石川啄木と「しき具」の世界

石川啄木

 

 

啄木について書く機会があれば、いつでも書けそうな気がする。石川啄木ってやつは、たしかに天才だ、とおもう。

15歳にして歌を詠んでいる。19歳で結婚し、27歳で亡くなっているのだから、わずか10年間であれだけの作品を世に問うているのだ。

――石川啄木の生きた時代、明治期は、疾風怒濤の時代といっていいだろう。そういうじぶんは、15歳で啄木に触れ、いま80を過ぎた。啄木より50年も長く生きている。依然としてぼくの胸中に啄木がいる。

東京都の人口が300万人の時代に、わが国の近代文学が誕生した。文学は人口とは無関係だとおもっていた。当時の小樽の人口はわずか数万人だろう。そんななか、石川啄木、野口雨情というふたりの詩人があらわれた。

それより前に、札幌農学校で新渡戸稲造、内村鑑三、徳富蘇峰、有島武郎らを生んでいる。わが国の近代文学史の第一ページに、彼らがいたのだ。

彼らのこころざしの高さを知り、胸を打たれる。

啄木の歌には、北海道を歌ったものが多い。彼の漂泊の人生は北海道からはじまった。じぶんは、北海道に生まれ、こうした歌を読んで、はじめて詩のおもしろさ、詩の悲しさを知った。

 

 真夜中の

 倶知安駅に下りゆきし

 女の鬢(びん)の古き疵(きず)あと。

 

 アカシヤの街樾(なみき)のポプラに

 秋の風

 吹くがかなしと日記に残れり。

 

 石狩の美国といへる停車場の

 柵に乾してありし

 赤き布片(きれ)かな。

 (石川啄木歌集」より

 

 

 石川一(はじめ)が盛岡中学校の5年生のとき、代数で落第点をとった。それに憤慨して彼は上京した。明治35年11月1日、数え年17歳だった。

上京してから彼は、当時東京市外の渋谷村にあった新詩社をたずねた。与謝野寛(鉄幹)と晶子に会い、東京であらためて中学校へ入学したいと漏らした。大橋図書館でイプセンの「ジョン・ガブリュエル・ボルクマン」の英訳本を読み、そこに載っている「死せる人」という詩を翻訳して、学資を得ようと考えた。

しかし、翻訳の実力のないことがわかり、完成することなく断念した。

いよいよ金がなくなり、下宿を追い出され、友人の下宿にもぐりこんだ。

そこで病気になり、それまで音信不通だった父あてに、助けを求める手紙を書いた。上京して4ヶ月たった明治36年2月のことだった。

父石川一禎は、盛岡に近い岩手郡渋民村で曹洞宗の寶徳寺の住職をしていた。なにぶん寒村のことで収入も少なく、寺は朽ち果て、台所は火の車だった。しかしたったひとりの息子が病気になったというので、寺の地所にある杉の木を売って金策し、息子を迎えるために上京した。

来てみると、一(はじめ)の神経が極度に衰弱し、胃も悪くし、心臓もよくないことがわかった。石川一禎は5円札を出すと、女中が銀貨銅貨をまぜたつり銭を持ってきた。父はそれを受け取ろうとすると、とつぜん一は横あいから、

「うん、これはおまえにやる!」といって、女中のほうへ押しやった。

当時、食事つきの下宿代は1ヶ月8円から9円くらいだったから、女中への心づけとしては、途方もない金額である。女中はよろこんで礼をいったので、石川一禎は当惑した。

一はそうして故郷へ帰った。

 

ニーチェ

 

そのころ、雑誌「太陽」に、高山樗牛の「姉崎嘲風に与ふる書」が載った。

それは明治34年5月に出た雑誌で、嘲風のニーチェにかんする文章を読んで、一は刺激を受けた。

そしてニーチェの友人で、のちに論敵となる音楽家のリヒャルト・ワーグナーの思想にのめりこんだ。「絶対の愛」というものに自己と他者の融合の道を発見できるのだという考え方に共鳴した。

このとき一は、盛岡中学校時代に、ひとつ上の先輩だった野村長一に手紙を書いた。一は、東京滞在中、暮らしに困ってたびたび野村を訪ねて、金を借りていた。

そのときの手紙が残っている。

「広範な同情、根本の愛によって《自己》に何物たるかを発揮するにおいて、世の賞賛誹謗はなにほどの注意に値するであろう。最も自己の本性に忠実なる人は、やがて他の人に忠実なる人ではないか。利己主義と個人主義とは雲泥の差である。真に自己を愛するものは、また他の者を一汎に愛すべき者である。云々」と書かれている。野村長一――のちの作家、作曲家となる野村胡堂は数え年22歳だった。

彼が郷里で療養生活をしているとき、蒲原有明の第2詩集「獨弦哀歌」が出版された。蒲原有明はこのとき数え年で28歳になっていた。

ダンテ、ガブリエル・ロゼッティの詩の影響を受けたソネット形式で、石川一はこの詩集の魅力に取り憑かれていた。彼はそれまで「白蘋(はくひん)」という号で歌をつくって「明星」へ送っていた。

この年の7月から正式に新詩社の同人に加えられていたが、このときから一は、短歌ではなくて詩を書くようになっていた。14行詩のソネット形式で書いた。

このとき彼は、数え年18歳だったが、異常なほど技巧をこらした出来になっている。そのうち、「啄木鳥(きつつき)」と題された詩は高く評価された。

 

 いにしへ聖者の雅典(あぜん)の森に撞きし、

 光ぞ絶えせぬみ空の《愛》の火もて

 鋳(いに)たる巨鐘、無窮のその聲をぞ

 染めなす《緑》よ、げにこそ霊の住家(すみか)。

 聞け、今、巷に喘(あへげ)る塵の疾風(はやち

 よせ来て、若やぐ生命の森の精の

 聖きを攻むやと、終日、啄木鳥

 巡りて警告夏樹の髄(ずい)にきざむ。

 

 往きしは三千年、永劫猶(すす)みて

 つきざる《時》の前、無象(むしやう)の白羽の跡

 追ひ行く不滅の教よ。――プラトオ、汝(なれ)か

 浄きを高きを天地(あめち)の栄(はえ)と云ひし

 霊をぞ守りて、この森不断の糧、

 奇()しかるつとめを小さき鳥のすなる。

 

 与謝野寛(鉄幹)は、この詩を読んで、石川一に、蒲原有明のものより君の詩形のほうが有望だと思うといった。君は、歌より、詩のほうがいいようだといい、つづけるようにとアドバイスをしている。

「……しかし、白蘋(はくひん)という号はさびしいから、別の号にしたらいいだろう」ともいった。これ以降、石川一は、「啄木」と号するようになった。

新詩社では、ちょうど7人の連袂退社事件があり、社の中はもぬけの殻だった。

去ったのは北原白秋、太田正雄(木下杢太郎)、吉井勇らで、残っていたのは平野万里、茅野蕭々だった。

だから啄木が北海道から戻ってきたとき、失意に打ちのめされていた与謝野夫妻はとても喜んだ。

だが、そのときは啄木はもう与謝野夫妻から離れていた。そして啄木の日記にはこう書かれた。

「与謝野氏は既に老いたのか? 予は唯悲しかった」と。

明治41年4月28日のことである。ライバルとして啄木が意識したのは、吉井勇、平野万里、北原白秋、太田正雄(木下杢太郎)の4人だった。

明治36年の暮れ、同人の山川登美子から彼のところに一冊の薄っぺらい英詩集が送られてきた。野口米次郎がロンドンで発行した「From the Eastern Sea」と題された詩集だった。

そのときまで、ぼくはこの野口米次郎という詩人がどういう人か知らなかった。野口米次郎なる詩人の英詩を読んだのは、ずいぶんたってからだった。

彼の詩は欧米人のあいだでも人気があったという。

彼は数え年29歳になっていて、啄木は、さっそく詩の批評文を書いて「岩手日報」に送った。

翌年の元旦号に掲載された。それには、「東洋的香気を欧米の空気に放散するの偉観」と書き、「優秀なるわが民族の世界における精神的勝利の第一階梯」であると評した。

啄木にとっては、英語を鑑賞できるほど語学を身につけていたとはおもえないが、蒲原有明の詩といい、何か新鮮で、目新しさがあって、ソネットという14行詩の魅力を感じ取るほどの詩才の持ち主であったことは疑えない。

啄木は、野口米次郎に手紙を書き、じぶんも渡米したいと書いた。啄木は詩に自信を持ちはじめた。このとき、東京帝国大学で教鞭をとっていた姉崎嘲風が盛岡にやってきたことを知り、会いに出かけた。

すると、姉崎嘲風はあたたかく彼を迎え入れ、ワーグナーの傑作は、スイスの大自然に耳を傾けた結果、あのような傑作が生まれたのだといった。

そこを出ると、啄木は、盛岡の堀合節子に会った。啄木の意中の女性だった。

啄木は14歳の中学生時代から彼女に愛情を感じるようになっていた。彼女の父親は官吏をしていて、この恋愛に反対していたが、盛岡に出ると、きまって節子を呼び出し、その日、はじめて彼の胸のうちを打ち明けた。

啄木の姉さだの夫である田村叶は盛岡に住んでおり、彼のはからいで、ようやく節子との婚約がととのった。

節子は明治35年の春、ミッションスクール系の私立盛岡女学校を卒業していた。仙台の第二高等学校には先輩の金田一京助が通っていた。彼は数え年21歳だった。啄木が盛岡中学へ入学したとき、金田一京助は3年生だった。

啄木は金田一から「明星」を借りて読んでいた。

明治37年、島崎藤村が「破戒」を出版したとき、金田一京助は第二高等学校を卒業し、東京帝国大学の文科大学言語学科へすすむことになっていた。金田一は、ちょうど盛岡の実家に帰っていた。そのとき、啄木がぶらりと遊びにやってきたのである。

「なかなかいい詩が載っているよ」といって、金田一は、啄木に「明星」を見せた。

「これは、ぼくですよ」といった。

その号には「啄木」と号した詩が載っていた。

それを彼とは知らずに褒めたのだ。

金田一は「あっ」とおもったが、すぐにそれを理解した。ロゼッティの訳詩も載っていた。上田敏の訳だった。その日は、遅くまで話し込んだ。じぶんもやがて上京すると啄木はいった。

ある日、金田一京助の家に、女性がふたりやってきた。

「金田一さま、わたしたちに、英語を教えていただけないでしょうか?」という。金田一はとまどったが、9月の上京するときまで教えることにした。

英語の話以外はなにも話さなかったので、彼女たちの名前も知らなかった。10月、彼は上京し、本郷の湯島新花町の下宿に落ち着いた。その10月の末ごろ、また啄木があらわれた。

さっそく彼を追うようにして上京してきたのだった。

「このあいだ、金田一さんのところへ、英語を習いにやってきた女性がいたでしょう。あれは、実は、わたしの、……」といったので、それが、啄木の妻となる人だったことがわかった。

「ほう。ふたりのうち、どっちなの?」ときいた。

「丸顔のほう」といった。

このとき啄木はまだ19歳だったが、そんな少年とはおもわれないりっぱな服装をしている。黒の5つ紋の羽織に、仙台平の袴を穿き、南部桐の真新しいステッキなんか持って、上等のキセルをくゆらせているじゃないか。

東京の詩壇には、かっこうのいでたちで、天才啄木という前評判どおりの身なりをしている。啄木は雑誌「明星」を通して、その天才ぶりを見せつけていた。与謝野寛のまわりには、文学仲間たちがいろいろやってきた。森田草平などもいた。

だが、啄木は寡黙にしていた。

岩手なまりが気になっていたようだった。寛は、与謝野鉄幹と号し、彼は数え年32歳、晶子は27歳だった。子供が3人いた。子供が泣くと、うるさかった。

晶子は赤ん坊におっぱいを飲ませる。

それをちらっとのぞき見る啄木だったが、自分もやがて子供をつくることになるだろうと密かに考えていた。しかし、啄木は、世間の子供にはほとんど興味を示さなかった。彼の歌には子供の姿は出てこない。

「明星」は100号をもって廃刊して、「スバル」を出そうというプランが立てられたとき、万里、勇、啄木の3人はまたあつまった。明治43年3月3日、啄木は宮崎郁雨あてに書かれた書簡が残っている。平野は、スバルをじぶんの雑誌にしようとしている、と書いてある。

「この人(平野万里)には文学はわからぬ。人生もわからぬ」と書いた(日記、明治42年1月3日)。

平野万里は、大正10年(1921年)第2次「明星」創刊に加わってから、与謝野夫妻が没するまで与謝野鉄幹、与謝野晶子夫妻と相伴うようにして協力し、同行して作品を発表している。大正12年、「鴎外全集」の編集も務めている。大正5年に、「漱石全集」の中心的な編集を務めた森田草平と双璧をなす。

話はもどるが、啄木は天才として通っていたけれど、収入はそれに見合うものでは決してなかった。彼はほどなくして牛込区の井田というところにある下宿に引っ越した。雑誌「太陽」に原稿を送り、原稿料20円が手に入った。

しかし、そのほとんどを親に仕送りし、一ヵ月後、金田一京助は啄木の部屋に行った。

すると、彼は寝ていた。ひどい生活をしていた。着るものは何もなかった。ただの一張羅だけがあった。それを来て寝込んでいた。

金がなくて、クスリも買えないという。

「早稲田大学の設立者の大隈重信に会いたい。会ってもいいといってきているが、金がなくて、……」といっている。会いに出かける電車賃もないというのである。金田一は持参していた3円を渡して帰ってきた。そのころ、郷里の渋民村では大問題が起こっていた。

父石川一禎は、本山へ納める納金を怠ったかどで、明治37年12月26日付で住職の地位を追われていた。

わがままいっぱいの啄木のために生活費を工面する過程で、寺の納金に手をつけたため、一家離散となる。さらに啄木から金田一京助に、15円を貸してくれと手紙でいってきた。彼は郷里の母親に相談し、父親から啄木に15円を送金。

しかし、石川啄木はいくら借金しても、概して人から嫌われたり、恨まれることはなかった。お金を借りる名人とまでいわれたが、古い友人らは、金のことで、だんだんと疎遠になり、ある者は、啄木を嫌った。

啄木は啄木で、金を借りた友人から絶交宣言を受けたため、じぶんこそ、絶交する! という手紙を送り付けたりした。

昭和29年に完結した岩波書店版の「石川啄木全集」は、全16巻である。そのうちの2巻は手紙類で、全部で430通を超えている。

啄木はよく手紙を書いたが、日記もよく書いた。それらは、発表されることを前提に書かなかったものだが、啄木はみずからの手で日記を焼却することができず、妻節子にその処置を託した。妻もまた、焼き捨てることなく、大事に管理してきたため、膨大な日記と手紙が残されたのだった。

膨大な啄木の日記と、「ローマ字日記」は、啄木研究の中心をなすもので、後年、コロンビア大学のドナルド・キーン氏による「石川啄木」(角地幸男訳、新潮社、2016年)、その他に結実して話題となった。

――こうして、啄木の産みの苦しみともいえる実生活をのぞくと、文学という燃えるような高潔なこころざしの高さと、その悲惨な実生活は、啄木をただの天才にしてはおかなかった。これ以上ないほどの辛酸と塗炭の苦しみを与えたのである。

そういうなかで、詩作に没頭していった啄木の心情をおもうことで、啄木のほんとうの詩がわかるような気がする。そして、ふと、ある話が脳裏に浮かんできた。

森鴎外が啄木の「あこがれ」について、

「有明は泣菫に勝り、啄木は有明に勝る」といったというのは、もしかしたら、ほんとうだったかもしれないと。

このことばは、啄木研究家の吉田孤羊に伝わった話として文学史的によく聴く。1首を3行書きにして歌集名を「一握の砂」にしたのは、明治43年10月4日から9日のあいだ、ということになっている。

そこには、まだまだ明星調の歌の雰囲気が残っている。

たとえば――

 

 「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」とか、

 「頬につたふ涙のごはず一握の砂を示しし人を忘れず」とか。

 

それが「悲しき玩具」になると、――

 

  名は何と言ひけむ。

 姓は鈴木なりき。

 今はどうして何処にゐるらむ。

 (石川啄木「悲しき玩具」

 

 呼吸すれば

 胸の中にて鳴る音あり。

 凩(こがらし)よりもさびしきその音!

