って 3

 

「それじゃわたし、帰りますから。この人といっしょに」

「ひとりで帰ります」と、男はいった。

「またぬれてしまうわよ。そこまでわたしの傘に入っていけば?」

ママは、フードのついた水色のコートを着た。

「これ、田原さんにあずけておきます。カギは、例のところに入れておいてくださいね」といって、ママは部屋の鍵を手渡した。

「ママ、さよならあ、ありがとう」と田原はいった。

「わたしがここを出たら、部屋のカギをちゃんと閉めてね」といった。そしてママがドアを開けて出ていった。田原はドアの鍵を閉めた。カチッというその音がきこえた。

雨が間歇的(かんけつてき)におそってきた。

得体のしれない妄想がおそってきたように田原は感じた。それから田原たちは、ひろいL字型のソフア席のほうに移動して、カラオケをかけた。曲はなんでもよかった。歌のない音楽がかかった。

「歌わないんですか?」と、由利子がカウンターのなかに立ってきいた。

彼女は、グラスでも洗っているようだった。ママは背が低かったから、由利子がカウンターのなかに立つと、いっそう大きく見えた。

「こっちへきて、歌ったら」

「わたしはいいわ。田原さん歌えば」

「小林幸子の《幸せ》っていう曲、しってる?」

「ええ、しってるわよ」

「歌ってよ。……こっちにきて歌ってよ」

由利子はやってきた。

L字型のコーナーの向かい側に腰かけた。

「由利子、《幸せ》っていうことばは、少し前まで広辞苑にもなかたんだよ。しってた?」

「え? そうなの」

「《しあわせ》というのは幸福ばかりを表す語ではなく、「しあわせ」は「めぐりあわせ」や「なりゆき」を意味することばで、その内の「よいめぐりあわせ」が「幸」であるわけだからね。「しあわせ」の全体は「仕合せ」とは書けても「幸せ」と限定することができなかったんだよ」

「それで、広辞苑にもなかったわけ? ふーん、ふしぎね。……でも、ここのママさんもふしぎよね。お客さんに鍵あずけて、さっさと帰ってしまうなんて。なんか変じゃない?」

「ああ、ママはちょっと変だよ。でも、ママだけじゃないよ。ママがこの店を譲りうけるまえ、すでにぼくはこの店になついたキャットだったんだ。まえの店は《ローラン(楼蘭)》ていう名前の店だったんだけど、客が入らなくてね、いつも閑古鳥が鳴いていた」

「へえ、そうだったんですか」

「ぼくがだれかと遅くまでいると、ママは鍵をおいてさっさと帰ってしまうんだよ。ママの家は、横浜だっていってた。ときには、ママといっしょに朝までいたこともあるよ」

「へえ、でも、いつもは若い女の人といっしょだったんでしょう?」

「たいがいは、NBAテレビの関係者だったね」

「若い契約社員の女性スタッフでしょ? その人たちとは?」

「ええ、たまには、食事や映画なんか見たけど、……」

「そうなんですか。――田原さんは、若い人とだけおつき合いしているみたいですね」

「同年輩の男とはめったに飲みませんね。楽しくないし」

「田原さんて、変わってるんですね」

「そうかもしれないね。まえのママともつき合ってた。45歳くらいの人だったけど。ぼくがつき合っている人のなかでは、いちばん年長だったな。――でも、圧倒的に若い人が多い。いろいろ楽しい話がきけるからね」

「お酒と女性と、どっちが好き? ……はははっ、わたしったらヤボな質問しちゃったわ。女の人のほうが好きだって顔にちゃんと書いてある」

「そうだよ。由利子も好きだよ。ぼくの周囲には、由利子みたいな女性はひとりもいないからねぇ」

「田原さんて、ごじぶんのお仕事の話は、少しもなさらないんですね」

「そうだよ、由利子とは仕事の話なんかしないよ、もったいなくて、……」

「NBAの編成局の田原さんのお仕事、もっと聞きたいわ。以前うかがった淀川長治さんとのお話、すてきだったわ」といった。

「ああ、淀川長治さんは別格ですよ」と、田原はいった。

平成10年11月11日(水曜日)のことだった。淀川長治さんの訃報は、まさに、札幌へと向かう機内で聞いたことを想い出した。淀川長治さんは、この日、亡くなられた。享年91だった。

機内では、ちょうどマーラーの「交響曲第5番」第4楽章、そのアダ―ジェットにさしかかったころだっただろうか。神韻ひょうびょうたる曲が、淀川長治さんへの鎮魂を奏でる曲のように聞こえたものだ。

