、七弦琴が東皐禅師によって中国から(奈良時代以前に雅楽が中国から入ってきたときに七弦琴ももたらされたが、楽制改革で使用されなくなった)もたらされ、日本の文人に広まったことは文献や残された楽器などの資料が多く存在して明らかである(七弦琴については岸辺成雄氏の著書「江戸時代の琴士たち」に詳しい)。一絃琴の形態はいくつかの相違点を除いて七弦琴に酷似している。この形態的類似と、確認できる一絃琴出現の時期によって、一絃琴の由来を推測している文献は現代において散見するが、学問的に信頼できる裏付けをされた考察は見られない。
筆者が知り得た文献や古楽器から、この問題「現代行われている一絃琴の起源」について、考察を試みたい。
2,調査・研究項目・考察すべき論点などのメモ
1,中国に独弦琴と称する一絃琴(以下「一絃琴」とのみ記した場合は、本研究の対象である現代行われている日本の一絃琴をさす。モノコードと言う意味でのイチゲンキンは一弦琴と表記することにする)に類似した楽器が歴史的(隋・唐の頃?)に存在したという。七弦琴に類似した形をしていたと言うが未確認である。現在しばしば目にしたり書かれている中国の独弦琴は、抱琴ともいわれるもので、中国南部の少数民族「京族」の民族楽器であり、一絃琴とは関連がない。この楽器は、ヴェトナムのダンバウと同系統のもので、弦の張力をハンドルで変化させて音高を調節するもので、一絃琴とは弦の数が同じと言うだけで、無関係なものである。
2,紀州徳川家(紀州徳川家十代治寶(はるとみ:1770-1853)によって蒐集)の所蔵になる、中国伝来の一絃琴があるという(*-1)。また、大阪音楽大学音楽博物館・学芸員の、大梶晴彦氏によれば「現在、東京の国立博物館の中に、法隆寺宝物館というのがあり、そこに国宝の一絃琴が納められていて、これは製作地と製作年が記されていて、明らかになっている。中国の唐時代の物でして、724年に製作されたというのがはっきり分かっている」と言う(*-2)。
3,鳴り物博物館(及川尊雄氏館長)に、七弦琴に類似した形の一弦の琴がある。この調査が必要。おおよその様子を記しておく。大きさは、一絃琴とほぼ等しい長さであるが、幅はやや広い。七弦琴と同じく裏板をもつ箱形の胴をもっている。構造的には七弦琴とほとんど同じと思われるが、弦は1本である。転軫(ネジ=糸巻き)を持たない。琴体後部にかけ、裏側にまわし、2本の糸留めと思われる足に固定している(これも七弦琴と同じ方法。足は新しく作った物のように見えた。)。駒(一絃琴では柱ともいわれることがあるが、箏の柱と紛らわしいので駒とする)はなく、箏や七弦琴に見られるような竜角を持っている。注目すべきは、琴体の表面(いわゆる甲)には5~10mm程度の高さの長方形の柱が立っている。個数はおぼえていないが十数個であろう。かなり竜角に近い位置まである。琵琶の柱のように、開放弦では、弦はこれらの柱に触れないようである。推測するに、琵琶の柱のような役割をしていたと思われる。単なる目印の「徽」としては、形、高さがありすぎる。この楽器の作者は、及川氏によれば、浦上玉堂の弟子の児島百一らしい。
4,裏板のある一弦の琴は制作年代は不明だが、いくつか存在する。
5,鳴り物博物館には、もう一つ面白い一弦の琴がある。制作年代は不明だが、琴体に文字が書いてあったので、解読すれば何か情報が掴めるかもしれない。興味深い特徴について簡単に記しておく。いずれ詳細な調査が必要と思われる。この琴で、最も重要かつ特徴的であり、興味深いのは、琴体表面に一本の弦の跡が存在することである(この跡の問題については後述する)。琴体は2~3cm程度の硬い木で出来ている(欅?材質については調べる必要がある。また、硬く丈夫であることにも注意する=梯子の件に関連すると思われる。)。平板で反りはない。裏側には長方形の槽が彫ってあり(七弦琴の構造との類似点)、大きさは10x3x1xcm程度であろう(七弦琴と同じように2個であったかもしれない。