 (石川啄木「悲しき玩具」

 

とうたわれる。

そのころ、啄木は東京朝日新聞社に雇われていた。「歌のいろいろ」と題する随想のなかで、ある投稿者の歌の批評文が載った。

 

 焼あとの煉瓦の上に

 Syobenをすればしみじみ

 秋の気がする

 

という歌で、啄木がつくった「朝日歌壇」の入選作である。

それにはこう書かれている。

「好い歌だと私は思つた」と書かれ、「この歌をののしっている人は、屹度(きつと)歌といふものについてある狭い既成概念を有している人に違ひない。自ら新しい歌の鑑賞家を以て任じてゐ乍ら、何時とはなく歌はこういふもの、かくあるべきものといふ保守的な概念を形成してそれに捉はれてゐる人に違ひない」といっている。

これらの歌は、その瞬間に歌に定着させたものだと啄木はいいたかったのかもしれない。隠微な心の真実を、31文字にまとめられた啄木はさらに書く。

「一生に二度とは帰って来ないいのちの一秋だ。おれはその一秋がいとしい。ただ逃してやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌を作る」といい、それが啄木の最後に到達した彼の詩観であったのかもしれない。

■20世紀の英文学シリーズ。――

リシーズ」をむ 2

 

数年前の、ある秋のさわやかな日差しののびた午後のことでした。

埼玉県・越谷市の「俊青会」の絵画展示会場の受付で、漫然とかまえていたら、客がふたり連れだってやってきました。そばの絵を見て何か話しているのが聞こえます。

「みどりの川」ということばが「緑川……」という人の名前に聞こえたのです。

「緑川さんというのは?」と、おもわずぼくはたずねました。すると、相手は妙な顔をしてこっちを見つめます。60歳くらいか、そのあたりの年恰好に見えます。そばにいるのは奥さんでしょうか。

絵を見ると、手前に川が流れていて、その川面(かわも)に、木々の風景が写り込んでいます。その描写がなんともいい感じを出している絵でした。F6号サイズの水彩画です。遠藤和夫氏の水彩画「御苑6月」。

その話をしていたようでした。ぼくは、とんちんかんな話をしてしまったようです。

「……ああ、この川のことですか。緑の川が、きれいだねと、いっていたんですよ」と、折り目ただしく説明してくれました。ちょっと訛りがあるようでした。この人が、きょうの客人の第一号です。

そして、ぼくは業務の席にもどりました。相棒のふたりの女性は、奥のコーナーにいます。客人があらわれたので、もどってくるなり、女性当番の彼女が、立ち止まって客人にあいさつをしています。彼女の知り合いだったようです。

 ジェームズ・ジョイス

 

――ぼくはあることをおもい出しました。ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」に出てくる話です。

登場人物のバンタム・ライアンズのつぶやいたことば。ブルームの「もう要らないんだ」ということばが、「モイラナイン」という馬の名前に聞こえたという話が出てくる場面を。

アスコット競馬(Ascot Racecourse)の金杯で、ダークホース、モイラナインは20倍の大穴をあけます。

日本でいえば、20倍なんてざらにあるでしょうけれど、1904年のダブリンでは、万馬券に相当するでしょう。ダブリンの街にも、イギリスと同じ名前のアスコット競馬場があったなんて、ぼくは知りませんけれど。

ついでに、1904年といえば、思い出しますねぇ。もちろん日露戦争の海戦シーンです。そのシーンを繰り広げたのは翌年の1905年でした。――それはさておき、「ユリシーズ」の原文では、「なげ捨てる」という意味で「throw away」といういいまわし方をしていますが、これはひょっとすると、もともとはアイルランド英語なのかもしれません。Ascotという地名は、いろいろなことばを生みました。アスコット・スカーフascot scarf、アスコット・タイascoy tie、アスコット・ブラウスascot blouseなどなど。

ちなみに、少ししらべてみると、アスコットタイブラウス 8分袖、7分袖、ハンドウォッシュ ヴィンテージサテン、無地 、グレージュ ザ・スーツカンパニー スーツスクエアが、6,952円・送料無料、――と出ています。

北海道弁のこの「なげる」は、捨てるという意味ですから、そういう意味では、アイルランド英語のthrow awayと共通していますね。もしかしたら、アイルランド英語のプライオリティシート(優先席)をすでに確保している言語かもしれません。

バンタム・ライアンズは、その「throw away」と聞いて、「Throwaway」という競走馬の名前とおもったのです。よくある聞き違いです。ジョイスの文章には、こうしたおもしろい話がふんだんに出てきます。

「大事なんだ」というのが、「だああいじなんだ」と、あくびのせいで、ことばが伸びている話もあります。原文では、「dearer thaaan」となっています。つまり「than」というべき語が伸びてしまっているのです。オナラなら、Pieeeeeeee……でしょうか。失礼。

――ジョイスの文章は、そんなにふざけているのか、というと、むろんそうではありません。ジョイスは、だれもが認める20世紀最大の小説家のひとりです。亡くなられた柳瀬尚紀氏にいわせると、ジョイスの「ジョイ」が、――喜悦に満ちていると書かれています。「喜悦措()く能(あた

)はず」。うれしさを抑えることができない! 

この小説のおもしろさの鍵は、まあ、そんなところにあるとおもっています。

――さて、もう15年ほどまえになるでしょうか、「ユリシーズ」の翻訳本を読んでいたら、ぼくは「はあ?」と疑問におもわれる妙な訳文に出会いました。訳文では、「あらゆる抱擁は、……」と書かれていました。

翻訳家の名前は伏せますが、ところどころ、おかしな日本語訳になっていました。原文をみてみると、ちょっと変だと気づいたことがあります。これはたぶん、英文解釈というレベルの話ではなく、ジョイス文学の懐に触れる訳文が要求される部分だけに、ちょっと妙な気分がしたのです。

おそれ多くも、自分ならこう訳すぞ! と、不遜にも試訳をこころみたことがあります。

その一部はすでに書いているので、きょうは、べつのものをちょっと書いてみます。

日本人同士だって、こうしたすれ違いみたいな、とんちんかんな会話になるのですから、まして、英文で書かれた文章を、外国人である日本人が訳すとすれば、呻吟するのはあたりまえの話だ、とおもえます。

母国語でない者が、翻訳するというのは、かなりしんどい作業をすることになります。ことに、ジョイスの文章は一筋縄ではいきません。時事英文記事をすらすら読める人でも、ジョイスの文章は、すらすらとは読めません。なぜなら、彼の文章には、辞典にも載っていないような語彙がふんだんに登場し、――つまり、造語のことですが、――これまた、格別におもしろいのです。そこで、ぼくはどうおもしろいとおもったのか、せっかくの機会なので、きょうは、その話を少し書いてみたいとおもいます。

Perfume of embraces all him assailed. With hungered flesh obscurely, he mutely craved to adore.

あらゆる抱擁の香りが彼を責めたてた。漠然と飢えている肉体をいだいて、彼は無言のうちに熱烈な愛を求めていた。

 

――冒頭に書いた「あらゆる抱擁……」の話です。

ここにあげた文章は、ある男が「ブラウン・トマス絹織物店」のウインドーにある絹のペティコートを見て、色欲的な刺激を受けるシーンです。これはいく通りもの語順を並べ変えることが可能で、ジョイスは文体を磨きあげ、ことばの効果を精密に計算しているとおもわれます。翻訳にしても、いろいろと訳せます。ぼくは、こう訳してみました。

 

抱擁の香りがいっぱいに溢れて、それが彼を襲った。密かに飢えている肉体を包んで、じっと沈黙したまま、燃え盛る愛を求めていた。

 

これが原文に、より近い訳かとおもわれます。

意訳するのはいいのですが、「all」はここでは「いっぱいに溢れて」という意味で「him彼を」にかかることばであって、「embraces抱擁」にかかる語ではないのです。「あらゆる抱擁」って、いったい何だろうとおもってしまいます。

ぼくは、これを副詞にとって、「いっぱいに溢れて」と訳してみました。なぜなら、つぎに「With」ときているからです。

これをぼくは「包んで」とおいてみました。肉体を包んで……と。その「香り」が肉体をも包んでいるかのように見えるからで、ここにジョイスの二語一意の妙味が隠されているような気がします。このセンテンスの重要な部分は「all」です。

 

     

 

 

「obscurely」という副詞は、「不明瞭な」「(色などが)くすんだ」「人目につかない」などの意味がありますが、ここでは、「肉体」にたいする「精神=心」、賤しい生まれの素性を持つ「無名の」という意味に近いことばだとおもわれます。

人は肉体にたいして、誘惑の刺激をちくちく感じさせるものは、素性の知れない自分の分身であり、決して気高くはなく、肉体同様に汚らわしいもの、卑猥なもの、それが沈黙しながらも、無骨にもときどき激しい愛の打ち鐘を鳴らすというわけです。

鐘こそ出てきませんが、そのように読めます。

あるいは、肉体は正直にものをいうけれども、内なる精神は、自分でも人知れず厄介で定かでない鐘を打ち鳴らすと。――そんな感じでしょうか。そう考えてみますと、翻訳家の訳文は、それ自体りっぱな日本語訳ではあるのですが、なにか、物足りない感じがします。

ある人に話したら、「英語はむずかしい」といいました。

「そうかな?」とぼくはおもいました。

日本語のほうがむずかしいのだ! とおもいました。

「先日わたしは、よく知っている竹田さんのお姉さんに駅で会った」という文章があるとしたら、「よく知っている」は、「竹田さん」なのか、「竹田さんのお姉さん」なのか、自信をもって答えられる人はいるでしょうか? 

これは日本語のむずかしさです。

――それから、少したちました。

で、さっきのつづきでいえば、第15話の話をしましょう。――自慰行為のやり過ぎで、――女性の方々にはすみません。不能に陥ったらしいブルームが、スティーブンを心配して淫売宿に向かいます。

ブルームは生後11日で死んだ息子のことをおもい出します。

勘当同然に父サイモンのもとを飛び出して彷徨(ほうこう)しているスティーブンを見ているうちに、しだいにスティーブンの息子にたいして愛情を感じるようになります。

ブルームの幻想のなかで、ブルームの死んだ父が現われて、倹約について説教するシーンがあり、これも父性愛の表現なのかと思いたくなるシーンがあります。――話はその幻想シーンで、死んだブルームの父が登場して、ブルームと会話する場面です。

 

(with precaution)I suppose so, father. Mosenthal. All that’s left of him.

用心深く)そうらしいですね、お父さん。モーゼンタール(ドイツの劇作家。「ナータン」の作者)です。レオポルドのなれの果てです。

 

――このシーン、ちょっとおかしいですね。

「All that’s left of him」の「him」は、訳文では、この直前の父親の呼びかけから、ブルームの名前「Leopold」を指すことになっています。

こういう解釈もできないこともありませんが、ぼくは「Mosenthal」と解釈したい。

こう解釈すると、はじめて父親にたいするブルームの答えのなかに入っていけます。そのほうが「Mosenthal」の意味がここでは生きてくるとおもうのです。

つまり、ブルームは、父親が自分に向かって語りかける内容が、かつて父親が生きていたころ、いつも自分に向かって話してくれたモーゼンタールの劇「リア」の1場面、――すなわち、老いた盲目のアブラハムが、息子ナータンの声を聞き分けて、顔を指でさぐりながらナータンに語りかけていたシーンと同じであることをおもい出している場面です。

したがって「All that’s left of him」は、具体的にはモーゼンタールの作中人物のナータンであり、ブルームは自分をナータンにたとえた会話になっているわけです。

その部分を伊藤整訳では、「多分そうでしょう、お父さん。モオゼンタールだ。あの人が残して行ったものはただそれだけだ」となっています。奇妙な訳ですね。

英語では、3人称を使って自分について言及する方法が用いられます。

シェイクスピア劇にはこうした表現があります。おもいついた例をあげますと、

 

 「Is that Mr Tanaka?(あちらに見えるのは、田中さんの?)」

 「Yes, a piece of him.(そう、家族です)」

 という具合に。

 

ところが「him」をレオポルドとすると、モーゼンタールの意味がどこかに吹っ飛んでしまいます。Salomon Hermann Mosenthal(1821‐1877年)はオーストリアの劇作家。反ユダヤ主義にたいする批判をテーマにしたDeborahがその代表作で、それを英訳したのが「見捨てられたリア(Leah the Forsaken)」です。訳文の注釈には、「ナータン」の作者だと解説されていますが、実際には「ナータン」は、この作品の登場人物です。

ダブリン市の劇場(Gaiety Theater)では、1904年6月16日(「ユリシーズ」に描かれた日)に、この「Leah」が上演されたようです。そのことをいっているらしいのです。

落ちぶれたナータンの姿をおもい出し、「ぼくは、ナータンの今日の姿です」とレオポルドはつぶやく……。そういうシーンでしょう。

「Leah tonight」「I was at Leah」は、このモーゼンタール作の「Leah the Forsaken」を指しているわけなのに、なぜか、翻訳者は、シェイクスピアの「King Lear」と勘違いしているみたいです。「ユリシーズ」にはたびたび「リア」が登場しますが、決してシェイクスピアの「リア王」ではありません。だいいち、綴りが違っています。      

――「ユリシーズ」の大事なところが、とんちんかんな訳文になっています。

ぼくが勝手に訳すとすれば、こうなりそうです。

 

慎重に考えながら)はい、レオポルドです、お父さん。モーゼンタールを思い出します。ぼくは、あの落ちぶれたナータンの今日の姿ですよ。

 

原文には「ナータン」ということばはないけれど、そうすることによって、やや説明的ではあるけれど、原文の意味と、ニュアンスが出せるような気がして。

しかし、いい原文だなとおもいます。会話っていうのは、文章のようにちゃんとしたものじゃなくて、こんな、とぎれとぎれの、なぞなぞみたいなものじゃないかとおもいます。会話の当事者なら、これでじゅうぶん。

 

Nothung!

よしてくれ!(ナッサング!) (ぶらさがるな! とも読める

 

という訳になっています。

――さて、この「Nothung!」は、もちろん英語辞典には載っていません。なぜなら、ドイツ語だからです。ドイツ語にしても、このような訳語は存在しません。なぜなら、固有名詞だからです。

翻訳家はどこから訳語を見つけてきたのでしょうか。じつにおもしろい。

ぼくは自称クラシック音楽ファンなので、ワーグナーの曲はたいがいは聴いています。なかでも「ニューベルングの指輪」は有名なオペラで、この「ノートウインク」ということばはオペラファンならずとも、だれもが知っていることばでしょう。――「ナッサング」ではないのです。

「よしてくれ!」とは、それこそ、よしてくれといいたくなります。

ここまでくれば好きな、ぼくのオペラの話を少し書きます。

――ぼくはむかし、クラシック音楽を好んで聴いてきました。

「ニューベルングの指輪」は俗にワーグナーの「指輪」として親しまれており、その第1夜のワレキュール宮殿において、大神ウォータンは、崩壊しつつある世界を救済するため、ひとりの英雄を創造します。

英雄は地上に降りて人間の女とのあいだにジークムントとジークリンデという双子の兄妹をもうけます。やがて兄妹は離ればなれになり、シークリンデはフンディングという荒くれ男に力づくで妻にされます。

時がながれて、フンディングの家に流浪のジークムントが訪れ、ジークリンデと恋に落ち、身の上話をするうちにふたりが兄妹であることを知ります。ジークムントは、大神ウォータンがトネリコの巨木に突き刺しておいた霊剣を引き抜き、

「Nothung! Nothung!  so nenn ich dich, Schwert.ノートウンク! ノートウンク! 剣よ、わたしはあなたをそう命名する」と叫び、この剣をもってフンディングと戦います。ウォータンの妻フリッカは、夫の不貞から生まれたジークムントを罰すべしと主張。ウォータンは、わが子ジークムントを勝たせたいと願うけれど、フリッカの要求に屈して、ジークムントの剣を砕き、ジークムントはフンディングに殺されてしまいます。

ジークムントの子、ジークフリートが霊剣「ノートウンク」の破片から元どおりの名剣を鍛えあげ、やがて、さすらい人の姿に窶(やつ)したウォータンと出会います。ジークフリートは剣を抜いてその槍を打ち砕きます。悔悛をもとめる母親の亡霊に向かって、Nothung!と叫ぶのです。

トネリコのステッキでシャンデリアを叩き壊したのは、父と離ればなれになったジークムントであり、その彼が同時に人間の世界を支配するウォータンの槍を打ち砕くジークフリートでもあります。オペラの最後では一人二役といいますか、二重人格者として登場します。この「Nothung!」は、「ノートウンクの霊剣」または「霊剣」という意味があるわけで、固有名詞「霊剣」なわけです。

訳文に、「ぶらさがるな! とも読める」と注釈しているところを見ると、これを英語読みにしてnot-hungと解釈したのかも知れません。たぶんそうでしょう。

ここは絞首刑の幻想場面に書かれているくだりですから、「ぶらさがるな!」とすれば、絞首台の上から吊り下ろされているロープに「ぶらさがる」という意味にもなって、ここでは偶然、別のおもしろさがあります。だが、ほんとうは、オペラからとってきた霊剣なのです。

――したがって、ジークムントの剣であり、その子、ジークフリートの剣でもあるという二重写しに入魂した剣なのです。

「ユリシーズ」クラスの言文ともなれば、原文そのものが、特異なものだけに、ほとんどは原作者ジョイスに帰してしまい、これを母国語でない人が読むとなると、かなりしんどい。しかし、英文学的にいっても、とてもおもしろい部分です。

つぎに、「They like them sizable. Prime sausage.」という文章を読んで、ぼくは吹きだしてしまった。訳文はこうなっています。

 

抱きやすい女がお好き。極上のソーセージ。

 

こりゃいったい、なんのこっちゃい。

うら若き女性たちの前では、不謹慎にもしょうもない話をしてしまいますが、――「抱きやすい」なんて、どこにも書いていません。

この訳はここだけ見て翻訳すれば、まあ正しいようにも見えてしまいますが、これじゃ、ジョイスも草場の陰から苦虫をかんで睨みつけているでしょう。

正しくは「女はからだの大きな男が好き」というほどの文章でしょう。ですから、丸谷才一氏も伊藤整氏も、「They」を男と勘違いして訳したとしかいいようがありません。

それも、ふたりの専門家が揃いも揃って、誤訳するなんて! 

この「サイズ」の派生語の「sizable」という形容詞は、もともと古英語では「相当に大きい」という意味を持っていて、近代英語でも「程度の大きい」という意味がそのまま受け継がれていることばです。ですからジョイスは、「sizable」と書いたわけでしょう。

それもさることながら、「They like them sizable.」の主語「They」は、むろん「彼女」たちではなく、女たち一般を指しているのであり、目的語の「them」は男であることをつい忘れてしまった訳文になっています。ですから、こんな奇妙な訳文になってしまったのでしょうね。

この文章は、女が非番の巡査に抱きしめられているシーンであり、「sizable」とは、「かなりの大きさの」という意味になりそうです。

かなりの大きさの男に抱かれている女は、「あっちのほうも大きいだろうと、勝手に思いついた単語がソーセージだった」と解すれば、まあ、「極上のソーセージ」で終わる文章ではありません。

それは何を意味しているのでしょうか? ――俗に巡査というのは、ダブリ市にかぎらず、小男にはなりたくてもなれない職業であったはずです。

だとすれば、つぎにつづく「Prime sausage.」の謎の意味が自然に解けてくるのでは? 

