邦人」と「の女」をめぐる論考

 

カミュ「異邦人」(新潮文庫)

 

 

雨と汗が、足元の床を流れた。そんな感じである。

雨けむる銀座通りの都電のようすを見ながら、ぼくは珈琲店ラ・ボエームで「異邦人」を読む。ときどき目のまえの都電のプラットフォームに居並ぶ女性たちの白い脚を見つめていた。雨は容赦なく降りそそぐ。

そのころの銀座のたそがれは日本一美しかった。

1962年、ぼくは、大学では文芸評論家中村光夫の講義を受け、漫然と19世紀パリを描いた文学にうつつを抜かしていた。中村光夫は、大学では木庭一郎を名乗った。

茫洋とした顔つきの木庭教授は長身で、50歳くらいだった。大学ではモーパッサンを教えていた。

雄弁部の、モーパッサンを読んでいたある先輩がやってきて、じぶんに語った。

「おれは来年、留学する。きみも考えたらどうだ!」と。

「どこに留学するんですか?」ときいた。

「もちろんパリだよ。渡航の自由化がはじまったんだ。こんな辛気臭いところでぐだぐだやってても、世界はわからない! 木庭教授のいうとおりさ!」

そういって、じぶんの肩をぽんとたたいて笑みを浮かべた。その顔がぼくは忘れられない。

――モーパッサンかあ、……と、ぼくはおもった。じぶんはすでにモーパッサンを読んでいた。そしてフローベルを読み、ユゴーを読み、カミュの「異邦人」を読んでいるところだった。だが、「異邦人」は何度読んでも理解することができなかった。じぶんの頭では理解できないかもしれないと少し考えた。

 

東京・上野は雨――

 

この小説は、1942年に生まれた。昭和17年だ。――つまりじぶんが生まれた年なのだ。

格別な因縁を考えたわけではなかったが、じぶんとの奇妙なむすびつきをずっと考えていた。

「異邦人」の邦訳がはじめて「新潮」に掲載されたのは1951年6月号だった。広津和郎が「カミュの異邦人」を東京新聞に寄せ、この作品は「色々神経にひっかかるものがある」として、疑問を呈した。中村光夫が、「広津氏の《異邦人》について」と題して、これに反対の意見を載せた。

それ以来、多くの人を巻き込んで「異邦人論争」がはじまった。

そのカギになったキーワードは、小説に描かれる「母」と「太陽」だった。中村光夫はこうのべた。

 

「ムルソーはマリイとの恋愛が偶然であり、殺人が偶然であることを知っています。それらのことは実際におこらなくてもすんだのです。しかし同時に彼はこのおこらなくてもすんだことをおこったことにしてしまう一点に、生の孕んだ偶然と可能性とを必然の鉄鎖に変ずる一瞬に、人間の行為の恐ろしい本質があることを知っています」(中村光夫「カミュの《異邦人》について」

 

裁判の証言台に立った主人公のムルソーは、アラブ人に向けて5発の銃弾を浴びせたのは、太陽のせいだったと証言した。そのことをめぐる「異邦人論争」だった。

これは果たして「文学なのか?」という問いかけからはじまったのだった。

 

 

映画「砂の女」より

先日は貴重な「瞑想」についての原稿を送ってくださり、ありがとうございます。

先日、お礼のメールを送りましたが、届いていなかったようです。

きょうは雨。――春先の驟雨をながめておりますと、いまは亡き武満徹の《秋庭歌一具》(1979年)という曲を想い出します。タイトルには「秋」があり、「庭」があり、「歌」がありますとおり、これを英訳して「In an Autumn Garden」と訳されていていますが、「歌」にあたる語がはぶかれています。

これは、武満徹のこだわりの雅楽で、20年ほどまえ、ぼくが北海道におりましたとき、高校時代の恩師の訃報に接し、逝く秋の雨の音を聴きつつ、この曲を聴いたものです。

さていっぽう、おなじ1951年、安部公房は、「壁――S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞した。これはシュールリアリズム風の短編で、いわばルポルタージュ文学といっていいだろう。ジュラルミンのような、スティール写真のような、無機質な風景が描かれる。