琴体が空洞になっていて、単に裏板開けてあった穴であったかもしれない。)。表面の頭(額)部に弦を通した孔があり、尾方に向かって擦れた溝が2~3mm程度ついている(弦を尾方に向かって引き、張っていた跡と思われる)。弦は、表面から裏側に通し、孔(竜眼)よりさらに頭方に設置された糸巻き(表面から突き抜けてい)裏側に出ている部分に固定されていたように見える。尾部には糸巻きはない。孔から裏面に出されて固定されていたようだ。詳細は未確認であり、確認・調査が必要。弦はなかった。琴体表面(甲)に一本の浅い溝が出来ていて、本来存在した物でなく、弾琴したために弦によって出来た物と推定される。竜角は存在しない。駒も見当たらなかった。筆者は、弦を指で琴体に押しつけ(三弦、七弦琴のような方法)演奏し、そのために弦の跡が琴表面に付いたと推測している。琴体表面の詳しく調べれば、駒の跡や弦を押さえた指の跡が見つかるかもしれない。
6,琴体表面に弦の跡のようなものがある古琴については、山本翁が著書「續・琴狂いの記」に記載があり、翁が所持していた書いておられる。その琴について、奥様に問い合わせたが、わからないと言うことであった。大西一叡さん、稲垣積代さんに差し上げたかもしれないと言う。春水琴と混同していらっしゃるかもしれない。この琴の行方をしらべ、琴を調査したい。大西さんは著書「一絃琴・ひとつ緒の道」で春水琴を宮尾登美子氏に差し上げたと書いておられるので、確認してみることも必要かと思う。
7,現在、一絃琴を演奏するには芦管を用いるが、芦管の使用については、真鍋豊平と言う説(中根香亭著:一絃琴通史)と杉浦東蘭(=桐邨=杉隈南のことで、上田芳一郎著:隠れたる琴士杉浦東蘭)の工夫によるとの説がある。それ以前は、右拇指で演奏していたとされる。左手には芦管のようなものを嵌めていたという記述が「須磨琴之記」に書かれている。奏法と琴の形、特に竜角か駒かの問題に大きく関係すると思われる。山本翁は、覚峯琴の大きな駒と現在の駒の差は、奏法の差に起因していると推測されている。
8,徳弘大無所蔵の古琴に、柳里恭が所持していた琴があり、裏面に書かれていることより、池大雅が一絃琴を演奏し、高芙蓉が柳里恭に遣ったものと書かれている、と言う。峯岸一水氏に尋ねる必要があり、調査したい。
9,上記のいろいろな点について、年代を出来るだけ明らかにすることが必要である。
3,考察・推定できる結論
一絃琴の源流は、中国にあったと推定されること。それが江戸初期に七弦琴の再渡来とともに渡ってきたが、主要な物でなかったため、余技的なものとして、記録に残らなかった。あるいは、江戸初期の絵師たちが演奏していたと思われるので、南画とともに絵師たちに伝わった可能性もある。法隆寺に古い一絃琴があると言うことだが、それがそのまま現在につながった可能性は低い(七弦琴でさえ、古い物が残った可能性はない)。初期の七弦琴制作者が一弦の琴を試作していたと考えている。そのため(あるいは中国の一弦琴をモデルにしたため)七弦琴に近い形の物が出来た。しかし、七弦琴制作者の手を離れて、文人や半素人が自作し、自分で楽しむようになってからは、反りや裏板の存在するような作るのが難しい形の物ではなくなり、一枚板のものになったと推定する。糸巻きについても、三弦の影響もあったかもしれないし、単なる糸の留め具で、糸張りは枕木で調節したこともあったのかもしれない。文人たちが自らの楽しみのために弄んだものであり、日本全体を統一するような形を形成するには至らなかったため、種々の試作的な形・構造の一絃琴が存在すると推定される。演奏についても、流派を形成するほどの流行は初期にはなかったであろう。
弾琴法も初期には指で演奏していたと思われるし、弦の跡のついた琴が残っているなどのことから、七弦琴の影響は密接であったと言える。もし、右拇指で弦を弾いて演奏していたならば、初めは左手も芦管など附けずに、示指あるいは中指にて弦を琴体に押しつけて音高を定めていたことも充分あり得る。琴体に糸の跡が残ることはあり得て当然ではなかろうか。