ソーセージが男のナニを連想することは自然なことで、これほどはっきりした男の沽券(こけん)にかかわるシンボルもあるまいとおもえます。

「ねえ、お巡りさん、お願い、あたしどうしたらいいか分からないわ」という女の媚態が「Prime sausage.」につづくわけですね。

ちなみに伊藤整訳では「彼らは抱きでのある女を好むんだ。極上のソーセージ」となっています。これでは「極上のソーセージ」の意味が伝わりません。ジョイスの書いた「ユリシーズ」がどんどん遠ざかっていくように思えます。

翻訳者はストーリーのおもしろさを出したかったのでしょうか。――もともと「ユリシーズ」にはストーリーなんていうものはなく、主人公のたった1日の出来事、その日思ったり感じたこと、想像したこと、回想・空想したことを綿々と綴った、しかし長大で、この上なく難解をきわめた作品なのです。

ジョイスのたくらみの多くは、そういう文章の中にかならず埋められています。

イギリスには、Stone dead hath no fellowという諺があります。「石は死して仲間なし」。――これを日本語になおせば、「死人に口なし」ということになるのでしょうけれど、しかし、こう訳すと意味は微妙にずれます。その意味がずれるところが、なんともはがゆい。切歯扼腕(せっしやくわん)、隔靴掻痒(かっかそうよう)の感を否めません。……ですから、できあいのことばを集めた辞典から、いくらくすねてきても、仕方がないのです。ただひとり、感じ入るしかないのです。

 

日本画の高橋俊景画伯(左)と田中幸光(右)、ときどき会って先生と「ユリシーズ」にまつわる話をしています。2019年夏ごろの写真。

■20世紀英文学シリーズ。――

リシーズ」をむ 1

ジェームズ・ジョイス

 

2024年4月28日(日曜日)晴

早朝から、大宮の顕正会本部にゆきました。すがすがしい空気のなか、ひとり落ち葉の裏道を歩き、何かしら、人間が活動する昼と妖怪が活動する夜が交わる《逢魔(おうま)が刻》と呼ばれたらしいむかしの話を想い出しながら歩きました。

むかしの昼と夜の境い目は、「明け六つ」「暮れ六つ」と呼んで鐘を鳴らしたのだそうです。暮れ方のたそがれどきは、向こうから來る人の顔がよく見えないため、「誰()そ彼(がれ)」に由来しているというのはもっともな話です。

歴史学者の笹本正治氏によれば、「神隠し」などの不可解な出来事が起こる時間帯だといいます。天狗や狐などの仕業ともいわれた神隠しはしかし、遠いむかしの怪異とはいい切れないようです。

今朝、大勢のみなさんと朝の遥拝勤行を終え、本部の館内は人で大混雑していても、ふしぎなことに、知る人とはまったく会いませんでした。

不思議な朝でした。

気がついたら、帰途の大宮公園駅に到着していたのです。

そのとき、スマートフォンを家に置き忘れてきたことに気づいたのです。「だれにも会えないのか!」とすっかり消沈落胆しながら電車に乗ったのです。けれども、じぶんの知らないところで、田中のり子副長は、じぶんのために草加駅前で、みんなで新聞配布の仕事を企画してくれていたのです。――なんたる失態!

 

田中幸光

最近また、ひさしぶりに「ユリシーズ」を読みはじめました。ところどころ原文も読みはじめました。で、おもいついたことを書きます。

1902年6月16日木曜日午前8時、「ユリシーズ」は幕を開けます。

舞台は「マーテロ塔」――ダブリン市の南東約10キロメートル、ダブリン湾に面した入江に建っています。

物語は「1804年6月16日」となっていますから、ちょうど主人公のマリガンが朝目を覚ました日付けの100年前の話からはじまります。当時の英国首相ウィリアム・ピットは、フランス軍の侵攻に備えるためアイルランドの海岸に円筒形の要塞をいくつか築造します。その要塞築造が英国政府によって決定が下されたのが1804年6月16日。

この「マーテロ塔」は、そのひとつ。

マーテロ塔の屋上で、ヒゲを剃っているマリガンとスティーブンが、何やら話し合っているシーンからはじまります。マリガンは朝食の準備のために下へ降りていくところ。スティーブンは屋上にひとり残り、ダブリン湾を見ながら死んだ母のことを思い出します。

臨終の苦痛にゆがんだ母の顔を思い出してスティーブンは恐れますが、食事ができたという階下のマリガンの声に、ふとわれにかえります。ふたりは下で朝食を食べていると、そこへミルク売りの老婆がミルクを届けにやってきます。そばにいたへインズは、アイルランド語を試したくて老婆に話しかけてみますが、通じません。

それから3人は出かけます。

歩きながらマリガンは「ハムレット」について話し出し、「ハムレットの孫がシェイクスピアの祖父であり、彼自身は、おやじの幽霊である」となどといいます。マリガンのいう「彼」は、ハムレットでもあり、スティーブンでもあって、ここで「父」のモチーフが導入されます。そしてへインズは「ハムレット」の神学的解釈として「それは父と子という考え方だ。子は父と一体になろうとするんだ」といいます。

父と子の関係はやがて「ユリシーズ」全編を通じた主題に膨れあがります。

マリガンはスティーブンに向かって

「おい、チンキ(スティーブンのあだ名)、おやじの亡霊! 父を探しまわるヤペテ」

と呼びかけます。

――マリガンは塔の横の岩場で朝はひと泳ぎするのが日課になっています。

スティーブンは水泳が苦手。風呂にも滅多に入らない。むしろ水を憎んでいる様子。

この傾向は、スティーブンが洗礼を拒絶していることを象徴するかのようです。マリガンはスティーブンから塔の鍵を取り上げようとします。スティーブンは彼に鍵を渡しながら、マリガンとの友情も冷めてきたなと感じ、ふたたび塔には戻るまいと決心します。

そしてスティーブンは勤務先の学校へ歩いていく。

さて、原文の冒頭の文章は、

 

Stately, plump Buck Mulligan came from the stairhead, bearing a bowl of lather on which a mirror and a razor lay crossed. A yellow drssinggown, ungirdled, was sustained gently behind him on the mild morning air.

 

となっています。

ここを丸谷才一氏の訳文では

「押しだしのいい、ふとっちょのバック・マリガンが、シャボンの泡のはいっている椀を持って、階段のいちばん上から現われた。椀の上には手鏡と剃刀が交叉して置かれ、十字架の形になっていた。紐のほどけた黄色いガウンは、おだやかな朝の風に吹かれてふうわりと、うしろのほうへ持ちあがっていた」

となっています。丸谷氏の訳文は日本語になっていて、それは見事な文章といえます。現在出ている翻訳文としては最高のできといえるのではないでしょうか。

それでもぼくは、満足しません。

おもしろさが訳出されていないからです。

冒頭の「Stately, plump」というフレーズ。まず、「Stately, 」としてコンマが打たれています。「Stately and plump」と、なぜやらなかったのでしょうか。訳文では「押しだしのいい、ふとっちょの……」と訳されています。「Stately,」は一見して副詞に見えないこともありませんが、紛れもなく形容詞。コンマでふたつの単語を分けているのはなぜでしょうか。訳文は、間違いではないけれど、どこかの優等生が訳した直訳にしか見えないのです。

「plump」はマリガンの静的な姿かたちを表現しているのにたいして、「Stately」はマリガンの移りゆく動的な個性を表現していると思われます。

ですから、このふたつの単語を「and」でつなぐわけにはいかなかった、そう考えると、少しはおもしろくなります。

ついでに、「plump」を辞書で引くと、なるほど「肥満した」「丸々と肥った」という意味の形容詞であることが分かります。ならば「fat」とどう違うのか、「fat」こそ「肥満した」なのです。

すると「plump」は、「肉付きのよい」「小太りな」という意味になりそうです。「肉付きのいい」とくれば、だんぜん白鵬みたいな「ふとっちょ」であるはずがありません。

ぼくでは痩せすぎだけれども、痩せていないころのマリア・カラスくらいの肉付きなら、かえって魅力があるかも。ここでマリガンという主人公の姿かたちが、ただ単に「ふとっちょの」であってはならないわけです。

なぜなら、「plump melon」という表現をよく見かけますが、「ふとっちょのメロン」あるいは「肥満したメロン」などとやってしまっては、まるでとんちんかんな訳になってしまいます。この場合は「食べごろの」と訳すべきでしょう。「They are plump but not fat.」という文章さえあります。

ありがたいことにさらに、少し先にすすむと、「He kissed the plump mellow yellow smellow melons of her rump,ふくよかな、黄色く熟したメロンが匂いたつようなお尻にキスをした」と出ています。「plump」と「rump」、「mellow」と「melons」の取り合わせが絶妙です。

モリーのお尻を熟したメロンにたとえているわけですが、単語の音の響きをそろえて、踏韻しているのが分かります。

ことば遊びの天才ジョイスの本領発揮。

この場合も「rump腰部」と訳されているのにはぼくは不満です。どうしても「お尻」か、でなかったら、食べごろを感じさせる「臀(しり)、尻」、「けつ」。そういう単語を使うべきでしょう。「腰部」などという曖昧で、表現力に乏しい単語にしてしまっては、せっかくのジョイス文を台なしにしていると思いますが。

この「smellow匂いたつ」ということばも、英和辞書には載っていない単語で、ジョイスの造語によるものと思われ、そのためにわざわざ用意されているとしか思えません。

なぜジョイスは「smellow匂いたつ」としたのかって?

おそらく「mellow熟した」と対をなす単語にしたかったのでしょう。ジョイスにかかったら、この種の造語はいたるところにあります。専門家の本をいちいち読んでいるわけじゃないので、不確かではありますが。

まあ、……この話をつづければ紙幅がなくなりますが、「ユリシーズ」のおもしろさこそ、文学なのです。知れば知るほど痛快な文学。数学の謎もおもしろいのですが、文学の謎もおもしろいと思っています。

 

くりかえしますが、先の文章のなかにある「ボウルbowl」は、「ヒゲ剃り用のボウルshaving bowl」または、「nickel-shaving bowl」のことだとおもいます。ならば「椀」ではなくて「鋺(わん)」にしたほうがいいでしょうね。

それはささいなことかも知れませんが、この単語は古くて、むかしからある単語で、古英語(Old English)では「bolle」と綴り、「鉢」や「洗い鉢」を指していました。なぜ「白銅貨でできたボウルnickel-shaving bowl」をあげたかといいますと、ニッケルにメッキをした安物のボウル、この「ニッケルnickel」という単語はもともとギリシャ語で、「紅砒(こうひ)ニッケル」のことで、ギリシャ語では別名「悪魔」という意味を持ち、「銅のように似せて実際は銅の成分をまったく含んでいない贋もの」という意味があり、いかにもジョイスが好みそうな単語だからです。

俗に「5セント銅貨」を指し、銅なんかまるで含有していない「ニッケル硬貨」という意味にもなったと辞書には書かれていますが、そんなボウルを手に持って(しずしずと)階段を降りていくというわけです。

さらに、この階段というやつは、意味深長な単語で、文章のはしばしまで目配りして読めば、「階段」は「祭壇の階段」であり、「ボウル」はミサに用いる葡萄酒入りの「聖餐杯」ということになりそうです。ですから「小鉢」くらいのボウルが相当するわけです。しかも、陶器でできた小鉢ではなく、ニッケルである必要があります。

ジョイスはここでミサのもじりをやっているのかも知れません。たぶんそうだろうとおもいます。もし、ミサのもじりをやっているとすれば、なおさら「Stately, plump」であることに納得できるかとおもいます。

「Stately」は威厳に満ちた、ゆったりとした歩き方を表現しているからで、そのすぐ先に出てくる手鏡と剃刀が交差して置かれ、「十字架の形」になっているというフレーズが、ぐーんと生きてきますね。ぼくがもの足りないとおもうのは、そんなところです。

以上のことは、日本語訳では、ほとんど感じられないのと、そんなことは脚注にもしるされていません。訳文を見ても、そのフシすら触れられていないのです。ジョイスが文章の達人であることはよく知られているとおりですが、自然主義文学やロマン主義文学とは無縁の世界で、彼は、ひとり文体(レトリック)に心血を注いだ知的冒険者であったとおもいます。

「ユリシーズのおもしろさ」という点で話をすれば、なかなか尽きません。

ぼくは柄にもなく、さっき雨のなかやってきた40代とおぼしきお姉さんに「ユリシーズ」の話をしてしまいました。彼女はコーヒーを飲みながら、「アイルランドの作家が好き」といったからです。ぼくの友人が、70になろうというのに、アイルランドの大学に留学したのです。その話をしました。彼は高校の歴史の先生をしていましたが、念願のアイルランド留学を果たしました。

「アイルランドの作家、いろいろいますねぇ。……ノーベル文学賞に輝いた作家が4人もいる」

ジョナサン・スウィフト、エドナ・オブライエン、ジェイムズ・ジョイス、ロード・ダンセイニ、ウィリアム・バトラー・イェイツ、ジョージ・バーナード・ショー、サミュエル・ベケット、オスカー・ワイルドなど。

「そのうち、だれが好きですか?」ときかれたので、ぼくはジェイムズ・ジョイスが好きです、と答えました。

学齢期に達したころのジョイスの、貧しい体験は、「ユリシーズ」のなかには随所に生かされています。彼は経済的欠乏から、図書館利用に大きくかたむき、当時、民族主義運動やアイルランド文芸復興運動の気運がちょうど盛り上がりつつあったころで、ジョイスはそれらには見向きもせず、ひとりイプセンへの傾倒を強めていきます。

そして1900年、イギリスの著名な雑誌「フォートナイトリー・レヴュー」に彼のイプセン論が掲載され、イプセン本人から感謝の言葉が寄せられるなど、周囲の人びとを驚かせました。

30歳のときに、市民大学公開講座でウイリアム・ブレイクとダニェル・ディフォーについての講演を行ないました。その年は、「ハムレット」についての講演も。……31歳のときにレヴォルテッラ高校、――のちのトリエステ大学にポストを得、午前はそこで教え、午後は個人教授、夜は執筆という日々を過ごしています。

「若き芸術家の肖像」が出版されたのはその翌年です。

同年、「ダブリン市民」も出版されました。

そのときは、「ユリシーズ」は第3挿話のなかばごろあたりまで書いていたらしいのですが、ちょうどこのとき、一家はチューリッヒに移住します。イェーツやパウンドの尽力もあって、イギリス王室文学基金より75ポンドが支給されたからです。

で、35歳のときにダブリンで復活祭武装蜂起が起き、友人のひとりが銃殺され、大きなショックを受けます。

ふたたびパウンドの力を得て、イギリス王室助成金100ポンドが支給されるとともに、アメリカのヒューブシュ社から「ダブリン市民」と「若き芸術家の肖像」が上梓されました。これでジョイスはひと息つくことができたのです。

「ユリシーズ」は、39歳になって「リトル・レビュー」にやっと掲載されますが、その編集者が猥褻文書出版により有罪の判決を受け、掲載号は没収されました。

ところがヘミングウェイがよく世話になったというパリの「シェイクスピア書店」と出版契約を結び、翌年やっと出版されましたが、ふしぎなことに、じっさいに出版されたのはエゴイスト社でした。そのあたりはよく分かりません。

つづいてフランス版も出て、そして、あの「フィネガンス・ウェイク」の草稿に着手します。1923年、41歳のときです。

音楽の才はむしろ母親から受け継いだもののようです。

ジョイスは最年少の6歳で、イエズス会の名門校クロンゴーズ・ウッド・カレッジに入学したそうですから、学校ではコーラスなどもやっていたのかもしれません。

その後、父親の放恣な生活がたたって、一家は急速に没落します。父親はコークの資産と収税吏としてのじゅうぶんな年収があったのですが、収税組織の改革によって失職してからは、ジョイスは、学業を中断せざるを得なくなります。父親はわずかの年金を受給しながら職を転々と変え、一家は郊外のラスガーからダブリン市内に移り住み……。――まあ、この話をすれば、かぎりなく脱線しそうなので、この先は別稿にゆずります。

アイルランドにキリスト教が入ってきたのは、イギリスよりも200年も前のことだったといわれています。そのために後年、イギリス人プロテスタントがアイルランドにやってくると、容易に馴染んだものとおもわれます。

アイルランドのアングロ・アイリッシュの基盤ができると、コーク湾に面した港街は、洗練されたクィーンズ・イングリッシュを話すようになり、ダブリンでは、たちまち英語文学が確立されていきます。

イギリスのアイルランドの植民地化にたいする憤懣は、独得の文学的風土をつくっていったのだとおもいます。アイルランドに攻め入ったクロムウェルを目の仇にし、彼を呪い、イギリスそのものを嫌悪しました。嫌悪しながら、イギリスに乗り込み、イギリスの政治や習慣を笑いものにし、イギリスにたいする痛烈な諷刺小説を書いたスウィフトを皮きりに、18世紀のダブリンでは、アングロ・アイリッシュのなかでもアイルランド人以上に「アイリッシュ」な人間がどんどん増えていきます。

「アイリッシュ」という言葉そのものが、イギリス側から見た蔑称となり、「アイリッシュ・ブル(Irish bull=とんちんかんな誤謬)」といわれて、揶揄(やゆ)されたりしました。ここでちょっとブルの実例をあげますと、――たとえば、

 

ちょっとお姉さん、お姉さん! あの人見て。

あなたとよく似てるわ。どちらかというと、あの人がお姉さんに似てるわね。

(こういうおかしな矛盾表現は、アイルランド的だといわれます)。

 

本大学の伝統は、今に聞こえるバット国民党党首の描いた政策理念を根づかせることである。本大学は、来たる0000年9月1日より開校となる。(1日として伝統がないにもかかわらず、伝統なる理念だけが先走ってでき上がっているという話です)。

 

文芸としてつづられる文章は、吟味して読めば、こんなにおもしろいのか、とおもうことがいっぱいあります。――たとえば、もともとジョイスの書いた「ユリシーズ」には、ストーリーなんていうものはなくて、主人公のたった一日の出来事、その日思ったり感じたりしたこと、想像したこと、回想・空想したことを綿々とつづっただけの、しかし長大で、辞典的な魅力たっぷりの異様な小説です。ジョイスのたくらみの多くは、文章そのものの中にあるといっていいでしょう。

日本語として一貫して読める文章になっていれば事足れりといかないのが、ジョイスの文章です。ですから、ジョイスのおもしろさは、文章のなかに深く埋まっている、そう考えて間違いないでしょう。

では、その文章とは、――。

 

Beer, beef, business, bibles, bulldogs, battleships, buggery and

bishops.Whether on the scaffold high. Beer, beef, trample the bibles. When for Irelandear. Trample the trampellers. Thunderation!  Keep the durned millingtary step. We fall. Bishops boosebox. Halt! Heave to. Rugger. Scrum in. No touch kicking. Wow, my tootsies!  You hurt?