ぼくは若いころ、カフカ的な「意外」な手法には、少なからず好感を持ったが、1962年の「砂の女」を読むまでは、こういう小説もあるのだなあと思ったくらいで、特別な感興を持たなかった。もちろん「砂の女」は完成度の高い作品で、ダニエル・ディフォーの「ロービンソン・クルーソー」やカフカの「城」を彷彿させる作品である。

巧妙な社会風刺や、虚無的なまでの哄笑、日常性と非日常性の割れ目に生きる悲しいまでのユーモアといった、これまでの文学にほとんど登場しなかった、生理的な不快感と驚くべき感覚に満ちた人間の「性」といったものに、強い関心を持たざるを得なくなる小説だ。

「砂の女」は、いうまでもなく、ガウスの誤差曲線に沿って分布し、乱流によって自由に移動する直径1/8㎜という砂粒を補助線にした、宇宙全体に発展する、あれこれと暗喩に満ちた小説のようだ。ハンショー属の昆虫を採集するために砂丘にやってきた教員が、砂の穴の底にいるひとりの女が住む「家」に泊まりこむ。

縄ハシゴが引き上げられ、砂の傾斜はとても脱出は不可能で、男はアリ地獄にとらえられたようになる。

砂粒は食卓のうえにも雨のように降り注ぎ、肌につくと皮膚をただれさせ、家じゅうを湿らせる。握って形をつくっても、指のあいだからさらさらと流れ落ちる砂。サンド・バッグにすると鉄よりも強い。このふしぎな砂の性質のなかで、男はしだいに女との生活に順応していく。そして、見知らぬ女との共同生活が、腹立たしくも、愉快にもなってくる。

「砂の女」は、夫婦とは何か、自由とは何か、幸福とは何かを考えさせてくれる傑作? まあ、そんなふうにぼくは考えた。――

ある海辺の部落の大きな砂のアナに閉じ込められた男が、そこに住んでいる女から逃げられなくなる。砂はどんどん崩れてくる。その砂を掻き揚げる仕事をつづけ、家を守ろうともがく。

女もこの無限の労働に参加する。

毎日毎日が無限の労働に費やしながら生きるほかはないのだ。アリ地獄に落ちたアリのようなもの。男は罠にかかったかとおもう。労働という罠である。ウスバカゲロウの幼虫がアナの底に棲んでいて、落ちてきたアリを餌食にする。

しかし、砂を掻き挙げる仕事は、生きる上では有益な仕事であろう。

むかしロシアの刑法には、死刑の上に極刑があった。それは死ぬまで、意味もない無益な仕事をさせることだった。大きな砂山を、別のところに運ばせる。30年かけて運びおわると、こんどは、もとの場所に運ばせる。労働の意味を与えないのである。受刑者は気が狂う。

それとは違うが、おなじじゃないかと、おもってしまう。

 

――そういう物語だとおもってしまうのは、ほんとうの読み方ではないだろう。

これは安倍公房の「失踪物語」のひとつである。

ほかにもある。「他人の顔」、「燃えつきた地図」がそうだ。この3作は「失踪三部作」と呼ばれ、ぼくもマネをして何か書いたことがある。

けっきょく、安倍公房の作品を通して訴えている彼自身の問いを、どう読んだらいいかを考えることだろうと考えた。ぼくにはこうも読める。

都会と部落の対比をあげれば、日本の法律のもとで暮らしてきた都会派の男が、ある日、村の砂のアナのなかに落とされ、これまでの法律もおよばない、はるか遮断された世界で、世間との関係も完全に遮断されて、その世界の住人となる。

文明社会の象徴でもあるコンクリートの取り巻く世界から、その素材である「砂」の世界へと落とされたのだ。砂を利用して文明の壁を営々と築いてきた人間社会から、砂のワナにかかったわけである。砂の復讐とも読めて、これまでの男のアイデンティティが180度ひっくり返える。彼が、7年間継続して生死が不明であれば、ふつう失踪と見なされ、戸籍法によって当人の死亡宣告がおこなわれる。

