■文学――

優を抱きながら詩を書いた

原中也。1

 

先年、都内で絵画グループの集まりがあり、それに出席したおりのこと、ひさしぶりにビールを飲んで、いい気分になって、たちまち酩酊(めいてい)し、ビルの9階のトイレの窓から晴れた都会の空をながめると、妙な気分になった。

みんなのわいわいやっている話し声が、すーっと遠のいた。

ここから飛び降りたら、どんなに気分がいいだろう、とおもった。そうおもったのはほんの一瞬で、ぼくはトイレの壁に寄りかかって、ずるずると床に座り込んだらしい。

 

 《独りぼっちでいる時のあなたに

 ロマンチックな明かりをともす便所の電球みたいな、

 桂三枝です……》

 

という声が聴こえた。そして眠ったらしい。

 

 長谷川泰子

 

客人があらわれ、ぼくのからだを、ぐいっと持ち上げたので、「死にたくなるような天気ですなあ」といった。「何? 死にたくなるような?」

「……どうしてわかりましたか?」

「わかりますよ。《何処まで続くのでせう。この長い一本道は》」と彼はいったのだ。

「うん? 一本道だって?」トイレの小窓からは何も見えないのに、その人には見えたのだ。ああ、中原中也だ、中原中也だ。

 

 《悲しい人とは会いたくもない

 涙の言葉で濡れたくはない》

 (井上陽水「青空、ひとりきり」)

 

ぼくはトイレから戻り、会場のテーブル席につくと、100人くらいの、みんな陽気な顔を見つめた。100人はちょっと大げさだけれど、まあ、そのくらいに見えた。

そしてぼくの席までは、4キロもあるような心地になった。

今年、内閣総理大臣賞を受賞した彼女が、手まねきをしている。「ここよ」といっている。

さんざんいい気分になり、お開きになって、1階に降りると、会計をすませたはずの幹事さんが戻ってこない。だれかが電話した。

もう別の会場で待っているというのだ。

だが、そこは満席状態で、別の店に行くことになった。ぼくは彼女と何かおしゃべりしながら先頭きって歩いていた。

都会はひと、ひと、ひとでごった返していた。そして、つぎの店ではグループは二手に別れて席についた。喫煙席と禁煙席で、女たちは別の席に陣取った。高橋俊景画伯はヘビースモーカーで、ぼくの隣りに座った。そして、幹事さんの彼も座った。

幹事役のKさんは、とつぜん中原中也と長谷川泰子の話をした。ぼくの知る女優長谷川泰子の話だった。もちろん小林秀雄の話も出てきた。

ふたりの愛人としての長谷川泰子の存在は、詩人には特に大きな存在だった。そういう話だった。

それから数日たったきょう、ぼくは中原中也の詩と書簡集を読んだ。昭和2年12月ごろ、発信地は不明だが、河上徹太郎宛てに書かれた手紙を読んだ。

 

僕は僕の今年を――いゝえ、僕の従来を、謝りに君のところへもいかなくてはならないので、三十日午後ゐてくれたまへ。勿論神様に謝るのだが――その辺を、あゝ混同しなにけりゃ好いが。

人は旧約人として生れる。そして新約人として詩人であり得たのはヴェルレーヌきりだつた。そのことが僕にもどうやら体得出来さうだ。――ありがたい――(文化史学が、前者を観念上で東洋的といひ、後者を観念上で欧羅巴(ヨーロッパ)的といってゐるのさ)。

借金支払はもう一月おくらせてもらふ。

 

ぼくは、中原中也の手紙の文章のなかに、「借金」ということばがでてきたことに、目を丸くしている。中原中也は飲むと気性がはげしくなる。彼になぐられた文人はけっこういる。

けっこういるのだが、中原中也のことを恨む人はいない。

彼は藤村のようにお金に困っているふうなところのない詩人だった。

昭和12年、中原中也は亡くなる。結核性脳膜炎だった。

亡くなって、実業家の中垣といっしょに葬儀に出た長谷川泰子は、錚々たる会葬者に出会う。みんなかつての文学仲間である。出棺のとき、泰子は大声をあげて泣き崩れる。――かつての詩人の《愛人》だった女として見られることに、泰子はまるで抵抗を感じなかった。中原中也の《愛人》と呼ばれることに誇りを感じていた。泰子の人生のなかで、この人の占める大きさを思うと、泣けてくる。

 

 せめて死の時には、

 あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでせうか。

 その時は白粉(おしろい)をつけてゐてはいや、

 その時は白粉をつけてゐてはいや。

 ただ静かにその胸を披いて、

 私の眼に輻射してゐて下さい。

 何にも考へてくれてはいや、

 たとへ私のために考へてくれるのでもいや。

 ただはららかにはららかに涙を含み、

 あたたかく息づいてゐて下さい。

 ――もしも涙がながれてきたら、

  (中原中也「盲目の秋」より)