 

麦酒(ビール)、牛肉(ビーフ)、仕事(ビジネス)、聖書(バイブル)、ブルドック、戦艦(バトルシップ)、鶏姦(バガリー)、それに僧正(ビショップ)。高い断頭台の上でも。麦酒牛肉(ビーフビール)は聖典(バイブルズ)を踏みにじる。愛するアイルランドを思うなら。自由を奪うものトランペラーを踏みにじれ、こん畜生(サンダーレーション)! 粉ひき歩調(ミリングタリー)で歩くんだ。おれたちは倒れそうだ。レモン葡萄酒の酒場(ビショップス・ブースボックス。止まれ! 停止。ラクビーだ。スクラムを組め。ノー・タッチからのキックだぞ。うわっ、おれの足が! 怪我か?

ジョイス「ユリシーズ」、集英社文庫ヘリテージシリーズ、2003年版

 

ジョイスのおもしろさは、こういった文章にこそ秘められているとおもっています。「秘められている」といいましたが、まさに「秘められている」であり、ご覧いただく文章(原文)を見れば、翻訳ではちょっと――いや、ほとんど分からない(感じられない)ものが、ほの見えてくるではないかとおもわれます。出し惜しみしないで、ちゃんと書いてよ! といいたくなります。

懇切丁寧にも、あるいは親切にも、前後の文章のなかに隠れたキーワードをちゃんと忍び込ませています。この訳文は旧版の丸谷才一氏。

同氏は丁寧にもルビをつけて、踏韻も含め、ゴロ合わせや、駄洒落が分かるように訳出しています。冒頭の「Beer」から「bishop」まで「b」ではじまる8つの単語。これは、この前のページに書かれている「British Beatitudes!(イギリス人の福音だ!)」を受けたかたちで綴られた文章です。

さて、「Beatitudes(福音)」とは、もちろん英国キリスト教の「8つの教え」を意味し、イエス・キリストが山上の垂訓(the Sermon on the Mount)のなかで説いた8つの幸福を指します。

そこでは「幸いなるかな心の貧しき者(Blessed are the poor in spirit,)」にはじまり、「Blessed are」ということばが9回繰り返されます。しかし実質的には8回で、俗に「8つの教え」といわれるものです(新約聖書「マタイによる福音書」5:3-12)。British Beatitudesは、16世紀に、エリザベス1世の父、ヘンリー8世の離婚問題に端を発して、イギリスではローマ・カトリック教会から独立して英国国教会が成立します。

これをアイルランド人は目の仇にしているのです。歴史を勝手に変えやがった! というのです。

それを揶揄したかたちで「マタイによる福音書」の「Blessed are」の代わりに、「b」ではじまるイギリスを象徴することば、イギリスと関係の深いことばをわざわざ引っ張り出してきたものとおもわれます。

したがって、ここでも福音書にちなんで単語が8つ綴られているわけです。

1行目に出てくる「buggery(男色=鶏姦(けいかん))」は、イギリスの学校といえば、ほとんどが全寮制で、寮のなかで共同生活を強いられるわけで、ですからむかしからホモ・セクシュアルが多かったのです。それをいっているのだとおもいます。ここではそれを揶揄しているわけです。

「bulldog(ブルドック)」は、しらべてみると、イギリス原産の犬であり、辞典にはオクスフォード、ケンブリッジ両大学の学生監補佐を意味するとあり、「bishop(ローマ・カトリックでは司教、または僧正)」は、一般的には「僧正」と訳されますが、そもそもは英国国教会の「主教」を意味する語でもあったのです。

「Whether on the scaffold high.」「When for Irelandear」「We fall」は、愛国的な「God save Ireland(神のもとにあるアイルランド)」という歌の歌詞のなかから取られたことばで、別名「神よアイルランドを守り給え」と訳され、1926年まで兵士の歌でしたが、公式の国歌になるまで、アイルランドの非公式の国歌とされてきました。なかなか愉快な歌です。

この歌は1867年12月7日にティモシー・ダニエル・サリヴァンによって書かれました。彼はマンチェスターの殉教者の裁判中のエンドマンド・コントンの演説に触発されてこの詩を書いたとされています。

「Whether on the scaffold high.」は、おなじフレーズが第8話にも出てきており、丸谷氏は、そこでは「たとえ断頭台にのぼろうとも絶対に」と訳されています。

そっちのほうはピーンときます。

ところが、「粉ひき歩調で歩くんだ」とは、何を意味しているのでしょうか。

「millingtary」とは、「粉ひきとか、(金属の縁にぎざぎざを)刻みつける」ことを意味する「milling」と、「軍隊」を意味する「millitary」を引っ掛けている造語です。軍隊調に、ざっくざっくと歩調をくんだ歩き方という意味になりそうです。ですから訳文の「粉ひき歩調」だけでは通じません。――「粉ひき歩調」といってピーンとくるとおもいますか?

人間が臼で挽く粉ではなく、牛を歩かせて、一定の歩調でおなじところをぐるぐる廻っているようすのほうを連想するでしょう。そのニュアンスが出せれば、翻訳はグラン・クリュの一級品。

「レモン葡萄酒の酒場」というのも、ちょっと変ですね。

葡萄酒にレモンまたはオレンジとシュガーを加えたドリンクこそ「bishop」と呼ばれるものですが、これは、しかしさっきの「British Beatitudes」にはつながらないので、ここでは文字どおり「主教」と解釈するとピーンときます。

大事なのは、8つの教えにならって、8つの「楯突く」意味の訳語を見つけ出さなくちゃならない、というわけです。ジョイスのたくらみは、そこにあるとおもうので。「boosebox」の「boose」は「酒」を意味する「booze」からつくられた造語のようです。

19世紀後半のビクトリア朝時代には、英国国教会のなかの一派に「高教会派(high Church)」と称するものがあったようです。この一派は、酒類販売免許法の修正――より厳しい法的措置に抗議した事件――を受けたことばと解するならば、「この大酒呑みの野郎ども!」というような感じの「大酒呑み」という意味になるでしょうか。

当時ロンドンでは酒を売る、売らないの悶着が横行し、その扱い業者へのライセンス認定がますます厳しくなった背景を揶揄してのフレーズ、とおもうと、とっても愉快な文章です。

「‐box」とあるのは、セラーのような店の酒棚には置かないで、鍵のかかるボックスに入れて商いをしていた名残りかも知れません。それを「b」にこだわるジョイスは「boosebox」といっているのですから、ひじょうにおもしろい表現です。訳文ではどうもわかりません。

ここでは出てこないけれども、第15話では、「buybull」という見なれないことばが登場します。ははーん、とおもうでしょう。丸谷氏訳では「牛買い」と訳されています。これはもちろん「British Beatitudes」の意味をこめてつくられた造語としか読みようがありません。

――「ユリシーズ」っておもしろそうだけど、むずかしそうね。彼女はそういいました。

――でも、ぼくには魅力的です。ラフカディオ・ハーンのふるさとでもあります。

パトリック・ラフカディオ・ハーン(1850-1904年)は、2歳から13歳まで、人生で最も重要で多感な時期を、彼はアイルランドで過ごし、日本人小泉八雲として54年の生涯を終えました。心地よくて、気味が悪いような、ちょっと小悪魔的な作風。

その彼は、日本をとても愛しました。ハーンには日本は、ふるさとのように見えたにちがいないのです。――先年、松江に行き、小泉八雲記念館を見てきました。

「――あら、わたしは出雲大社に行ったのよ、去年! こんど、小泉八雲のお話聞きたいわ」

「では、こんどは、小泉八雲の話をしますね、きっとです!」

そういって、彼女と別れました。一度、絵のモデルさんになってもらった人です。

 

は人を尊敬し、は人を見下すDogs look up to us. Cats look down on us.

 

3時ごろ、Sさんがやってきた。きっとくるだろうとおもって、こっちは身構えていた。

そしてKさんが顔を出し、きょうは、読売新聞の夕刊は、数え間違いをしたらしくて、1部足りなくなったとかいって、きょうは置いていかなかった。そういうわけで、きょうはかんべん願いたいという。

「また、きますよ」といってさっさと出ていった。

夕刊は、サービスでいただいていた。それからSさんと事務所でコーヒーを飲んでおしゃべりした。きょうのSさんは、いつものSさんと趣きがちと違った。何かの話で女の話になり、Sさんはこんなことをいった。

「女性の気になる部分を、逆に褒めてあげると、まったく抵抗なく喜ぶものですなあ。ある人にとっては、欠点に見えても、べつの人、――つまり、田中さんのことだけどね、ははははっ、……魅力的に見えるんでしょうな。美の基準なんて、そういうもんですかなあ」という。

「そうかもしれませんね。《万物の尺度は人間である》というからね」というと、

 

15世紀のヴェネチア女性が履いた靴。少しでも背が高く見えるようにと、ヒールを高くした。人類初のハイヒールは、彼女たちが考案した。ぼくは2011年9月、江戸東京博物館で開催された「ヴェネチア展」にて、本物の靴と衣裳を見ている。会場では撮影できないので、アウトラインをスケッチをした。

 

 

「だれのことば?」

「プロタゴラスっていうんだ」

「そいつは、知らねえな。まあ、わかりやすくいうと、彼女を嫌う人がいるいっぽうで、彼女を好きになる男もいるっていうことですな、いつの世にも」

「《蓼喰う虫も好き好き》というからね」

「そりゃあ、そうだ」

「《犬は人を尊敬し、猫は人を見下す》。……だれだっけ? ウィンストン・チャーチル。《私は豚が好きだ。犬は人を尊敬し、猫は人を見下す。しかし豚は人を対等に扱う》っていいますから」

「なーるほど」

「ヨーコが怒ると、これはなかなか魅力的な女に見えるらしいよ。彼女のいっていることが、なーるほど、ごもっともとおもってしまってね。彼女はいつも正論を吐くので、どこにも逃げ場がないんですよ」

「親切な女は、屁理屈をいう男には、ちゃんと逃げ道をつくるもんです、そうですよね? いい女は」と、Sさんはいっている。

「田中さんのいう逃げ道の話で、いま、おもい出しましたよ」

「なにを?」

「女のスカートの中にね。……そこに逃げたっていうヴェネチア議会の男の話ですよ」という。

「つまり、上野千鶴子さんの書いた《スカートの中の劇場》? そうそう、ヴェネチアの女性はヨーロッパ人の平均より可愛いけれど背が低い。だから彼女たちは、ハイヒールというものを考案したのさ。……議長がつるし上げにあって、逃げたところが女のスカートのなかだったっていう話ですよ。だれにもわからない。いい方法を考えついたもんですね?」

「いまじゃ、スカートが短くなっちまって、そんな芸当はできませんな。隠れるところなんてないし、……。だいいち、じぶんなんか、ちょっとすみませんといって、女のスカートを持ちあげようもんなら、強制わいせつ罪で、つかまっちまう」

「それはそうです。そんなこと、やっちゃいけませんよ。……Sさん、バレンタインで、女性から何かもらいましたか?」

「そういえば、ギリチョコっていうやつですがね、平べったい板を1枚、もらいましたなあ。今次、新型コロナウイルスが蔓延する世の中になっちまうと、ウイルスまみれのチョコなんて、恐ろしくて」といっている。

「その女性は?」

「事務所の事務の女性ですよ、20代でしょうな。でも、これまた、人妻でね」という。Sさんは人妻に縁があると見えて、彼のいい女はぜんぶ人妻なのだ。あるいは、すでにいい人のいる女だったり。

「バレンタインって、いったい、ありゃなんですかなあ」という。

「そう、バレンタインでおもい出しますよ。戸板康二さん、すでに亡くなりましたがね、彼はいってましたよ。――バレンタインは、破廉恥の隣りにあるとか」

「そりゃあ、なんですかな?」

「ははははっ、……もともとは、《春は、バレンタイン聖人の隣人》とかいいますからね。そのことばからきているんだとおもいます」

「春は、バレンタインの隣人? きいたこともない。なんですかな、そいつは?」

辞書にはこう出ている。

「バレンタイン・デーとは、西暦270年2月14日、異教徒の迫害を受けて殉教した聖バレンタインを記念し、男女相愛の日とされて、1年に一度、女性から公然と求愛でき、また一度破れた恋もこの日祈るとよみがえる。恋人に手紙やプレゼントを贈る風習もある」(「コンサイス・カタカナ語辞典」三省堂、第4版)と出ていた。

「その、隣人というのが、わからない」

「つまり、イエスの隣人、その隣人でしょうね。……破廉恥の隣人は、おもしろいとおもいませんか。ぼくなんか、むかしからずーっと破廉恥の隣人でしたからね」

「それもそうですなあ」と、Sさんはえらく感心していう。

「そんなに感心されなくてもいいですけど、……。阿部達二っていう人、知りません? その人のエッセイ、なかなか軽妙で、オール読物なんかに載ってますよ。出石尚三さんの小説も載ってますね。両氏とも、なかなか該博な知識の持ち主で、尊敬しています。さっきのギリチョコじゃありませんけどね、それを受け取って、にやにやしている中年の、いや、老年のおじさんたちの図は、破廉恥といわれても仕方ないでしょう」

「そういう田中さんは、もっともらっているんでしょうな」という。

「悲しいかな、もらってませんね。いや、1週間前、もらいましたね。23歳のОLさんで、背が179センチもあって、きれいな日本語をしゃべる美人OLさんなんですね」

「田中さんは、スミに置けませんな。で?」

「お返しはいいっていうんですよ、彼女は。ほんの、わたしの気持ちですってね。そんなこといわれると、めろめろになってしまう」

「どこの人?」

「よく知りませんが、東京でしょう? 30代のお兄ちゃんが、越谷にいるそうです。先日、ある人の玄関キーをふたりで取り替えていたら、彼女、すっごく力んじゃってね、おならをしたんですよ」

「ほう、ところで卓球の平野美宇ちゃん、ご存じでしょう。世界選手権で戦っている最中に、おなら、windが出たっていっていましたな。ちがったかな。世界選手権じゃなくて、中国の陳夢をやぶって優勝したときだったかな。世界ランク1位の陳夢(Chen Meng)をかんたんに3対0でやぶっちまった。おならをして、アジア選手権に優勝した平野美宇ちゃんですな」

「彼女、力んだんでしょうね」

「ヨーコさんからは、もらいますか?……?」

「ヨーコはたぶん、わすれたんでしょう」

「いや、もらってるな。あの人は、そういうことをわすれたりする人じゃないですからな」とSさんはいう。

ヨーコからはもらわなかったけれど、べつの人から、べつの意味で、チョコのついた菓子をいただいた。あれは、バレンタインとは関係ないんだろうなとおもっている。ヨーコがユズ茶の元をつくって、小瓶に入れたやつをプレゼントした、きっとそのお返しだ。

「しかし、夫婦の愛って、すばらしいとおもうよ。……ケンカしたって、はじめっからわかり合ってる仲だしね。……」

「愛? いきなり夫婦の愛ですか? 夫婦といっても、後期高齢者とかになっちまうと、愛っていうものがどういうものだったか? ……塩野七生さんの『ルネサンスとは何であったか』(新潮社、2001年)という本を読むと、《ルネサンスとは、見たい、知りたい、分かりたいという欲望の爆発が、後世の人びとによってルネサンスと名づけられることになった》と書かれています。掲載された塩野七生さんの雑誌も《海》でしたね」

「そういうもんですかな。しかし、ありますよ、愛は。――古代中国に、《陰陽5行説》ってあるでしょ? それですよ」とSさんはいっている。

とつぜんむずかしい話になった。Sさんの口から、「陰陽5行説」が出てくるとは思わなかった。

 

ヴェネチアの女性ファッション。塩野七生さんの「海の都の物語」より転載。

古代中国の「陰陽5行説」に出てくる「7情」というのは、嬉()、怒()、憂(ゆう)、思()、悲()、恐(きょう)、驚(きょう)の7つの感情が書かれている。それは、よく考えみれば、たがいに打ち消しあう諸刃の剣だと考えてしまう。

よくも悪くも、取りようによっては、いくらでも都合よく取れるもので、感情の異常な変化は、女の抑圧としてトラウマになるといわれているのだけれど、……。ストレスのもとになる7つの感情を和らげてあげると、たしかに、リラックスできるような気になる。和らげてあげる最大の方法は、じぶんの場合、「ことば」だ。そして、ヨーコの足の裏を揉む。

ヨーコはたぶん、それは行動だというかも知れない。

なるほど行動には違いない。――だから、足の裏を揉むのだが、何回も、何回も、ヨーコがもういいというまで揉みつづける。しまいには、彼女は眠ってしまうのだ。

「奥さん孝行なんですなあ、田中さんは。……だから、それは愛なんですなあ」といっている。

このあいだ、じぶんはヨーコの料理を褒めた。

ヨーコがつくる料理は、美しい。盛りつけにもそれを感じることがある。美的な配慮が奥ゆかしいときがある。きのうはカレーライスだったが、自分がひとり食べるときのことを考えて、あらかじめつくってくれている。

むかしから、《男は松、女は藤(ふじ)》などといわれている。

松には藤がからまるように、女は男を頼りにするというたとえらしいけれど、ところが、ヨーコのいうとおり、じぶんは松なんかになれず、藤になっちまって、ヨーコにからみついているというわけだ。

……うははははっ! しかし、ことばって魔術だなあと、つくづくおもう。

ヨーコはさいきん、足の裏を揉みはじめて、足がラクになったといっている。これは、女のたしかな反応である。足の裏にはいろいろなツボがある。性感帯もあるのだ。しらべてみると、性感帯は、中医学でいう「気」、「血」、「津液(しんえき)」の旺盛なはたらきで感じ取るツボと書かれている。