彼は生きているのに、戸籍上は抹消されるのである。彼は死んで、男=仁木順平の人格は掻き消され、名前もないひとりの男として生きるしかなくなる。砂のアナでは、名前などどうでもよい。この世界には戸籍もない。

ふだんの日常生活からの「逃亡」というとらえ方である。男=仁木順平は、砂のアナからの逃亡を企てる。しかし、しまいには、平地にいてさえも、もともとじぶんが逃亡者であったことにおもいいたり、これまでの日常からの逃亡者であったことを追認する。そして、彼は、砂のアナでの環境に少しずつ馴染んでいき、じぶんを適応させようとする。この世界も悪くないぞ! この世界を利用しようと考える。

そのうちに、小説を読んでいくと、「彼」とか「仁木順平」ではなく、「おれ」という一人称で語られる。これはたんなる小説的な技巧うんぬんではない。過去を語るときは三人称を用い、現在時制で語るときは「おれ」と書かれているからだ。主体の不統一は、何を意味しているのだろうか。

ある人は、これは「砂の女」と題された報告書だという。

もしも報告書ならば、話は早い。カフカの小説をおもい出してください。カフカの小説は報告書のように描かれているではないか。会話があっても、ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」でも、おなじことがいえそうだ。

この「カラマーゾフの兄弟」の冒頭に、作者であるドストエフスキー自身がいきなり登場し、これから語られる物語は、「13年前」の話であると、わざわざ断っている。13年前の物語と、現在の物語の2つを書こうとしていた。

しかし、じっさいには、13年前の物語を書き終わった時点で、作者は死んでしまったので、現在時制の「カラマーゾフの兄弟」は、ついに書かれなかった。――そういう小説なのだ。多くの読者は、書かれなかった物語はいったいどんなものか、いろいろと想像したくなる。――「カラマーゾフの兄弟」もまた報告書なのだろうか、と考えたくなる。

ぼくは、主人公の仁木順平の話に固執しすぎたかもしれない。なぜなら、この小説は、仁木順平の目と感覚と、あらゆる器官を通して描かれているからである。

しかしタイトルは「砂の女」なのだ。女を描こうとしている。ただの女じゃない。彼にとって不気味な女だ。それでいて、おなじアナのなかで自分の性欲とも向き合わなければならない相手である。

 

ズボンといっしょに、一とつまみほどの砂が、指のつけ根をくぐって、内股に流れおちる……ゆっくりと、しかし確実な充実が、断水しかけた水道管のような音をたてて、再び指をみたしはじめる。……帽子なしに方向をさした指……翼をひろげ、すでに裸になっている女の後ろに、融けこんだ。

安部公房「砂の女」

 

――こう書かれている。

なんという節度のある描写だろうかとおもう。

ここでいう「指」とはペニスのことだろう。「帽子」というのはコンドームのことだろう。

「帽子なし」というのだから、コンドームなしという意味。「帽子なしに方向をさした指」と書かれている。メタファーの余韻がきいている。おまけに裸になって「翼をひろげ」た女といっている。そのように読まない人も圧倒的に多いだろう。

 

田中幸光 越谷にて。

 

それよりも重要なのは、この「不気味さ」だろう。

この不気味さは、この砂、もしくは砂のようなものと通じ合うのである。砂のようなものとは、そこで向き合う「女」のことだろう。

「かまいやしないじゃないですか、そんな、他人のことなんか、どうだって!」と女はいう。アナを見下す村人たち。――窃視はいまはじまったわけではなく、監視もむかしからある。村から離れた砂のアナさえ、いわば監視つきの世界なのだ。世間と変わりない。そういう砂のアナ暮らしから逃げられないし、いまさら逃げようともしない。その覚悟と一種安堵な気のゆるみが、仁木順平を女との性交へと駆り立てるというのである。希望のない衝動。しかし、物語の最終章では、仁木順平は人間らしい落ちつきを取り戻すのである。

「異邦人」、そして「砂の女」。――この2作はこれまで読んできたフィクションのなかで、いまも謎めいてぼくのまえに聳立(しょうりつ)している。