その他の追加問題点
孔のない転軫を持つ琴→転軫の持つ役割は何だったのだろうか?
転軫の形、弦を留める方法、弦を張る経路などは問題とすべき項目。
七弦琴と一絃琴の構造の差、前者に存在し後者に無い物、あるいはその逆、例えば「枕木・横木」はどうして、誰が、いつ頃から使い始めて、どんな目的・利点があったのだろうか?
左手には芦管のようなものを嵌めていたという記述が「須磨琴之記」に書かれている。
駒のもんだいについて。弾法と駒の形・大きさは関係があるという説(芦管を使うことで、駒の形が変わらざるを得なかった:山本著「續・琴狂いの記」)。
覚峯琴の駒の形は、七弦琴の影響が抜け出ていなかったため、竜角に似せてあったかもしれない。金属製であったらしい。
細身で頑丈な作りで、覚峯が子供時代に「はしごや竹馬のかわりに使った」と言う話(中川蘭窓著「板琴知要」)→鳴り物博物館にあったものはかなり丈夫そうであった。
「~思うに一絃琴果たして元禄の頃支那より伝わりたらんには~」(一絃琴通史)
神田氏からの古文書の解読をすること:文章は漢文、絵は中国風。秋琴(大島)の名前が出てくる。

大阪音楽大学音楽博物館・学芸員の、大梶晴彦さんの話「奈良時代に大陸から、音楽といっしょにたくさんの楽器もやってきた。これらは現在でも正倉院ですとか全国の社寺、博物館に保存されてますし文献にもたくさん出てくるので確認する事ができる。現在、東京の国立博物館の中に、法隆寺宝物館というのがあるが、そこに国宝の一絃琴(いちげんきん)が納められていて、これは製作地と製作年が記されていて、明らかになっている。これは中国の唐時代の物でして、724年に製作されたというのがはっきり分かっている。」(*-2)

『紀州徳川家所蔵楽器目録』:紀州徳川家十代治寶(はるとみ:1770-1853)が蒐集した雅楽器。この中に中国から伝来した一絃琴があるという(*-1)。

3月25日の東京国立博物館資料室での調査結果およびインターネットでの国立歴史民族博物館の検索結果:
*-1:
●昭和57年6月に東京国立博物館で開催された<特別展「紀州徳川家伝来雅楽器」>の資料によると、紀州徳川家十代治寶が蒐集した雅楽器は、現在「国立歴史民族博物館」に収蔵されている。楽器は130点、全体で157点(楽器の台などが含まれる)、他に楽譜などが20件あるという。
楽器の内訳は以下の通り;笙:11(内袖笙2)、篳篥:15、笛:36(龍笛:24、狛笛:8、神楽笛:4)、洞簫:9、長簫:3、明てき(笛):1、琵琶:23、箏:5、和琴:3、七絃琴:4、鼓瑟:1、板琴:2、太鼓:5、鞨鼓:3、鉦鼓:1、一鼓:1、笏拍子:6、調子笛:14点。楽譜21種類。
資料の図版(写真)から判断・確認できた所見:板琴は2面ある。焼杉で、2面とも琴体に反りはないかあるいはあっても少ない。2箇所のくびれがある。徽は12個確認できた(写真では一に相当するところには見えなかった)。枕(横木)は確認できなかった。糸巻きは比較的細かった。駒は見えなかった。少なくとも覚峯琴に見られるような大型の作りつけの竜角のようなものは見えない。頭の端には装飾のように見えるいくつかの点が見える(七絃琴を模しているように見える)。同じコレクション中にある七絃琴は1783年、桐屋丹後の制作した物とわかっている。一絃琴(板琴)については、制作年代・制作者は不明である。少なくとも中国から古い物が伝来したようには見えない。
●インターネットでの国立歴史民族博物館の検索結果:
資料名称:バンキン:板琴:コレクション名:雅楽器(紀州徳川家伝来)
縦109.00 cm 横12.30 cm:原品: 焼杉(銀星入):製作年代:AD:資料番号:H-46-129:H-46-128と同納
資料名称:板琴:コレクション名:雅楽器(紀州徳川家伝来)
縦109.10 cm 横12.40 cm:原品: 焼杉(銀星入):製作年代:(記入なし):資料番号:H-46-128:H-46-129と同納