「出ましたな。……性感帯の話が、……」とSさんはいう。

「ところで、例の電子辞書、どうですか? 使えますか?」

「ああ、あれですか。……このあいだ、カバンていう字を忘れて、辞書で打ってみましたよ」

「漢字のカバンですね?」

Sさんは俳句をひねるので、辞書が要る。そのために電子辞書を手に入れたのだ。

「やっと、出ましたな。さんざん苦労しましたよ」といっている。

「美空ひばりは、出なかったでしょう?」

「出ませんでしたな、……ところが、【よのなか】《世の中》っていう字をしらべたら、そいつは、愛し合う人と憎み合う人と出ていましたな。田中さんのいうとおり、【れんあい】《恋愛》は、特定の異性と特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、できるなら合体したい、と書かれていましたな。小説を読んでるみたいだ」

「――ということは、それは、山田忠雄主幹の三省堂の新明解国語辞典でしょう。漢字の話も出ていましたか? カバンの、いわれなんか書いてありましたか?」

「いわれ? べつになかったですよ」

「なかったですか。ほう……」

カバンは「鞄」と書く。――ちょっと古いが、「オール読物」の2007年2月号に阿部達二という人の書いた《歳時記くずし》というページに、鞄のいわれが書かれている。それによると、明治23年2月22日、明治天皇は上野公園で開かれている内国勧業博覧会に出かけられ、途中、馬車の窓から銀座の谷沢商会のまえに「鞄」という看板がかかっているのをご覧になったそうだ。

天皇も、おつきの者も読めない。

のちに使いを出してたずねると、舶来の皮のバッグを売るために「革包」と書いたらしいのだが、それが横書きになっていて、字と字がくっついて、「鞄」の1字に見えたのだそうだ。中国語の「鞄」はホウ、ハクと読み、「なめし皮、それを作る職人」という意味。これ以降、日本では鞄はバッグという意味になり、日本読みは「きゃばん」を当てたのだけれど、これがどうもいいにくいというので「かばん」ということばになって、国訓文字になったという。

「ほんとですか? ウソみたいな話じゃないですか」とSさんはいった。

「そういうことなら、ひとつ漢字ができますなあ」と彼はいった。

「《金》に《矢》と書いて「鉄」の字をつくる。

この字は、どうでしょうな? 鉄は、金を失うと書くじゃないですか? じぶんは、金を失いたくないのでね。妙な字をつくりましたなあ」という。

「あっ、おもい出しましたよ。北海道のJR北海道旅客鉄道株式会社の《鉄》という字は、たしか、矢になってたと思いますよ」

「そりゃあ初耳ですなあ。事業者たちは、考えたんでしょうな。……」

「みんな、ウソみたいな話ですがね。……そういえば、中国人のいう配偶者は愛人と書く。知ってました?」

「配偶者ですか。愛人とは、おそれいりますな」

「ふつう、奥さんのことは、老婆(ラゥプオ)と書くそうですよ。……母は?」

「母親じゃないのかい?」

「これ、娘なんですって」

「ほんまかいな!」

「ふつう、女ヘンに古と書いて、クーニャっていうそうですよ。または女ヘンに児とも書く。……飯店は、ホテル。これはご存知でしょう?」

「だったら、田中さん、手紙は?」

「トイレットペーパーかな?」

「じゃ、手紙はどういうのかい?」

「手紙? ……うーん、たしか、信とかいうんじゃないの。正式には郵便信かな?」

「辞典なんて、《ことばを、ことばで写生する》ってよくいいますね。三省堂ブックレットという本に、そんな話が書かれていますよ」

【おんな】《女》は、①人のうちで、やさしくて、子供を生みそだてる人。女子。女性とあって、「婦人」という語が消えている。もう「婦人」とはいえなくなった。「婦人警官」とはいえなくなったわけ。

【おとこ】《男》は、①人のうちで、力が強く、主として外で働く人。男子。男性と出ていて、三省堂の語釈は、原則的に小学5年生までで習う漢字の範囲で書かれているという。だが、子供のレベルに落としては書かれていない。

さて、ここまではわかる。

ところが、――

【じこ】《事故》の語釈を読んで、ぼくはびっくり。

「②その物事の実施・実現を妨げる都合の悪い事情」と書かれている。それはそのとおりかもしれない。用例が載っていなくて、ピンと来ないのだ。「いつだったか、じぶんはおまわりの職務質問にあって、カバンのなかを調べられ、カッターナイフがあったものだから、ちょっと来いと呼ばれ、草加警察署に連れていかれましてね、……。その話、いいましたよね? あのときは、説明にこまりましたよ」と、Sさんはいっている。

「ああ、それはぼくにもおぼえがありますね。木刀を裸で持ち歩いていて、職務質問を受けました。そりゃあそうですね。友人から木刀一本をもらい受けた日のことですよ」

「友人の名前と、住所、連絡先をいえっていうのでしょう? じぶんもいいましたがね」とSさん。「それですな。ここに3本ありますな」といって、Sさんは立ちあがって木刀の一本を持ち上げた。

「おっ、重いですな、……」といった。

これを木剣(ぼっけん)ともいう。つまり、凶器なのです。黒檀、蚊母樹は高価で、重い。赤樫は軽いけれど、強く打ち合うと折れやすい。

「《剣は一人(いちにん)の敵まなぶに足らず》ということばがありますね。この意味、わかりますか? だからといって、国民といえども、そのひとりから成るわけで、その意味は、万人を相手にしたときとおなじなんですよ」とぼくはいった。

「つまり、木刀を振るう人は、ひとりだけれど、天下国家を相手にするとき、万人を相手にする兵法にはかなわないって意味ですかな?」

「そうなんですね。でも、ぼくはこのことばが好きですね。剣道では《打って反省、打たれて感謝!》ということばがあります。相手を打って勝ってもけっして奢らない。打たれたときは、なぜ打たれたか知ることになる。勝った! 勝った! といってガッツポーズをしようものなら、1点減点される。打つことは、人の死を意味するので、喜ぶ場合ではないからです」というと、

「そりゃあ、そうでしょうな」といった。

「残心(ざんしん)ということば、英語にも、フランス語にもありません。ウクライナからやってきた剣道家は、ちゃんとした日本語で、そういっていました。剣道は、いってみれば、《残心》を極める武術といえるかもしれませんね」

「いかにも! ……ああっ、トイレしたくなった。わすれていましたな。……さっきから、我慢してたんですよ」といいながら、たばこの火をもみ消してSさんは立ち上がった。

《関羽の青偃月刀(えんげつとう)が首を三つ飛ばし、張飛の蛇矛(じゃぼう)が四人を馬から叩き落としていた。さらに首が飛びつづける》と読みはじめると、

「《三国志》ですな? そんな感じがしますな」とか、いっている。

「人が、用を足しているときに狙い撃つのは、卑怯です。フォークランド紛争のとき、英国人は、草原でズボンを降ろして、用を足している敵兵を見て、指揮官は撃ち方やめい! といって発砲を止めたそうですよ。英国人には、武士の情けではなくて、れっきとした騎士道精神というものがありましたからね」

それにしても、1982年3月19日、アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島のイギリス領サウス・ジョージア島に2度に渡って寄港、イギリスに無断で民間人を上陸させたことに端を発している。日本は、日露戦争前夜、アルゼンチンにはひとかたならぬ世話になっている。装甲巡洋艦「日進」と「春日」は、建造後、アルゼンチンから買い受けたものである。そのアルゼンチンが! とおもったものだ。

ッドストック道を突っ走る

 

オクスフォードの北13キロの小さなウッドストック村に入ったとき、ぼくは目を奪われた。

オクスフォードからウッドストックまでクルマを走らせ、そこに見る秋の夕暮れは、格別のものだった。

斜面の小高い丘まで芝生が広々と見え、その風景がほんの5キロ先のヤーントン村へとつづくのである。道の真ん中にある分離帯の並木も色づき、道の反対側にある牧草の低地に羊が草を食んでいるのが見える。そこからは、ストラットフォード・アポン・エイボンへと通じる道がくねくねと延びる。

若いころにシェイクスピアの誕生地、ストラットフォード・アポン・エイボンにやって来たときは、運河に浮かぶ船を利用した。そのときは、夏のどんよりとしたイギリスの田園風景が、いまはっきりと絵はがきのように想い出すことができる。

ヤーントン村を過ぎると、広大な敷地をもつブレナス・パレスの巨大な灰色の石垣が見え、アン女王の時代に名をなした将軍、初代のマールボロー公爵ジョン・チャーチルの舘址が見える。

ぼくのとなりに同乗している32歳のドライバー、キャサリン・チャーチルは、その子孫である。キャサリンは、オクスフォード大学で文学博士号を取得した。彼女の功績はシェイクスピアの語彙研究である。イギリス人にシェイクスピア英語に興味をもつ人はいても、語学研究に情熱をもつ人物はほとんどいない。語彙にやかましいのはたいていドイツ人である。

「なぜ、ドイツ人なの?」ときくと、

「ほら、わたしたちの英語は、いじめられたからなの」と、キャサリンはいった。

「誇りをもてない?」

「そう。……男ってダメよね。400年間、自国のことばに誇りをもてなかったわ。女は違うわ」といった。

「ほう。どこが違うんですか?」

「女はパンをこねる人だから。暮らしとともに女たちはことばを身につけるのよ」

「男は?」

「男はLordで、パンを守る人。ほら、守るために男たちは戦うのよ。女はLadyで、パンをこねる人。ノルマン・フレンチの侵攻のなかで、貴族に対する尊称 Lord(ロード)とLady(レディ)は数少ない誇り高き英語なの」

「そうなのか」

「でも、英語はノルマン・フレンチにむかしからいじめられてきた。300年間、英語は公用語から外されて虐待されたのよ。フランス語が公用語になったわ。だからね、イングランドに自国のことばを研究したいなんていう人は、いなかったのよ」

「ドクター・ジョンソンがいるでしょう?」

「ええ、唯一の例外ね」

「The worst tragedy for a poet is to be admired through being misunderstood. わが国には文法も辞書もなく、この広大なことばの海をわたるための海図も羅針盤もない」(英国国教会主教、ウィリアム・ウォーバートン、1747年)――。イングランドに先立つこと130年、イタリアとフランスは辞典編纂のためアカデミーを創設、多くの人材を投入して半世紀近くをかけた辞典をつぎつぎに完成させていた。遅れをとったイングランドにとって、自国の由緒の正しさを証明するために英語を研究し、すえながく利用するための辞典をつくることは、国家の急務であった。

この〈帝国の道具〉としての辞典編纂をひとりで成し遂げたのが、かの有名なサミュエル・ジョンソンである。

「じゃ、なぜあなたが英語を研究したいとおもったの?」

「わたしは女だから、……」

「女? 」

 

 

 

 

「そう。サミュエル・ハーディもいるけれど、彼はシェイクスピアを蹴った男なのよ。だから、彼はスペンサー英語をやったのよ。やったというのは、研究したという意味よ」

「スペンサーは、日本でも読まれていますよ。でもシェイクスピアにはかなわない。ところで、さっきの舘の石垣を見ておもったんだけど、サー・ウインストン・チャーチルは、ノーヘル文学賞をとりましたね? あなたは、どうおもいますか?」

「ええ、あれはほんものよ。政治家チャーチルは有名だけど、彼は政治家になる前、さまざまな論文を書きました。政治家にしてカントリー・ジェントルマン。彼こそ、イギリスの誇りだわ」

「でも、戦争を指導し、イギリスは勝利をおさめたのに、つぎの選挙で落選しちゃった。イギリス国民は《ノー》をつきつけた。それはなぜ?」

「それはちがうわ。――彼はイギリスに平和を導いた立役者なの。あまりにも偉大な人なの。だからイギリス国民は、《ありがとう》という意味で、大きな功績を残してくれたことへ敬意を表して、《お疲れさま。もうお休みください》という気持ちで、国民は彼に投票しなかったの。イギリスのジェントリー社会の良識は、どこの国にもないわ。イングランド独特のものなの」

「シェイクスピアもそうですか?」

「シェイクスピアは、紳士道とはなんの関係もないわ。だって、彼は紳士道を何か書いたかしら? 書かなかったわ。紳士道は、戦争になれば真っ先に行って死んでしまう。でも、シェイクスピアの描いたサー・ジョン・フォルスタッフっていう男は、びりっ尻(けつ)からのこのこいって、卑怯にも、じぶんだけ生きながらえようとたくらむような男よ。大酒飲みで強欲、狡猾(こうかつ)で好色。でも、《ヘンリー4世》という劇は、エリザベン女王にも気に入られたドラマよね」

由緒をおもんじるむかしのウッドストック村の社会もまたそうだとキャサリンは付け足した。

エドワード3世の王子である黒太子(ブラック・プリンス)は、村々の店で哄笑したり、叫び声をあげたり、道端で酒を飲んだり、おつきの女と寝たりという故事がいっぱいあるという話を聴いた。

そんな故事にちなむ英語が、辞典に載ったりする。ガイドブックの片隅にも書かれている。ブラック・プリンスはそういう村で生まれたのである。

ウッドストック村の短い一代記には「ブラック・プリンス」のユーモアあふれる物語が描かれているという話だ。いまそこは、こぢんまりとした旅館やホテルに様変わりし、いってみれば、「ブラック・プリンスのホステス」と呼ばれる女給たちが観光客の求めに応じて、夜のお努めまでお相手をする時代になったというではないか。

おしゃべり好きなキャサリン・チャーチルはまだ独身で、日本人のぼくに、臆面もなく、娼婦の話をする。

「シェイクスピアもそうよ」とキャサリンはいった。

夏目漱石の「三四郎」のなかでは、三四郎の同級生の與二郎がPity is akin to loveを「可哀想だた惚れたつてことよ」と訳して廣田先生に「下劣な極」とされる。

この出典はもちろんシェイクスピアの「十二夜」である。伯爵家の令嬢オリヴィアが、男装の麗人ヴァイオラを男と勘違いして惚れてしまう。「わたしのこと、どう思っているの?」とヴァイオラに迫るシーンがある。

 

  ヴァイオラ 可哀想だとおもいます。I pity you.

  オリヴィア それは恋の第一歩だね。That's a degree yo love.

 

シェイクスピアが、8歳年上のアン・ハサウェーといつ出会ったか、たしかなことはわからない。だが、むしゃくしゃしていた18歳のシェイクスピアははるか年上の、26歳の彼女を抱き、孕ませてしまった。26歳でまだ結婚しないアンのことを、少なからず「可哀想」とおもったというのだろうか。彼は寸時のおもいを遂げたのだが、じぶんが結婚するとはたぶん考えなかっただろう。

しかし、できてしまったものは、しかたがない。結婚するしかない。

大急ぎで結婚式をあげ、それから数ヶ月して子どもが生まれた。

だが、風景まで紳士然と見えるこんな田舎の風景のなかで暮らしたいとはおもわない。

イングランドはどこも、自然を手なずけているかのように美しい。だが、山というものがなく、急峻な川というものもない。川はゆったりと流れている。だからテムズ川ではボート競技ができるのだ。

15歳のシェイクスピアはすでにグラマースクールを終えていたはずなのに、本を読んだという証拠がない。シェイクスピアが学校時代に、キングス・ニュースクールに赴任してきた先生ジョン・コタムという人物の名前が見つかっている。

先生は、シェイクスピアを家庭教師として人に紹介したかもしれないという論文がある。もしもそうなら、彼は貴族の書斎で読書三昧を送ることができただろうと書いている。

ある人の遺書によれば、その「家」には、「役者たち」がいて、ロンドンの芝居の話を聴いたであろうと書かれている。ただ、その遺書には、シェイクスピアではなく、「シェイクシャフト」と書かれている。

18歳になって、ストラットフォード・アポン・エイボンにいたことはわかっている。これは同姓同名の別人とする説もあり、たしかなことは400年たっても何もわかっていない。

「ほんとうにそうですか?」ときいてみた。

「ええ、何もわかっていません」とキャサリンはいった。それからぼくらは、あるこぢんまりとしたコテージ風の家の前でクルマを停めた。

「ちょっと休憩していきません?」

ストラットフォード・アポン・エイボンのホテルにはない飲物を、紹介するわと彼女はいった。「ジン・アンド・フレンチ」と称する、少量のイタリアン・ベルモットを加えた冷たい飲み物で、オクスフォードの先生たちには人気があるという話だ。

キャサリンは、こぢんまりとしたバーカウンターに向かった。

店は赤くて毛足の長いじゅうたんを敷きつめ、暖炉わきの壁には、ジョン・チャーチル卿の肖像画がかかっているのが見えた。そこに照明があたっていて、薄暗いほかの壁面とは対照的に、明暗のキアロスクーロ効果を生んでいた。――光と影の明暗の対比を利用して、物の立体感をあらわして心理的な効果を高める技法。

彼女は、アルコールの入っていないワイン色のドリンクを飲んだ。

そして、彼女はそこにあった「デイリー・ミラー紙」のクロスワード・パズルのページに目を落とした。「《学士》の略字はBAですから、《take(下宿させる)》は《r》になるわよね?」といった。

「は?」

「ラテン語では《recipe》。――take in bach(R) in bachelor(BA)、つまり《R》in BA(BAのなかに《R》)で、BARという答えになるわね?」とキャサリンはいった。ぼくにはわからなかった。

「あすのシェイクスピアの《リア王》は、何時でした?」と、ぼくはきいた。

「だいじょうぶ、酔っ払って、朝寝坊してもだいじょうぶよ」とキャサリンは答えた。すると、年代ものの蓄音機から音楽が聴こえてきた。聴いたこともない民謡調の音楽だった。ビールを飲んで酔っ払った背の高い街の男が、ぼくの肩に腕をのばし、ビールを飲みませんか? といった。

そしていった。

「日本は好きですよ」と。彼の脚がふらついている。

「第2の日英同盟さ、……」と彼はいった。キャサリンは笑っている。シェイクスピアの「十二夜」の冒頭のセリフ。「音楽が恋の糧なら、つづけてくれ(If music be the food of love, play on.)」というセリフを想いだした。

宿の下で

 

午後から急に天気になり、ぼくはマンションの裏庭でビニールひもで、伐()った小枝をしばっていたら、スマホのコールが鳴った。

だれだろう?