 

中原中也の告別式が終わって、鎌倉の駅前の牛丼屋で、小林秀雄と幾人かの仲間たちといっしょにお酒を酌み交わした。

終わってみれば、中原中也のいうように、「しらじらと雨に洗はれ」た気分で、みんなゆるせるような気持ちがしてきた。

目の前にいる小林秀雄も、元気をなくしたような青い顔をしている。

「おまえさんが死んだら、ここにいる連中ぐらいは葬式に集まるだろうよ」と、そばにいた青山二郎がぽつりという。

「中原の葬儀に出た連中じゃないよ。ここにいるわれわれだけだよ」といいなおす。

泰子はきゅうに嬉しくなって、小林のそばにいき、お酌をした。小林は無言で受ける。

小林秀雄は、稀代の批評家であるが、この中原中也のことについては、ごくわずか書いていているが、長谷川泰子についてはまったく何も書いていない。

小林は葬儀の席上で、中原中也の書いた詩「在りし日の歌」を朗読した。これは中原中也が死ぬ前に、小林に託した詩の原稿で、まるで遺言みたいな詩だった。

 

 ではみなさん、

 喜び過ぎず悲しみ過ぎず、

 テムポ正しく、握手をしませう。

 (中原中也「春日狂想」より

中原中也という詩人の詩を考えると、いつもそこには長谷川泰子という女優の姿がおもい浮かんでくる。富永太郎の死後、「山繭」の1926年11月号に、中也は「夭折した富永」という文章を書いている。彼を追悼する文章である。そのなかのおしまいに、こう書かれている。

「……大変贅沢をいつても好いなら、富永にはもつと、想像を促す良心、実生活への愛があつてもよかつたと思ふ」と。

そして、その文章のなかに突如として「姉」が出てくる。その部分を引用すると、

「……彼をただ友人とのみ考へるなら、余りに肉親的な彼の温柔性に辟易しなければならない破目になるだらう。さしづめ、彼は教養ある「姉さん」なのだが、しかしそれにしては、ほんの少しながら物質的味の混った、自我がのぞくのが邪魔になる。」

ここでいう「教養ある《姉さん》」という考えは、富永太郎の本質をえぐっているなとぼくはおもう。中也から見れば、そうなのだ。そのようにしてしまったものは、何だろうとおもう。

ふたたび長谷川泰子のイメージがつきまとう。

彼女こそ、中也にとっての「姉さん」なのだから。泰子と別れてからも、中也は彼女のことを忘れなかった。中也の詩を吟味すると、いつもそこに泰子が描かれているではないかと。

 

 そなたの胸は海のやう

 おほらかにこそうちあぐる。

 (「みちこ」

 

 彼女が頭かしげると

 彼女の耳朶(みみのは) 陽に透きました。

 (「羊の歌」

 

 またひとしきり 午前の雨が

 菖蒲(しゃうぶ)のいろの みどりいろ

 眼(まなこ)うるめる 面長き女(ひと

 たちあらはれて 消えてゆく

 (「六月の雨」

 

 いかに泰子(やすこ)、いまこそは

 しずかに一緒に、おりましょう。

 遠くの空を、飛ぶ鳥も

 いたいけな情(なさ)け、みちてます。

 

 いかに泰子、いまこそは

 暮るる籬(まがき)や群青の

 空もしずかに流るころ。

 (「時こそ今は……」

 

中也は、このように泰子を描いている。ここにはエロチックなシーンはない。

そういうシーンはないけれど、ぼくには、中也が我慢できなくなって、小林秀雄の家に行き、その家の前庭で寝転がって泰子を抱いたときのシーンと重なるのだ。泰子は妊娠をおそれたため、中也は泰子の腹の上に出した。

ぼくにもそういう物語がある。8歳年上の子守りのお姉さんを、雨の降る納屋で、興味本位で抱きついていったときのことだった。ぼくは12歳。

ぼくは、ませていたのだろうか? 

彼女はゆるしてくれて、そのうちに彼女は動かなくなった。しかし、ぼくはそれ以上何もすることができなかった。どうしていいか、わからなかったからだ。

そういう体験を呼び起こしてくれるのは、中也の詩だけだ。

 

高校生になって、ぼくは中也の詩を少し読んだ。

そのときはわからなかったけれど、それからふたたび読んだとき、無性に切なくなった。ぼくの性欲はだんだん旺盛になり、大人になることを恐れた。そして中学生になり、ぼくはお姉さんと別れるとき、詩を書いた。

