とば」は痛をおこしてまれる?

 

 

颯太くん(右)と仲間たち。

 

 

先年、ぼくの住むおなじマンション「ラ・メゾン・ブランシュ(白い館 La Maison Blanche)」に住んでいた坊や、――内田颯太くんが、妹さんたちといっしょに遊びにやってきた。そのとき、彼は小学5年生。パソコンのパワーポイントを使って、いろいろと写真や自分で書いた絵を貼りつけて、オリジナルなアルバムをつくることを教えた。

「おじさん、おもしろいね」といって、彼は自分の写真アルバムに文字も書いた。漢字で名前も入れ、その文字を色つきにした。

そして、自分の写真の胸のあたりにスクロールして貼りつけた。

「はははははっ」といって笑っている。

「でも、漢字ってむずかしい」といっている。それからぼくは漢字の生い立ちについて少し話した。みんなはまじめに聴いてくれた。

杜甫は、李白とならんで中国の詩人の最高峰とされているが、彼はなんど受けても科挙の試験に合格せず、出世もせず、その生涯は不遇で、漂泊の詩人だったと伝えられている。

しかし杜甫は、漢代以来の名門の出であり、祖父は宮廷詩人として鳴らした人だ。このような名門の出でありながら試験に及第せず、就職もうまくいかず、不遇の生涯を送らざるを得なかったのはなぜなのだろう。

後世いわれるところによれば、自分の才を恃(たの)み、生意気で、人に頭を下げることができない男であったといわれている。しかしぼくには、そんな男にはおもえない。

それよりも、祖父が宮廷詩人であったとき、宮廷で起こった殺人事件に連座して、ヴェトナムに流された。それ以来、杜甫を見ると、世間の心ない人びとは「あいつは、杜審言の孫だよ」という指弾を浴びせ、彼に冷たい視線を投げたといわれている。それが、杜甫の一生を引きずった負い目だったようにぼくには見える。

むかし、中国には科挙(かきょ)という、とてもむずかしい官吏登用試験があった。

唐の時代、荊州というところでは、長年、合格者が出なかった。それで人びとは、この地を天荒、つまり荒れた未開の地といって嘆いたのだそうだ。やがて、やっと劉蛻(りゅうせい)という人が合格し、「天荒を破った」といって喜んだという。

低迷を打ち破ったヒーローというわけ。

たんに常識破りの行動をするというのではなく、今までだれもできなかったことを成し遂げることを「破天荒」というわけだ。人は、何をやってもうまくいかないときや、落ち込むときがあるけれど、ヒーローは、そんなときにこそチャンスだとおもうのだそうだ。

これが、のちに「破天荒な振る舞い」といわれるようになったというお話である。じっさいに使っているのに、ほんとうの意味が分からなかったり、意味が分かっても、どういうときに使うことばなのか、分からなかったりする。

「ことばが誕生していく物語を知ると、うんと分かるようになるよ」と颯太くんにいった。

日本は、そういう中国で生まれたことばを大量に取り入れた。

呉の時代、漢の時代、唐の時代、宋の時代を問わず、ことばができるというのは、ははーん、こういうことなのかと、いつの間にか分かってくるもののようだ。そのひとつに「破天荒」ということばがあったのである。

また、中国から取り入れたことばのなかに、「不束(ふつつか)」ということばがある。この漢字は当て字で、ほんとうは「太束(ふとつか)」という。これは稲を太く束ねたもので、じょうぶでしっかりしているという意味だったそうだ。

それが、平安時代になると、繊細なことが好まれるようになり、太いことは無骨で、風流でないと思われるようになって、時代を経るにつれて、外見がみっともないとか、心が行きとどかないとかいう意味まで加わってきた。

現在では、謙遜に使われることが多いけれども、もともとは、太くて、たくさん子供が産めるじょうぶな女性を指す褒めことばとして使われていた。いつの間にか、太くて無骨な女性を指すことばになったのである。

「ふつつかものですが、どうぞよろしく」などという。

 

ことばって、おもしろい!