「もしもし、田中さーん、いま、どちらですか?」という。女性の声だ。いま? マンションの裏庭ですよと、ぼくはいった。

その人は、いつもの水道メーターの検針にやってくるおばさんだ。

「やー、こんにちは。何かありましたか?」

「裏庭ですかぁ」と、おばさんはいう。

「はい、裏庭におります」というと、

「そうですかあ……」という。

「なにか、ご用? ご用なら、そっちに行きますよ」

「はいっ!」といったきり、用向きはいわなかった。「すぐいきます」といって、ぼくは事務所にもどった。すると、おばさんはエレベーターのわきで、しきりに体をくねらせて、「ごめんなさいね、わたし、……」とか何とかいって、声を震わせている。

「ああ、いわなくても、わかりますよ! どうぞお入りください」といって、事務所のドアを開錠し、手招きをしておばさんをなかに招じ入れた。

 

サクラが終わって

 

「はーい、どうも」

「どうぞ、……」

「すみませんねぇ、お忙しいのに」といって、おばさんは事務所のトイレに駆け込んだ。ああ、間に合ったようだとおもい、ぼくは事務所のドアを閉めると、外に出て、目の前の大きなサクラの木をながめた。

蒼穹(そうきゅう)の空を背景に、サクラの白い花びらがいっせいに輝いて散っているのが見えた。この空の下の海はきっと凪いでいることだろう。

静かな凪ぎの海域は、べつの宇宙かもしれない。北国の増毛(ましけ)の海は凪いでいるだろうか、なんて考えた。

コバルトブルーのシガレットボートがすいすい増毛の海を走っている光景を想像した。

小型の発動機船は桟橋を離れると、広い日本海を突っ走る。――そのとき、ぼくの脳裏に、ある映像が想いうかんだ。

ウエットスーツに身をつつんだ男たち。ひとりはウエットスーツの胸のファスナーを開いて、たばこを1本取り出し、それに火をつけた。彼は白髪頭の黒く日焼けした精悍(せいかん)な顔つきで、そのとき、彼は大声を張り上げた。

「人が浮いているぞ! スピード落とせ!」といって、彼は半身で立ち上がろうとした。

「左だ、左だ! 11時の方角だ」

――と、ここまで想いうかんでいた映像が、パチンと途切れた。いつか、じぶんが書いたことのあるシナリオのワンシーンだった。

 

 

 

 

「ありがとうございます」といって、後ろでおばさんが挨拶している。

「まあ、コーヒーでも。コーヒーより、まずはたばこですよね?」

「ありがとうございます」とおばさんはいった。

彼女は月に一度の割でやってくる。

水道の検針を素早く終わらせると、彼女はきまって事務所でたばこを吸う。ぼくは禁煙に成功し、お付き合いすることもなくなったが、たばこのみの気持ちはわかる。

「サクラ、もう散りましたね。さっき、お仕事しながら、何、考えてたんですか?」とおばさんはいった。ぼくはコーヒーメーカーのスイッチをオンにしてコーヒーをつくった。

「――増毛の海ですよ」

「マシケ? どこかしら?」という。

「ほら、もちろん北海道の増毛(ましけ)ですよ。そこで、殺人事件が起きるんですよ」

「ええっ! 怖い。いつですか?」

「いえいえ、ぼくがむかしつくったドラマの話ですよ」

「田中さんて、そういうお仕事もなさってたんですか?」

「いえいえ、趣味ですよ。むかし、橋本忍にあこがれていましてね、ほら、松本清張の《砂の器》とか、見たでしょ、映画なんかで」

「わたし、それ見ました、《砂の器》、テレビで」

「ぼくは《橋本忍全集》を持っていましてね、彼の脚本作品をぜんぶ読みましたよ。――そんな話より、さっきおもい出したのは、緊急時の女性用の、ほら、立ちしょん用グッズがあるんですが。見たことありません?」

「あるというのは知っています。でも、どこに売っているのか、わからないわ」

「これですよ。……」といって、オランダで手に入れたやつを開いて見せた。

「えーっ! これですか?」

「これがあると、マンションの裏庭の木陰で、男みたいに立ってやれますからねぇ。お尻を出さなくても、やれますしね。差し上げます。使ってみてください」

「前に向けて?」

「はい、前に向けて。――もともとはオランダ女性が考案したという女性用のトイレサポートとかいうらしいですよ。これなんかあると、便利だとおもいませんか?」

「そうね。わたし、おトイレが近いんで。でも、わたしがそんなことしたら、おかしくありませんか?」

「いいじゃありませんか。これからお嫁に行くわけじゃないし。そうでしょ?」

子どもがふたりいるといっていた。

「ははははっ、それはそうね」

「山歩きする女性には、いいかもしれない」

「登山? そうね。いま気づいたわ。みんなどうしてるんでしょうね?」

「女の子たちと縦走登山をしたことがありますよ。南アルプスをね。休憩のとき、ちゃんとやってました。山の上だから風が強くてね、おしっこも飛ばされちゃうんですよ!」

ギリシャ人のヘロドトスは書いている。エジプトの女性は立ちしょんをし、男性がしゃがんでしている姿を見て、びっくりしたという記録があるという。

日本もむかしはそうだった。

いなか娘を江戸に連れていく最中に「おしっこは立ってせずに、しゃがんでするもんだ!」と教えなければならないほど、女性たちの立ちしょんは、ごくごく普通のことだったようだ。むかし、母も腰を折って立ってやっていた。

銀座の高級料亭「万安楼」は、黒塀にかこまれていて、ある人に誘われて、若いころ一度だけ入ったことがある。

入るやいなや、ひとりの外国人が店の女性に、

「water closet?」といっている。WCのことだ。

和服を着た女の子はきょとんとしていた。ぼくは「トイレは、どこですか?」ときいてあげた。

「こちらです」といって彼女が招じ入れたのは、植木鉢で隠された、敷石に水を打ったような場所で、床のコーナーに灯りが置いてあって、床がきらきら光っていた。左側が殿方用、右側が婦人用。婦人用のブースは見えなかったが、その手前に、大きな竹を割ったしょうべん器がふたつ並んでいるのが見えた。着物の裾をあげ、後ろ向きになってお尻を突き出して放尿する。和服を着た女性にはとても便利な用便器に見えた。

そんな話をしていると、たちまち時間がすーっと消えていく。――この世はこの世。「この世界の片隅に」というマンガがあった。そのころ、芦田伸介、森繁久彌、三木のり平、みんなつぎつぎにあの世に旅立った。それもずいぶんむかしの話だ。

ぼくには出会ったこともない人たちだが、サクラの季節になると、すーっと映像みたいに想いだすのだ。

「おもいを遂げるって、いろいろあるけれど、いま心中なんか、しませんよね?」

「心中ですか。そうね、いま、聞きませんね」

「むかしは、江戸時代は、心中がはやった時期がありましたね。……《曽根崎心中》っていう舞台劇もある」

「男女がともに世を儚(はかな)むなんていう気持ち、いまあります? いっしょに死のうなんて、ありませんよね? 自殺はけっこう多い。1年間に3万人? 10年間で30万人になる。いま日本は平和だけど、戦争なみに死者が多いね。でも、心中するケースなんてないでしょうね。そうでなくて、孤独死の実態は悲惨だね。孤独死は自殺者のなかにも入らない。しかたなく死んでいく。神も仏もない世界だ」

「田中さん、そんなこと考えてらっしゃるんですか?」

「いや、このあいだね、久世光彦の《薔薇に溺れて》っていう本を読んでて、そうおもったのさ」

――ところで、「心中」にあたることばが、外国語にはないらしい。自殺はある。だが心中という意味のことばがないのだ。

せいぜい、ふたり一緒に自殺するという意味で、double suicideといったりする。これじゃあ、交通事故で2人いっしょに亡くなっても、それとおなじってわけ? そうおもってしまう。

「三国志」で名高い「桃園のちぎり」。――劉備・関羽・張飛の3人がいう。

「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん」という、あれだ。生まれは違うが、死ぬときはいっしょだ! という、あれか? ――だが、彼らはみんなばらばらに死んだ。

「人も死ぬけど、ことばも死にます」というと、

「え? ことばも死ぬんですか?」ときく。ええ、死にますね、とぼくはいった。それをひっくるめて「死語」という。

たとえば小島政次郎は、明治27年の生まれ。生粋の江戸っ子だった。明治26年に千葉県から21戸の家族が船に乗って北海道にわたり、現在の北竜町をつくったが、彼はそのころに生まれている。「薔薇に溺れて」の84ページに、小島政次郎の話が出てくる。「目に一丁字(いっていじ)もない」とか、「兄貴の身状(しんじょう)をどうこうする」とか、「……それが大専(だいせん)なのだ」とか。

それを読んだ久世光彦も、わからなかったといっている。ぼくにもわからない。

「おときは、十八だと言っていた。色は浅黒い、キリリとした身慎莫(みじんまく)の、無駄のちっともない体付をしていた」の「身慎莫(みじんまく)」って何だ! しらべてみると、「身じたく」みたいなものだとわかる。

それにおもしろいのは「無駄のちっともない体付」っていう文章だ。そんな話をするものだから、おばさんはあきれたような顔をして、

「コーヒー、もう一杯いただいてもいいかしら?」という。

コーヒーができあがるまで、おばさんはもう1本のたばこに火をつける。その指が可愛らしいこと。

「宿り木()って、わかります?」と、ぼくはきいた。

「宿り木? ですか」

「見たこと、ありません?」

この先を少し行ったところの、広い果樹園に立っている大きな木に、それがあった。直径40センチはあるだろうか。ぼんぼりのような姿をしていて、緑色をしている。英語ではparasiteとかmistletoeとかいう。

「欧米では、宿り木の下では、男の子が女の子にキスをしてもいいらしいですよ」といった。女の子は、男の子からのキスを拒否しないそうですよと。

「キスを求められたら、どうします?」ってきいたら、おばさんは、

「わたし! だんな以外に、キスしたことなんかないわねぇ」といった。

「だったら、これから宿り木の下に、行ってみましょうか?」とじょうだんをいったら、おばさんは、18の生娘みたいにもじもじして、

「これ、飲み終わってからでも、いいですか?」といった。

英銀イヤルバンク・オブ・スコットランド(RBS)綻劇

 

 

「世界最大の銀行を破綻させた男たち」(イアイン・マーチン、冨川海訳、WAVE出版、2015年)
 

鳥島から東に約270キロの海域で20日深夜、海上自衛隊の哨戒ヘリコプター2機が墜落した。

艦艇や航空機とともに潜水艦を探知する訓練に加わっていたという。その状況から、2機は衝突した可能性が高いという。搭乗していた計8人のうち、救助された隊員の死亡が確認されたという。

きのうは温かく、とても穏やかな一日だった。

日陰から出ると、容赦なく炒()りつける炎熱とでもいいたくなるような冬の太陽を感じたものである。日向は宇宙から飛んでくる光を受けて、きらきら輝いて見えた。

「いい天気ですなあ」と、トルーマン・カポーティみたいな、緑色のブレザーを羽織った芸能人みたいな男が、マンションの入口のエッジに長い脚を降ろして、コーヒー缶を口にしながらあいさつした。そのわきを、ばあさんが小さなカートを押してマンションのほうに向きを変えると、ぼくの顔を見て、こんにちはといった。

「こんにちは」

そのとき、ここはまるで、闘牛を見る観覧席みたいだとおもった。

ソル(日向席)とソル・イ・ソンブラ(日蔭席)で分けられた人生の観覧席だ。60歳を過ぎて一線を退いた者は、ぜんいん日蔭席に、若い連中は、男も女もぜんいん日向席に陣取る。

彼は70ぐらいだが、日向に出ると、年の割には5月の木の葉のように青い顔をしている。

「何か、はじまりそうな天気ですなあ」とタケさんはいった。

「そんな予感がしますか? 日本の円は下落しちゃって、インバウンドにはいいでしょうが、また金融ビッグバンが起きるんじゃないでしょうね?」というと、

「田中さんはそうおもいますか?」といった。

いつだったか、その「はじまる」話を、ぼくはタケさんからうかがったような気がする。

「――はじまるっていえば、イギリスのある宣言をおもいだしますよ」と彼はそのときいった。「ほら、メイク・イット・ハプン(RBS would “Make It Happen”)――ロイヤルバンク・オブ・スコットランドの宣言ですよ」と彼はいった。聴いたことがある、とぼくはおもった。

「ニューズウィーク」誌だったか、新聞だったか、もう忘れてしまったが、彼の顔を見ていると、とうじの英銀ロイヤルバンク・オブ・スコットランドのボスの顔写真をおもい出した。で、タケさんとつきあううちに、だんだんと金融の世界を知るようになった。

金融の世界に疎いぼくは、2004年に英銀ロイヤルバンク・オブ・スコットランド(RBS)が立てたスローガン、「RBSは事を起こす(RBS would “Make It Happen”)」の宣言に端を発し、それが機縁となって、だれも予想しなかった破綻への悲劇的な物語がはじまったことをおもい出したのである。

その出来事は、日本でもくわしく報じられた。「タケさんは、銀行では、マネジメント業務をやってたんですよね?」

「そうですよ。日本経済が世界を牽引していたころのことですがね。おまえさんのチームは、マネー・メイキング・マシンだなんていわれましてね。ははははっ、……でも、RBSの破綻は、世界に大きな影響をあたえましたな」という。

2007年、巨大な銀行が、いともやすやすと破綻の道を転がりはじめたというのだ。――タケさんのすすめで、ようやっと翻訳本で出た「世界最大の銀行を破綻させた男たち」(イアイン・マーチン、冨川海訳、WAVE出版、2015年)という本を読んでみた。その悲劇的な破綻劇の一部始終が、あからさまに描かれている。

わが国の長銀や北海道拓殖銀行の破綻とはくらべようもないほど、銀行のなかでは巨人と呼ばれる大銀行――スコットランドでは押しも押されぬ281年もつづいた名門の中央銀行――いまでは英銀だが、2007年から2008年にかけて、目もくらむような経営破綻への道をひた走りに突き進んだという話である。

その中心にいたのがフレッド・グッドウィンという男だった。

英国金融ビッグバン後の金融再編のなかで一気に台頭し、世界最大の銀行となったロイヤルバンク・オブ・スコットランド。悪夢のように破綻したこの大事件の物語は、その経営トップにいたフレッド・グッドウィンを主軸に、英連邦から分離独立していこうという、その機運の高まるスコットランドの歴史的な背景とともに語られるこのノンフィクションは、まるでスリラー小説を読まされているかのような、緩急息もつけないほどおもしろかった。

「事実は小説よりも奇なり」だ。

そのロイヤルバンク・オブ・スコットランドを世界最大の銀行に押し上げた功労者は、なんといってもフレッド・グッドウィンという男だった。イアイン・マーチンの書いた本も、その男を主人公に描いている。

大銀行は、しばしば最低自己資本比率以上の資本を積み増しすることをしぶった。

彼らは必要最小限の保持のみに止めるよう株主の圧力にさらされていたからである。彼らは、可能なかぎりの利益の保持を求めていた。それを彼らは「効率的な資本」と呼び、そういう政策を採用していた。

バーゼル規制では、銀行の資本はそのリスク水準にしたがって5つのカテゴリーに区分されており、銀行は全体で約8パーセントの自己資本を保持しなければならないとされている。

1987年のロンドン、ニューヨーク、香港をはじめとする、いたるところで起こった株価の急落は、人びとを否が応でも喚起させた。

もしも銀行がローン、債権、証券、株、デリバティブなどからなる巨大なポートフォリオを保持しているのであれば、それをもれなく管理する必要がある。とくにトレーディングでは、監視や警告を発するため、複雑なリスク管理システムが進行している。

いっぽう監査法人もより機能しやすくし、銀行は会計監査を受ける。

2005年からは、銀行家と規制当局にとってのバーゼル規制のように、英国の会計士は2005年から国際会計基準(IFRS)のバージョンを支持している。日本もこの規制を受けて、国際会計基準(IFRS)に標準を合わせるようになった。

ごくさいきんの論調では、英銀ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド・グループ(RBS)のロス・マキューアン最高経営責任者(CEO)は、投資銀行のリストラが「かなり進展している」とのべ、国際業務を縮小するいっぽう、英国と西欧の顧客に重点を置く再編を継続するプロセスのなかで、4年以内に黒字転換を実現する見通しをようやく示した。

2007年から2008年の危機の最中、英国において救済を必要とした金融機関はロイヤル・バンク・オブ・スコットランドだけでなく、HBOS、ノーザン・ロック、ブラッドフォード・アンド・ビングレーなど、多くの金融機関が困難に状態に陥っていた。ほとんどは救済されたり、売却されたり、国有化されなかった金融機関でさえ、金融システムの維持のために政府の特別支援に依存した。

しかし、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランドは特別だった。

この足かけ3世紀もの長きにわたって、営々と築いてきた小さな銀行が金融界の怪物となり、その約2兆ポンドにおよぶバランスシートは同行を世界最大の金融機関に成長させた。

その破綻の規模は、想像を超える莫大なものだった。

政府は452億ポンドの資本注入をし、さらにその崩壊を避けるために何10億ポンドもの信用を供与した。

ある専門家は、資本主義そのものへの信頼が揺らぐとまでいった。特定銀行のバブルがはじけたとき、約2兆ポンドのバランスシートを抱えるまで大きく膨らんでいた。金融ビッグバンとともに急激に台頭したロイヤル・バンク・オブ・スコットランドだったが、自分の銀行のビッグバンとともに株価は急落し、破綻してしまったのである。

しかし、倒産はさせられない。破綻の規模も大きいが、銀行も「大きすぎてつぶせない(too big to fail)」のである。影響があまりにも大きかったからだ。

ロイヤル・バンク・オブ・スコットランドの社長であったフレッド・グッドウィンは、無能ではなかったが、いまでは英国の金融危機の引き金を引いた愚かなバンカーの代表者になった。

――日本では、金融機関のトップは「頭取」であるが、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランドの傘下に保険事業なども抱えており、メガバンクの持ち株会社は、社長のような役まわりをするのである。

その事業拡大をはかろうとして、M&Aにより実現した事業を抱え、ナットウエストの買収事業や、没落の直接的なきっかけとなったABNアムロの買収というM&Aであった。それにくわえて、ガバナンスの失敗があげられており、それらが複雑に絡んでの破綻であったとされている。

「The Royal Bank of Scotland」――直訳すれば正式名称は「スコットランド王立銀行」となるだろうが、日本の出先機関では「ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド」といっている。

同行を去ったフレッド・グッドウィンは、社長であったとき、旧来の「給与」のイメージとはかけ離れた巨額にのぼる「報酬」を得ており、いままた受け取る年金も莫大で、現在エジンバラでふたりの息子と暮らすその暮らしぶりは、質素とは無縁のものといわれている。

「住む世界がちがうのですなあ、われわれとは」と、タケさんはいった。

つい先日、高橋琢磨氏の「戦略の経営学――日本を取り巻く環境変化への解」(ダイヤモンド社、2012年)という本を読み、漠然とした喫緊の感想を抱いた。

「英国は金融立国だ」とよくいわれている。

デリバティブのような商品にたいしても英国の監督当局はきわめて寛容で、それらのマーケットが急成長したことが深く関係していると専門家はいうけれど、シティ・オブ・ロンドンは、もとよりロンドン証券取引所やイングランド銀行、ロイズ本社などが置かれ、19世紀から現在までつづく主要な金融センターである。

ニューヨークのウォール街とともに世界経済を先導しており、ほかに、世界でも有数の商業の中心地としてビジネス上の重要な会合の開催地としても機能している。

大な闇の

 

 何かの間違いではないか、そう訊ねようとして、

 馬は、馬具につけた鈴をひと振りする。

 He gives his harness bell a shake

 To ask if there is some mistake.