その詩を、いとこの女の子に見られて、ぶんどり合いをしたとき、急に彼女を好きになった。彼女の胸はセーターのなかで、大きく揺れていた。

それからぼくが大学生になったころ、帰省した北海道のいなかの山で、べつの女性と出会った。そのころは中也の詩を忘れていた。

将来の伴侶は、この人と決めた。

それから大学を卒業した夏、ぼくらは結婚した。そして、50年が過ぎた。40年が過ぎたころ、ふたたびぼくは、子守りのお姉さんのことを想い出した。そして小説を書きはじめた。

偶然のことだが、ある日、図書館で、吉本隆明の評論集を読んでいたら、中原中也の話が出てきた。吉本隆明監修の「日本近代文学の名作」(毎日新聞社、20021年)と題された本で、夏目漱石から二葉亭四迷まで24名の作家たちの話が書かれている。

ぼくは藤村のことをしらべる過程で、その時代の周辺を描いた本をよく読んでいる。

中原中也について、以前も何か書いたことがある。

ぼくがランボーの詩を読んでいたときだった。小林秀雄や大岡昇平、河上徹太郎らの本を読んでいると、中原中也の話がよく出てきた。心身の疲労が極地に達したころ、中原中也は、「在りし日の歌」の原稿を小林秀雄に託して、帰郷した。そして間もなく亡くなった。中也は30歳だった。

この最後の作品は、ぼくのこころにいまでも残った。

この詩集が世に出たのは、翌年の1938年だった。中原中也は、2冊の詩集しか残していない。

その後いろいろな詩集が刊行され、多くの読者を持つにいたったが、藤村や、朔太郎とは違って、近代詩史のどこにも居場所を失ったようなあつかいを受けた。

中原中也をまっとうな形で復権させたのは大岡昇平だった。むかしの高校のテキストには、けっして扱われたことのない詩人である。日本の近代詩史のなかでも、ずっと特別扱いされてきた。

ぼくは、どうしてなのだろうとおもった。

いうまでもなく、中原中也の詩は、それまでの日本の詩人たちの詩とはいっぷう変わっていて、どんな系譜にも当てはまらない。中原中也や富永太郎は、フランス詩の影響を直接受けていて、日本では異端とされてきた。とても個性の強い詩である。

中原中也は詩以外に、ほとんど何も興味を示さなかった。

少年のころから大学ノートに詩を書いていて、その詩はおそろしくニヒリズムの匂いをただよわせ、暮らしの倦怠感というもののなかに発見した独特の感覚で詩を書いている。そうかといって、最初からニヒリズムを前面に出して気をてらうことはしていない。ほんとうは、中原中也はナイーブな人だったといえる。

まだ中学生だった中原中也を支えたのは、年上の女優だった。

そのことが、彼の詩に深く影響をおよぼしていると、ぼくは思っている。もしも女優長谷川泰子が、後年何も書かなければ、中原中也のほんとうの姿は分からなかったろうと思う。

少年は、彼女の愛を感じて大きく成長した。だから、いっぱしの詩人になっても、泰子へのあこがれが詩文にそっと現れた。

少年の甘えから、だんだんあこがれへと変化していく過程で、ふと、ふるさとのことを思い出す。中原中也の本質的なものは、虚無感と抒情性をないまぜにしたナイーブな素顔、とでもいえるような詩が多い。中原中也の詩のなかで、最も多く読まれた詩は、「汚れちまつた悲しみに……」だろう。

 

 汚れちまつた悲しみに

 今日も小雪の降りかかる

 汚れちまつた悲しみに

 今日も風さへ吹きすぎる

 (中原中也「汚れちまつた悲しみに……」

 

七・五調の詩のおもむくところは、どうも古めかしいというイメージがある。

しかし彼は、無造作に、ひょうひょうとしてこのような詩を平気で書く。だれの影響のものでもなく、平易なことばで書いている。それが、中原中也の詩だ。

 

 月夜の晩に、ボタンが一つ

 波打ち際に、落ちてゐる。

 それを拾って、役立てようと

 僕は思つたわけでもないが

 月に向かつてそれは抛(はふ)れず

 波に向かつてそれは抛れず

 僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

 (中原中也「月夜の浜辺」

 

この詩を発表したのは、中原中也が、2歳の愛児を小児結核で失い、悲嘆のあまり精神の均衡をなくしていたときだった。

詩人中原中也は、山口中学の生徒だったとき、長谷川泰子という3つ年上の女優と同棲した。――ここが無類におもしろい。さすがは詩人だなあとおもう。どういういきさつで同棲するようになったかは、長谷川泰子の証言がある。「ゆきてかへらぬ中原中也との愛」という本である。

これは、長谷川泰子の聞き書きによってできた最初の本で、その後彼女は、3冊の本を出している。1冊は「阿佐ヶ谷界隈」、「四谷花園アパート」、そして最後に書いたのは「中原中也の詩と生涯」で、これは1973年に出版された。長谷川泰子は、底抜けに無邪気な女性だった。