「――日曜洋画劇場のお話?」

「やっぱりそうだね。日曜洋画劇場」がはじまったのは、昭和42年4月でしたね」

そして平成10年10月まで淀川長治さんが解説者としてテレビに毎週登場していた。なんと36年間もNBAテレビ系列のブラウン管に出ていたことになる。

おりしも、「ニュースステーション」に出ていたニュースキャスターの久米宏さんが務め上げた18年間のちょうど2倍にあたる。おどろくべき長寿番組だった。

すべて洋画にしぼり、しかもゴールデンタイム2時間枠のレギュラー番組として定着。NBAテレビのカンバン番組になっていた。

「チャンピオン」「子鹿物語」「裸足の伯爵夫人」「帰郷」など、話題の洋画をどんどん放映し、《淀川長治》の番組として亡くなるまで話題をさらっていた。晩年になればなるほど、この番組の視聴率がアップし、視聴者の多くは、淀川長治さんのお元気な姿を見たかったからだろうか、彼の「さよなら、さよなら、さよなら」は、お経のように聞こえた。

亡くなられるころには、すっかり総白髪になり、目もはっきり見えなくなって、苦労されていた。NBAテレビの編成局には淀川長治さん担当の女性がいて、館内を車椅子に乗って彼女に押されていた。

由利子は、「べつのもの、何かおつくりしましょうか?」ときいた。

「由利子もジンを飲んでみれば?」といってから、田原はつけたした。「それをいっしょに飲もうよ」

「えっ? ひとつのジントニックを、ふたりで飲むの?」

「そう、やってみようよ。だれも見てないし」

彼女はカウンターのなかに入って、ジントニックをつくった。ストローを2本差しこんで持ってきた。

「飲もう、いっしょにだよ」といって、田原は由利子のほうにグラスを持ちあげて、ストローの口を差しだした。「さあ、飲もう」といって、いっしょに顔をくっつけて飲んだ。

「美味しいわね。こんなのはじめて!」

由利子はおもしろがっていった。

 

          

 

カラオケの音がおわったので、べつのものをかけた。

「由利子の彼は、いくつ?」

「33歳。おなじ東京の人なんです」

「ほう、好きなんだ、由利子も」

「わかりません」

「わからない?」

「わかりません」

そんなものかなと、田原は思った。またふたりで顔をくっつけて飲んだ。

「由利子、口移しで飲んでみる?」

「いやです」

「ものは試しだ」

「いやです!」

田原は口に含んで、由利子にほうに口をもっていった。「こぼれる! こぼさないで」といって、由利子はソフアのうえに仰向けになった。田原は「むむむ」といって、由利子の口にじぶんの口を押しつけると、唇をすこし開いた。

液体がすこしこぼれた。

「むむむっ!」口をすこし開け、それから口を閉じたままでいった。由利子の口が開いた。そこに流しこんだ。彼女は喉の奥にためてから一気に飲みこんだ。田原はそのまま口を離さなかった。

由利子の喉がすこし鳴った。

自尊心と嫉妬と性欲がカクテルのように混ざり合った。由利子の豊かなからだはどこもやわらかだった。やわらかいもののなかに、いまにも榾火(ほたび)のようにぱっと燃えあがりそうなものが隠れているにちがいなかった。田原たちは、朝までの時間をふたりだけですごした。

若さ、自由、誇り、官能、――いまはもう自分が持っていないものにたいして田原は嫉妬した。

「――この文章なんだけど、どう思う?」と、田原はきいた。ノートパソコンの画面に、《ミラノからの手紙》の一部を映し出した。由利子は5、6ページほど読んでから、いいんじゃないですかといった。

そして、いろいろ注文も出した。

「女は、必至になると、かんたんに泣いたりなんかしないわ。何でもいいから、やりはじめるのよ。わたしなら、そうする。じっくり考えるのは、そのあとで。……」

「そうか!」

こうして田原と夜をいっしょにすごしている由利子が、自分のことを自分で説明しているようにも思えて、おかしかった。

「それに、こんなに飽きっぽいんじゃ、やりはじめるのもたいへんだわ」ともいった。

「ミラノにはいったけれど、ショーウィンドーをすこしのぞいただけ」

「また、いきたくならない?」

「チャンスがあったら、……」

「もし、ぼくがチャンスをつくったら?」

「ええ、ごいっしょに、いきましょう?」といった。

「ミラノにオペラを聴きにいくんだったら、12月にいくといいね。ミラノ・スカラ座のオープニングは12月のはじめと決まっている」

ふたりともミラノの話をしてから、北海道の景色を思い出し、ふたりとも北海道の話をした。彼女は函館にもういちどいってみたいといっていた。由利子は、そこの北海道大学水産学部を出ている。彼の人生では、いいことはいつも偶然にやってきた。

3時ごろになってすこし寝た。由利子は、気持ちよさそうにまだ眠っていた。彼女の寝姿を見ていると、田原は幸せを感じた。彼は小1時間ほどして目がさめた。冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだして飲んだ。気分がすっきりした。

由利子はまだソフアのうえで眠っていたけれど、起こさなかった。田原は、彼女が午前10時に羽田を発つといっていたのを思い出していた。