 (ロバート・フロスト「雪の夜、森のそばに足をとめて」より

 

北海道の季節は、蕗(ふき)のとうが大きくなり、つくしも伸びたころのことだ。

ぼくは川に流れ着いた大きな流木を拾って、地面を擦りながら土手を歩いていた。川原の土手を歩いて帰ってくると、遠くでナターシャが手を振っている。

「ゆき坊、はやく、きて!」

なんだろう?

「はやく、きて!」といっている。ぼくは流木を土手に捨てて走って行った。

「父さんがケガした! これ持っていきなさい」といっている。救急箱だ。遣いの坊やがぴょこんとお辞儀をしている。

彼女のあわてぶりはいつものことだ。橋本のおじさんの納屋を新築していて、屋根からすべって落ちたといっている。落ちたところに刃のついたプラウがひっくり返っていて、その上に落ちたといっている。

橋本のおじさんの家にも救急箱ぐらいあるだろうに。

だが、橋本のおじさんはたばこを吸わない。吸わないので、たばこのきざみもない。きざみを傷口に振りかけて止血をする。だから父は「家に行ってこい」といったのだろう。

ぼくの馬は、元気だ。厩舎から顔を出して、足で地面を引っ搔いている。

ぼくはパドックで大急ぎで馬に鞍をのせ、腹おびをぎゅっと締めて、彼女の両手に片足を乗っけて馬の背にまたがる。やつは、もう街道に向かって首をまわし、首根っこを地面すれすれに降ろし、手綱をゆるめる仕草をした。ぽんと腹を蹴ると、やつは小走りに走った。

三谷街道の路面に夕日が落ちて、きらきらしていた。馬は眩(まばゆ)い夕日に向かって走った。やがて橋本のおじさんの家に着き、村のみんなが、心配顔でたむろしている庭先に救急箱を持っていった。

父は、プラウの刃先で膝を切っていた。

「病院へ行ったほうがいいぞ」という人の声が聞こえた。

「なーに、このくらい」といって、父はやせ我慢をいっている。見ると、肉がばっさり切られている。関節の上らしい。橋本のおばさんの手で、たばこのきざみで処置され、やがて肩ぐるまをして父は立ち上がった。

「歩けるか?」とだれかがきいた。

父は少し歩いたが、立ち止まった。

「大八車に乗せろ!」とだれかがいった。

「それじゃだめだ。馬車にしろ!」と、もうひとりがいった。タイヤをはいた馬車で、車輪が4つあるでっかい馬車だ。

父は「じゃ、乗ろうか!」といって立ち上がり、馬車のいちばんうしろにうしろ向きに座り、みんなに視線を送りながら夕日を受けて、足をぶらぶらさせた。

「このほうがラクだ」といっている。

「心配しなくていいからな。あとはまかせろ!」といって、顎(ひげ)を生やした年寄りがいった。その人が棟梁(とうりょう)なのかもしれない。そして父にさよならをいった。

納屋は、まだまだこれからだ。屋根はトタンでふいて、根太(ねだ)を張っただけで、壁も床もできていない。「3日後には当てにした助っ人がやってくるといっている。だから心配するな」、棟梁はそういっている。

村人たちのうち、三谷街道に沿った家からは、村の建前(たてまえ)にはみんな寄り集まり、みんなで建てる。知らん顔するやつなんかひとりもいない。西日がきれいな日だった。

 

       

 

父は、それから農作業を休んだ。

稲の温床の後始末を残したまま、仕事を母にゆずり、父は深川の病院へ入院した。

子守りのナターシャは、家事をそっちのけにして、幼い弟を背負って、父のめんどうをみた。父が帰ってきたのは3ヵ月ぐらいたってからだった。大腿部の骨が折れていたいっている。4月がすぎて5月になり、川の土手の林のなかで、クマゲラの巣を見つけると、父はそこに柵をめぐらし、小さな看板を立てた。そこにクマゲラの巣があって、「子育てをするので注意!」と書いた。

毎年、ブナの林にはクマゲラが巣をつくる。ロロロロッというクマゲラのドラミングの音が聞こえたら、みんな村人たちは、静かに通る。

それからぼくは学校で、クマゲラの話を先生から聞いた。先生はクマゲラのことを「かわいい軍人さん」といった。なぜなのか、ぼくは知らなかった。黒衣を着ているからだろうか。

ある日、ナターシャに

「かわいい軍人さーん」といったら、しかられた。

「子供のくせに、……。お兄ちゃんはなまいきよ!」といい、「わたしは軍人さんが大嫌いよ!」といっている。

彼女はサハリンからやってきた。軍人には、いいおもいをさせてもらえなかったようだ。だから、戦争の話も、軍人の話も、ナターシャは嫌っている。彼女は、そういうふるさとを捨ててきたのだ。

北海道もじきに夏になり、野原や農道には花がいっぱい咲いた。ぼくはナターシャの機嫌をとるつもりで、花を一輪とってきて、彼女のブルネットのヘアに差してみた。

「お姉ちゃんに似合うよ」といったら、

「ほんと? きれい?」ときいた。

花をいっぱいとってきて、お姉ちゃんのヘアに結んでみた。喋々がやってきた。

「こうすれば、蝶がとまってくれるかな?」といった。

「じゃあ、そうして」というので、ぼくはいい気になって花をいっぱいくっつけた。くっつけすぎたくらいだ。

「豊年だね」とぼくはいった。豊年のほんとうの意味も知らないくせに、大人ぶっていってみた。

「そうね、豊年だわね」とナターシャがいった。ぼくは世界のことは何も知らなかったが、それでも北海道はひろいぞ! とおもっていた。あちこちに、こんなに花が咲いてくれるんだから。

「そうよね。……」と彼女はいった。

「お姉ちゃんは、きれいだ」とぼくはいった。

「ほんと?」と彼女はいった。「ここにもう少しいたいわ」といい、お姉ちゃんは、原っぱに寝ころんだ。せっかく差した花が数本ころげ落ちた。夕焼けがきれいだった。遠くにいる馬が、首をこっちに向けた。

ぼくが目を覚ましたとき、巨大な恐竜みたいな尻があった。

ナターシャがそこにいた。エプロンの下から伸びた脚が、ぼくのすぐ目の前にあった。彼女のふくらはぎに小さな痣(あざ)がある。よーく見ると「!」みたいに見える。ふざけた形をしている。こいつは何だ?

洗濯物を干す物干し柱に寄りかかって、ぼくはうたた寝をしていた。

ニワトリがあちこちで何かいっている。洗面器のなかのしぼりたての濡れた衣服の上に、やつらは飛び乗った。

「あっちへ行きなさい!」といって、彼女はニワトリたちを追い払った。

そして濡れた衣服を手で払ったとき、しずくがぼくの顔にかかった。

ナターシャの、黒い靴下留めがぶら下がっている。夏の陽だまりは、パドックをうろうろする動物たちを楽しませる。めんどりが、両脚で地面を引っ掻かいている。引っ掻いた地面に、くちばしを突っ込み、何かを引っ張り出した。細長い、ヒモみたいなみみずが出てきた。

ナターシャは、物干し場をあとにして、めんどりたちの横を通り、納屋のなかに入っていった。しばらくして、「ゆき坊、どこにいるの?」と彼女は叫んだ。

ぼくは、薄暗い厩舎のなかで、馬の世話をしていた。彼女は、またぼくを呼んでいる。

「ゆき坊、どこにいるの?」

「ぼくなら、ここにいるよ!」

ナターシャが納屋から出てきて、前掛けのポケットから、お金を取り出した。

「これ、鍛冶屋のおじさんに支払ってきて」といった。馬の爪を切ってくれた、お礼の代金だった。ぼくは厩舎の耳門(くぐり)を出て、かんぬきを外した。馬は、その気になって、もう外に出ようとした。

厩舎の入口にある踏み台に足をかけ、背伸びをして、馬の背に鞍(くら)をつけた。それから、あぶみの高さを調節し、馬の腹帯をぎゅっと締めた。そのとき、馬は大きなおならをし、糞を落とした。

「じっとしてろよ!」

ぼくは、あぶみに片足を乗せると、身を勢いよく持ち上げた。馬の背にまたがると、手綱(たづな)を引き、馬の腹をぽんと蹴った。馬は静かに歩きはじめ、厩舎のひさしから出た。

ナターシャは、いった。

「おじさんに、よろしくいうのよ」

「わかった」

馬は、ごく自然に街道のほうに歩いていった。そのとき、後ろのほうで、ドボンという大きな音が聞こえた。

「たすけて! ……」というナターシャの声が聞こえた。が、どこにもナターシャの姿がない。馬をUターンさせて、パドックのほうに向きを変えると、川のほうから、人の手が見えた。ナターシャが川に落ちたらしい。パドックの外れに、小さな川が流れている。ナターシャは、そこでいつも洗濯していた。

「ゆき坊、たすけて……立てない」

彼女は川に落ちたとき、足首を捻挫して身動きできなくなっていた。あの、口やかましいナターシャが、驚いてぼくにしがみついてきた。着ていた衣服がずぶぬれになり、スカートがからだに吸いついていた。小学生だったぼくは、21歳のお姉さんを持ち上げ、川の淵(ふち)に渡した丸太の上に乗せた。

「痛い、ああ痛い。足が痛いわ……」とって、彼女はかがんだ。

足の小指の先から血が出ている。ぼくは、大急ぎで父の使っていたたばこ盆を持ってきて、ナターシャの足に、刻みたばこをぱらぱらっと振りかけ、包帯でぐるぐる巻きに巻いて、手当てをした。

「――ゆき坊は、じょうずだね」といって、褒めてくれた。ナターシャに褒められたのは、はじめてだった。

鍛冶屋でのことだ。そのときに外した蹄鉄(ていてつ)が、鞴(ふいご)の火に焼かれ、真っ赤になって、大きな金床(かなどこ)の上で、思いっきり叩かれるのだ。ぼくは、夏が終わらないうちに、乗馬がじょうずになりたいとおもっていた。

――ぼくは夢を見ていたらしい。ずいぶんむかしの話だ。

ぼくはときどき彼女の夢を見る。たいていは彼女に竹ぼうきで叩かれているような夢だった。こんなに強烈な夢は見たことがない。

ロシア人の彼女は、色が白く、背は父よりも大きかった。彼女はサハリンからの引揚者だ。父が彼女を雇ったのは、もうずいぶんむかしのことだ。ぼくが小学校にあがるころだった。母が病気でベッドに臥()せっていたので、家のいっさいの切り盛りはナターシャがやっていた。そのころの北海道は、いまよりもずっと大きかった。

父がふざけて動物たちのために、大きなパドックをつくった。ニワトリは3000羽ぐらいいたろうか。山羊も、豚も飼っていた。

隠れていて姿を見せないネズミたちもたくさんいただろう。彼らの遊び場は外玄関からつづく大きな広場だ。おとなしい大型犬が一頭いた。馬でどこかに出かけるとき、やつはついてきた。サハリン生まれの、足の速い大型犬のボルゾイだ。

サハリンからの引揚者は大勢いた。100万人もの引揚者が北海道に上陸し、いなかのあちこちの村に散っていった。ぼくの村にもやってきた。引揚者の連れ合いの多くはロシア人だった。

ナターシャもそのひとりで、母は日本人、父はロシア人だった。ロシア人はニシンの行商をして、村のあちこちを歩きまわっていた。大量に水揚げされたニシンは、獲()れすぎて田んぼの肥料にもなった。

ナターシャはどういうはずみか、父に雇われ、わが家に住みついた。彼女がわが家を去ったのは、ぼくが中学2年生の冬だった。それ以来、ぼくは彼女と会うことはなかった。母がペニシリンを打って、元気を取り戻したからだった。

ナターシャとは風呂にもいっしょに入っていた。

電気がなかったので、ほの暗いホヤつきランプの灯りの下で、からだを洗った。彼女はぼくの背中を洗ってくれた。そのときのぼくの記憶は、まるで湯気でかすんでいる。ナターシャのからだを見ているはずなのに、なんのイメージも湧いてこない。ぼくはまだ子供だったからだろう。ぼくは彼女とよくケンカをした。

「ゆき坊は、おにいちゃんなんだから、ひとりでできるでしょ!」とナターシャはいつもいった。彼女は弟たちのめんどうで、ぼくにかまっているゆとりさえなかったのだ。

いつも「ゆき坊は、おにいちゃんなんだから……」といった。

で、ぼくは癪(しゃく)にさわって、庭の木の上にのぼり、ズボンを脱いで、爆弾を落としたのだった。それを見つけた彼女は、えらいけんまくで怒り、竹ぼうきで、爆弾を落としたばかりのぼくのお尻を突いたのだ。

「ゆき坊! これは何ですか? 降りてらっしゃい!」

ぼくはまだ終わっていなかったけれど ナターシャの鳶色(とびいろ)のヘアをながめてからいった。

「かけすだって、空の上から糞をするじゃないの」

「あれは、鳥じゃありませんか。ゆき坊は鳥ですか?」

ぼくはいわなかったけれど 鳥になりたかったのだ。

そして、木の枝を伝って、飛び移ろうとしたとき、ぼくはすべって落下した。

そして一目散に逃げた。それでも彼女は竹ぼうきを振り上げて追いかけてきた。爆弾事件は、それから何回か起きた。そのたびに彼女は追いかけてきた。爆弾じゃなくて、おしっこを飛ばせばよかったかもしれないと、あとでおもった。そのときの記憶は、巨大な闇のアナに吸い込まれていき、その後60年間、想い出すこともなかった。

■ある青年に送る手紙。――

Oh Marie(マリー)

(ひとみ)閉じて、……4

 

この「無益」ということばで、ひとつ思い出すことがあります。

無益であることを知りながら、その労働をつづけられるものだろうか、ということです。――むかしロシアの刑罰に死刑よりも重い刑罰がありました。

死刑にしないかわりに、受刑者を生かしながら、死ぬまで労働させるという刑です。それはいいのですが、何をさせるかというと、砂山の砂を、何キロも離れたところへ運ばせます。彼は10年以上もかかって、砂山の砂を運び終えます。

すると、こんどはその砂山を、もとのところに戻すという労働を命じられます。

それを聞いた受刑者は、いままで自分がやってきた労働に何の価値もなかったことに思いいたります。

無益な労働であることに彼は打ちのめされ、たちまち気が狂って倒れ込んでしまいます。――人は狂います。労働に意味がなければ生きてはいけませんね。労働がまったく報われないからです。これほど悲しいことはないでしょう。

人間の、ひたぶるにはたらく意欲は、報われるものがあるからはたらけるわけです。報われるのは、けっして自分だけじゃない。多くの人びとが報われると思えば、ますます労働に意欲が出てきます。意欲があるのにはたらけない。そういうとき、人間はますますそのハードルを越えたいと思いはじめます。

からだが悪くてはたらけないのならば、からだを治そうとするでしょうし、それもダメならば、たとえば正岡子規ならば、病臥しながらでも世の中のために写生文芸という形式を考えるでしょう。

それが、わが国の近代俳句のスタートとなりました。なんの才能のない人でも、りっぱな人はゴマンといます。そういう人は、こころが健康です。かんぜんにクリアーです。それに輝いています。

――先日は、女流数学者コワレススカヤの「コワレススカヤ定理」や、ゲーデルの「不完全定理」、インドのラマルジャンの話などをしたと思います。

「コワレススカヤ定理」は、ある条件を加えれば将来が計算できるという定理です。それから、「ピュタゴラスの定理」をめぐって、永遠を計算する「フエルマーの最終定理」の話をしたと思います。

人類は、もう「永遠」を計算できるようになりました。

コンピュータでさえ計算できない数論を確立しました。これを「アンドリュー・ワイルズの定理」といいます。なんと22500年間の叡智の結集です。

しかし、それでも人間にはまだまだ分からないことのほうが、ずっと多いんです。それを「無知の知」というわけです。知らないということを知るわけです。たった17個の素粒子を発見するのに、80年もかかっています。

しかし世界はひろい。宇宙はもっとひろい。

ぼくらのいる地球は太陽系に位置し、太陽系宇宙は、銀河系宇宙の端っこにあるいわれます。太陽が銀河系宇宙をひとまわりするのに、光の速さで2億年もかかるといわれます。

地球から月まで、光速で1秒かかります。太陽までは8分かかります。

そのことから考えますと、2億光年というのは、とんでもない時間で、想像もできない巨大な宇宙といえます。――宇宙学者たちは、その2億光年という時間を「1宇宙年」としています。

この2億年を1年にたとえた学者がいます。

それによれば、地球上に原始的な生命があらわれたのが6年まえで、1年まえには恐竜が歩きまわっていたと書かれています。

最初の人間があらわれたのは、つい昨日のことになります。

人間が進化しておしゃべりするようになったのは、4時間まえ。文明を築いたのは1時間とすこしまえ。イエス・キリストが生まれたのは5分15秒ほどまえで、ナポレオンが退位したのは25秒まえ。日蓮が亡くなったのは1分50秒ほどまえということになりそうです。

ついさっき、日蓮さんがお庭を散歩されていた、そういってもいいでしょうね。

すると、視野をもたない現代人は、なんと狭いところで狭い考えに囚われているか、ということですね。

自分のことしか考えず、自分の視野しか信用しない。自分のいのちは、自分のものだと思ってしまう。形のある財産も自分のものならば、形のないものも自分の所有物にしたがります。

自分のものと思うので、それは自由になると思ってしまいます。

 いのちがなくなるとき、人は自由に意のままにならないので、悩んだり恐れたりします。そうじゃないでしょうか。所有物として自分に報われたくてはたらくのではなく、人びと(仏教では衆生といいます)のために報われるからはたらくわけです。

「お父さん、どうか生きていてください」という娘のために、フランクルはナチスのつくった収容所からの生還を果たしました。自分のためじゃないんです。彼は実存的精神医学を確立させた人で、「夜と霧」の作者です。実体のない恐怖感と絶望感で、いのちをなくしていくユダヤ人を見てきたフランクルは、人間のこころがいかに病めるものであるかを考えました。キルケゴールという人は「死にいたる病い」を書いた哲学者ですが、「死にいたる病い」とは、絶望のことであると書かれています。

でも、自分が死ぬことを知っていると述べた人もいます。ご存じのように「レ・パンセ」を書いたパスカルです。

で、有名な「考える葦」の文章には、こう綴られています。

日本人は「人間は考える葦である」と多くの人が記憶していると思いますが、ほんとうは違うんです。原文をまっすぐ訳せば、つぎのようになります。

 

 人間は一本の弱い葦にすぎない。

 自然のなかで一番弱いもの。だか、考える葦である。

 (そして、次がすごい!)