*-2:http://homepage.mac.com/p400duo/nt/ntd/030225.html
に、法隆寺の宝物の一つに、中国から伝来した物があると書かれているが、これは、記録した人の書き間違い、勘違いで、七絃琴のことを誤って記載した可能性が高い。調べた範囲では、国宝のリストに一絃琴は見つけることが出来なかった。法隆寺の宝物のリストにも、国宝であるなしにかかわらず、一絃琴はない。法隆寺の宝物の一つとして、国宝の七絃琴がある。これは中国唐代のもので、開元12年(723年)(宮内庁の法隆寺の宝物のページによれば唐の開元23年(735)となっている)に制作された物であることが確認されている。制作年が1年違っているが、他に一絃琴がないので、この七絃琴を誤って記載したと考えられる。大阪音楽大学音楽博物館・学芸員の、大梶晴彦さんという方に確認してみる必要がある。確認したところ、七弦琴の誤りであった。HPを作成するときに、テープからの聞きおこしで、聞き間違えたと言うことでした。
足利義政と能阿弥の話があるが、これが何の根拠も無しに出来上がったとは思いにくい。当時日明貿易が盛んであり、中国からいろいろな物が輸入された。絵画も多かったはずである。一絃琴がその後、池大雅のような絵描きに演奏された可能性があるとすれば、足利義政の時代に、絵画・明銭などと一緒に輸入された可能性は無いだろうか?遣明貿易の輸入品の詳細を調べてみることも必要かもしれない。
「医療が患者を殺す」などと言っている医者(らしきバカ)がいますが、、、、



バカなことを言う医者が増えている。医者に頼るなとか、医者は信用出来ないとか、医学に携わる人の言葉とは思えない。そういう医者は早く医者であることを辞めて、医師免許を返納して、意見を言って欲しいものです。
こういう言葉を信じる人は医療を受けないで欲しい。医療に反発する人は医療保険を使わないように、病院に来ないように。救急車など絶対に利用しないで下さい。
自分のやっていることを信用しない人は、はやく消滅して欲しいです。

もし、そんな考えで医療に手を出しているとしたら、本当の意味で犯罪でしょう。法律に違反しなくても、倫理に違反していますね。
 
 
第12回「中山備前守信敬公墓前一絃琴献奏会」

平成14年に第一回の献奏会をさせて頂いて以来、毎年、信敬公(1764~1820)のご命日に当たる7月3日に、菩提寺の智観寺の墓前で開催させて頂いております。本年は第12回の開催になります。

平成25年7月3日(水)
午後2時より
中山智観寺の中山信敬公御墓所において、
献花、一絃琴の献奏(曲目は、例年通り一絃琴曲の中で最も由緒のある「須磨」) 
墓所は、本堂左横を通り抜けた左側にございます。
              (本年は御本堂での小コンサートはございません)

雨天の場合は、御本堂でいたします。

一絃琴のお話、信敬公につきましては、下記HPに掲載してありますのでご参照下さい。
http://www.geocities.jp/yuiichigenkin/hanashi.html


智観寺様の駐車場は、台数に限りがございますので、なるべくバスやタクシーなどをご利用下さい。


     幽意一絃琴鳴琴会
       高橋 通

お問い合わせ:〒357-0041 飯能市美杉台5-11-25
      電話 042-971-0503
E-mail: takahash@hanno.jp

常寂山蓮華院 智観寺 〒飯能市中山520
           TEL 042-972-3552