 これを押しつぶすには、全宇宙は何も武装する必要がない。

 一吹きの蒸気、一滴の水でもこれを殺すには充分である。

 しかし宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより

 尊いであろう。人間は自然が死ぬこと、宇宙が自分よりまさっ

 ていることを知っているからである。

 宇宙はそんなことは、何も知らない。

 だから、わたしたちの尊厳のすべては、考えることのうちにある。

 

これは「マタイによる福音書」12章21節の「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」から取ってきた「葦」のこととされています。

ブレーズ・パスカルは、人が死の直前に読むことのできる稀な作家のひとりといわれます。――そういったのは、J・シェヴァリエという人です。

親鸞にも通ずる他力本願の思想でしょうか。

「人間は考える葦である。……」などとはパスカルはいっていないのです。文意としては「人間は考える葦」といっているように聞こえますが、「自然のなかで一番弱いもの」といい、これは「傷ついた葦を折らず」の聖句の一解釈を示す文章となっています。

ですから、小林秀雄氏は、そのような洒落て読む日本人の、洒落にもならないフレーズを鵜呑みにする読解は、良薬にもならないといっています。彼の「様々なる衣裳」だったでしょうか。

三木清氏は、そのデビュー作「パスカルにおける人間の研究」のなかで、もっと詳しく、情熱的にのべています。

三木が29歳のとき、これをドイツで書いています。

岩波書店の岩波茂雄社主にその原稿を送り、彼のデビュー作となります。そして、岩波文庫の最後のページにある「読書子に寄す」という一文は、三木の筆によって書かれました。

ぼくは「三木清全集」(全20巻)を学生時代に苦労して買い求め、それで読みました。つまり、人間は考えることによって、自分の身の処し方を決断することができるけれど、動物は、そうはいかない。しかし、たいていの人間は、溺れそうになると、動物のように死ぬ。そういうことはわかっていても、虚しく懸命にもがく。もがいて、もがいて、もがき苦しみの果てに死んでいくだろう。

それはなぜだろうか? ――「人間は考える葦である」というけれど、「葦」になれずに「考える」こともせず、気晴らしに耽って一生を終えるからだというんです。

パスカルは、衆生を観想する哲学者でした。

自分が死ぬことを知る人でした。人が死ぬことを知る人でした。人間の死において、希望を綴っているわけです。こころ安らかに死ぬことを教えています。

つい、余計なことをながながと書いてしまいました。

科学もビジネスも、じつは人間研究なんだとぼくは思います。

ですから、ぼくは小説を書かずにはおれないんです。どんな人でも自分の物語をもっているものです。人は物語を語らずにはおれないんです。

息子が、ちょっとばかし元気をなくしているとき、あるいは、何かに迷っているとき、ちょっと何かいいたくなるものですが、そういう気持ちで、この手紙を綴りました。貴兄と会って、かつての自分に出会ったような気分になりました。――いつかまた、どこかでお会いしましょう。

……何か、聞こえてきますね。

 

 不生亦不滅 不常亦不断

 不一亦不異 不来亦不去

 能説是因縁 善滅諸戯論

 我稽首礼仏 諸説中第一

 

羅什訳を書きくだせば、つぎのようになります。

 

 生ずることなく滅することなく、常ならず断ならず、

 一ならず異ならず、来ることなく去ることなし。

 よくこの因縁を説き、善くもろもろの戯論を滅したる、

 説者中の第一人者たるブッダに我は稽首す。

 

 Oh Marie(マリー)瞳(ひとみ)閉じて 覚えているかい あのころを

 傷ついても

 おれを信じてくれた

 なけなしの愛で 夢を買ったよ

 おまえだけが ささえてくれた

 もう迷いはしないぜ いつまでもおまえだけを

 この腕ひろげて 守りたいのさ 抱きしめてあげよう

 Oh Marie Thank You for My Angel

 おまえに会えてよかったぜ

 やさしいこの人 すべて出会いのままさ

 たとえこの街 消えうせても

 心はひとつ 変わらぬふたり

■ある青年に送る手紙。――

Oh Marie(マリー)

(ひとみ)閉じて、……3


 

さて現在、世の中はどうでしょうか?

思想・文化・宗教の異なる民俗が反目し合ったまま、ヴィーナスの誕生が示唆するような融合合体というタントリズムの予兆は望めませんね。それでいて、ボーダーレス社会となっています。そのようななかにあって、ビジネス戦略をどのように取るべきか、たいへんむずかしい時代に直面しています。

ただ、いえることは、14世紀ヴェネツィアに起こったすばらしい歴史的な出来事があります。

ヴェネツィア1000年を刻んでいった、とてもすばらしい歴史的なテキストです。

彼らはわずか10万人の人口で、南北3キロ、東西1・5キロという小国にありながら、大国である神聖ローマ帝国も、ビザンチン帝国も、小国ヴェネツィアの経済には叶わなかったという厳然としたルネサンス史があるんです。彼らは銀行をつくり、手形を発行し、近代経済インフラの基礎づくりをもうすでにやっていたわけです。

ウマの鞍にはアブミをつけています。アブミはむかしの大月氏、――現在の東トルキスタン方面から手に入れたものです。つまり、ヴェネツィア商人は、そこまで旅をしていたという証拠ですね。そして中国からはコンパス(羅針盤)を手に入れ、晴れていようと雲っていようと針路を取って昼夜を分かたず、漕ぎすすむことができたというわけです。

そして彼らは、海洋国家として生きることを目指し、造船業に励みます。

といっても、造船技術の専門家はひとりもいませんでしたので、かんたんな方法を開発しました。土台をつくり、柱を建て、根太を張ってから船板を貼りつけていくというやり方です。家をつくるやり方ですね。それが近代造船技術の基礎となっていきます。

そうして地中海ではヴェネツィア船に叶うものがないという優れた船をつくり、やがて大西洋沿岸、黒海にまですすみ、膨大な交易量によって、世界最大の金融センターに成長していくわけです。押しも押されぬ地中海の覇者となる歴史的な教訓があります。

なぜ、21世紀の人びとは、そういうヴェネツィアを見ようとしないのか、ぼくにはふしぎです。いっぽうファッションも、いまはミラノ・ファッションに押されていますが、世界で最初にファッションを巻き起こしたのは、ヴェネツィアの女性たちでした。彼女たちは、ハイヒールというものを考案し、晩餐会のドレス、礼服の原型をつくりあげました。それがパリに飛び火し、ヨーロッパじゅうにひろがっていきます。

ヴェネツィアでは国をあげてファッションに取り組みました。交易でものをいうのは、商売上の晩餐会であったからです。

異国の人びとを大勢招き、晩餐に国をあげて招待するわけですから、イタリア語、ギリシャ語、スペイン語、フランス語、英語、中国語、アラビア語といった交易の相手国のことばを自由に使い、男も女も外国語が堪能で、宗教、言論はまことに自由で、あのダンテもマキャヴェッリも、わざわざヴェネツィアまでやってきて、そこで出版しています。そういう理想の国が、かつてあったというわけです。まさにビジネスの虎の巻か、字引みたいな歴史がそこにあります。

こうして世界をながめてみますと、いま、何をやらなければならないか、何を優先しなければならないか、自然と見えてくるのではないでしょうか。

かつての人びとが成し得た歴史に徴して検証してみることは、とても大事だと思うのです。中国のことばに、「男子3日会わざれば、剋目して待つべし」というのがあります。男子が3日も会わずにいると、お互いに変わっているので、剋目せよ、というわけです。変わるということは、成長するということです。本質的なものは変わらなくても、3日まえの自分は、もう別の自分になっており、それを別のいい方をすれば、別のものに「変換」されているということでしょう。例をあげます。

 

銀座にて

 

 2+3=5

 

という数式は、「2+3」は「5」とおなじ価値があるという意味で「~と等しい」という意味で「=」と置かれます。ともに等しい場合は、あいだに「=(イコール)」と置くわけですね。英語では、「~is equal to」と書きます。この「=」に、ぼくはたいへん魅せられます。

価値の中身を「=」を使っていろいろと変換できるからです。それは個であっても、群であってもいいと思います。

数学でいう「群」というのは、加法や乗法などの演算によってむすびつけられる要素の集合のことで、「群にふくまれる2つの要素を演算によってむすびつけた結果は、やはりその要素になる」という考えです。

 つまり、整数は加法について群をなすというわけです。これを考えたのは、18世紀フランスのガロアという青年です。つまり変換の発想なんです。人間だっておなじじゃないでしょうか。
 

人間の考えも気持ちも、日々変化し、きのうの自分はきょうの自分じゃない。運気だって変えられます。むずかしい数式でペンが止まってしまったとき、計算を容易にするために別の数字を加え、あとで引くというやり方がありますが、これを「虚数」といっていて、英語では「Imaginary number」といっています。

つまり、想像上の数字のことです。計算がしやすいように、計算の途中で別の数字、あるいは数式を加えるというやり方です。これを思いついたのは、オイラーという数学者です。

これも、人間の生き方を暗示させませんか? 

虚数は、イメージ上のたんなる映像です。ほんとうはないものです。

実体のない夢みたいなものです。

しかし、この実体がない夢みたいなもの、手でつかむことのできない空気みたいなものに、人間は強く支配されます。――ちょっと例をあげますと、ある日、青年は夢を見ます。夢のなかに女がたちあらわれて、夢心地のなかで青年は夢をつかの間楽しみます。さて目がさめると、「ああ、いまのは夢だったのか!」と思います。たんなる夢なのに、心も、からだもすっかり反応しています。それが好ましい反応ならば、「いい夢だったな……」と思います。怖い夢ならば、彼は汗びっしょりになり、うなされていたかもしれません。

心に思う幸せ、不幸せというのは、実体がありません。

「あなたは、3ヶ月以内に死ぬでしょう」と占師にいわれたとします。

あなたの余命は、残り3ヶ月ですと。

その人はいったいどう思うでしょうか。ふだん考えもしていなかった自分の死を感じ、死ぬ恐怖感に胸が押しつぶされるかもしれません。――この、ことばというのにも、実体がありません。そして2ヶ月が経過し、下腹になんだか痛みを感じ、胃の周辺がちくちくしてきます。いよいよおれは死ぬかもしれないと思います。愛車でも乗り回していたとしたら、その愛車をハンマーでぶち壊してしまうでしょう。

「なんていうことだ! おれはまだ死にたくない! この若さで、死んでたまるか」

そのうちに顔が青ざめ、下腹に異変を感じ、下痢がしたかも思うと、強烈な便秘を催し、その繰り返しを耐えていると、こんどは発熱して、ああ、おれは死ぬんだな、と思いはじめます。――ストレス性抑圧です。

こんなふうに、実体のないものに、人間の心は強烈な反応を起こし、人を病気にさせます。そして彼は死なないものの、死んだような虚脱状態に陥ります。生存レベルでいえば、レベルゼロ。

あんなに輝いていた青年は、数ヶ月で夜も眠れなくなって憔悴し、すっかり疲労困憊して、からだがふらふらしてきます。歩くのもやっとという状態になります。――生存レベルについては、1955年に発表されたロン・ハバードの著書「ダイアネティックス」という本のなかにくわしく書かれていることばです。

 病気のおよそ70パーセントは心因性の病いといわれます。無意識の心が大きな傷を受け、その記憶が原因となって発病するという病気です。

よくいわれることですが、「苦悩を乗り越えてこそ物事が成就する」ということば。

あれは恐らくウソです。

苦悩を苦悩と思わなくなる生存レベル、――自分の生存レベルを上げることによって成就するものこそ、最高です。

 ぼくは医者じゃありませんが、たいへん重い病いを患っているホステスさんを治してさしあげたことがあります。彼女は、39歳の、銀座のホステスさんですが、退行催眠というカウンセリングを受けなければ生きられない心因性の病いの持ち主でした。

この病気は、現代医学では治すことができません。

アレルゲンのないアトピー性皮膚炎を抑えるには、ステロイドを多量に服用してリバウンドを止めるしか方法がなく、治療法はまだ確立されていないのが現状です。もちろんクスリもありません。

彼女は、瞼の裏側までアレルギーでぼつぼつができてしまうという、たいへんなストレス性皮膚炎を発症していました。もちろん内臓の表面にまで発症していました。

さらに、女性にはめずらしいマロリンワイス症候群という奇病も併発し、こっちのほうは、胃腸が悪くないのにとつぜん吐血してしまうという病気です。しかも、女性の場合は妊婦にかぎって発症するケースがあり、そうでないケースは、ほとんど世界的にも例がなくて、現代の最先端医療でも治すことができないという病気です。

ぼくは、その話をはじめてうかがったとき、内臓粘膜や性器の内部の皮膚炎には、睡眠剤として悪名高い「サリドマイド」が効くので、それをすすめたことがありますが、彼女は、バルビツレート系の睡眠薬を常用していて、これがないと眠れないといいました。冷蔵庫やテレビ受像機の帯電性の機器の音を聞いただけで、もう眠れないといいます。

睡眠病という病気はありますが、その多くはアフリカトリパノソーマ症という病気で、これは、アフリカにいるツエツエバエに噛まれなければ発症しません。

これに噛まれると、鞭毛虫の幼虫が体内に侵入し、やがて血管に入り、脊髄脳膜炎となります。それがだんだんひどくなって傾眠、昏睡を繰り返し、睡眠病となりますが、彼女の場合は、そうではないらしいので、ぼくは注目していました。

睡眠薬というのは、中枢神経の機能を低下させることで睡眠状態にみちびくクスリです。別のいい方をすれば、人の心を薬物的に閉ざすやり方です。

これで気づいたことは、その発症の元である心因性の支配する心の病いをまずクリアーにして、正常にすることだと、ぼくは思いました。睡眠薬は、人間の心には決してよくありませんし、むしろからだには悪いと思います。

ぼくは、ダイアネティックス療法のオーディター(カウンセリング)の技術を持っています。

彼女のような心因性の重い病いは、現在、病院では治すことができないんです。彼女の病いの心因は、彼女自身の過去の体験のなかにありました。そのときの記憶が、彼女に病気をもたらしていたわけです。

体験から生まれたトラウマは、それを消す以外に方法がありません。ぼくは、それを消してさしあげました。大成功です。

皮膚炎が徐々に退行していき、瞼の裏も正常にもどり、吐血しなくなったといいます。まだ睡眠薬は服用しているという話ですが、じきに服用しなくなるでしょう。で、ぼくは彼女に、病気を克服するために仏教の教えを伝えました。

もしIさんの周辺に、医者が手を焼くような病気で悩んでいる人がもしいましたら、いつかお目にかかりたいと思います。

さっきもいいましたように、病気の70パーセントは心因性の病気で、このダイアネティックス療法をもちいれば、病気を70パーセントの確率で治すことができる、とその本には書かれています。ぼく自身、いま、悩みはまったくありません。まったくのクリアーで、健康で、自分の運気さえ変えることができました。

ぼくは会社を休業させ、苦しい思いをしましたが、そのときの運気を調べてみると最悪でした。ご存じのように、人間は12年をサイクルとして吉と凶がめぐってきます。これを避けることはだれにもできません。でも、最悪の時期に、悪い運気を受けないようにすることはできます。

仏教の、「宿曜経」というお経のなかにちゃんと書かれています。

仏教でいえば、「禅定(ぜんじょう)」です。

そして「三昧(ざんまい)」に入っているときは、たとえ腕を切り落とされても痛みはほとんど感じないでしょう。つまり、苦ではなくなります。反応心はピクリとも動かず、平常心でいられます。それはなぜでしょう。

まだまだ知らないこと、ふしぎなことが山ほどあります。仏教を知ることは、臨床医学を知ることでもあり、インド人の考えた知恵は、帰納法です。帰納的にものごとを観相(かんそう)することです。目に見える実体を実体とは見ないで、空(くう)と見ます。空こそ、心です。心が病むとき、病気になります。

実体がないのに、心がどきどきしたり、ときめいたりしませんか? さっきはその話を「夢」に例をとって話しました。いちばん空の支配を受けやすいのは、人の心だと思います。それを正常にもどしてあげると、病気が消えていきます。消えなくても改善されます。そこまでは現代医学ではわかっているのだけれど、治療法としては確立されていないわけです。ぼくはもういちど、「宿曜経」を勉強しなおし、人の運気とからだの反応について調べてみたくなります。