ことばってルネサンス!

 

ひとつのことばができあがる裏には、おもってもいないおもしろい物語が生まれている。その物語を知ると、ほんとうの意味が分かってくる。そういうふうに覚えた物語は、けっして忘れないだろう。とどのつまりは、ことばの物語を知るというわけである。

――ところで、この「とどのつまり」というのは、どういう意味なのだろう。辞典を引くと、鯔(ぼら)の出世魚と出ている。

鯔は成長するにしたがい、名前が変わる。

鯔は、幼魚のときはオボコといい、そのつぎはイナといい、そのつぎはボラといい、最後にトドとなる。トドのつぎはない。トドは成魚につけられる名前で、トドになれば名前はもう変わらないので、「とどのつまりは、破談になる」などといい、思わしくない結果をいう場合にだけ使われる。

「いろいろありましたが、とどのつまりは、彼女と結婚することができました」とはいわない。

日本語はとてもむずかしい。

この種の物語はゴマンとあるけれども、ぜんぶ覚えようとすると、人生が終わってしまいそうだ。

「経済」ということばだって、むかしは「経国済民(民を救って国を助けるという意味)」といっていた。べつに「経世済民」とも書く。途中の文字を抜かして「経済」としたわけである。「経済」という語は、日本人がつくった。こんなことを知っても、どうにもならないけれど、「もっと、意味のあることばを覚えるといいよ」と颯太くんにはいった。

外国語の例では、もっとある。

英語の「子宮」は、ラテン語の「空っぽ」が語源だ。たいていの子宮は空っぽ状態のほうが多いからだろうか?

ラテン語の「空っぽ」が、ラテン語でも「子宮」を意味するようになったなんて、ちょっとおかしい感じがするけれども、ともあれ、そのまま英語になった。この子宮という意味の「womb」は、本来は医学用語で、「胎内」という漠然とした意味だけだった。

のちに「子宮」も意味するようになったまでの話で、まだ生まれない生命の宿すところという意味。何か分からないものがまだ生まれないというので、英語では「 in the womb of time海のものとも山のものとも分からぬ)などという表現がある。生まれてみなければ分からない、そういうときに使われるようになった。外国語のほうがずっとおもしろい。

中国語の「妊娠」の「妊」という字。――この字の旁(つくり)の「壬」は、もともとは糸車の糸のことで、紡いだばかりの糸が、だんだん大きく束になって、ちょうどお腹が膨らんでくるみたいに真ん中がぽこんと出っ張ってくる状態から、女偏に壬と書いて、子を孕む状態を指すようになったといわれている。

ぼくが、こうして漢字を覚えたのは、中学3年生のときからだった。

父から譲り受けた漢和辞典を読んでいて、偶然発見した字である。それ以来、漢和辞典を読むのが好きになった。

中国語でいう「一歩」というのは、歩いて左右の足が地面についた幅をいう。左足だけだと「半歩」。左右の足が踏み出す動作を合わせて一歩という。日本でもおなじである。

「一歩間違うとえらいことになる!」というときの「一歩」は、じっさいは半歩のことのようだ。国語辞典によると、一歩とは、「ひとあし」と出ている。ひとあしは、まさしく半歩である。中国から伝来された一歩は、「ふたあし」である。

「死の一歩手前」というときの一歩は、どう考えても「ひとあし」だろう。こんなことを考えると、夜も眠れなくなりそうなのでやめるが、一歩が、いつの間にか半歩に摩り替わっていったようだ。

一歩。――その長さを尺とり式の手尺で計ると、古いことばでいえば6尺になり、一歩は135センチメートルとなる。しかし、旧日本陸軍で歩測したときの資料によれば、一歩の基準は150センチメートルとあるので、むかしの人はわれわれより1割ほど体格が小さかったようだ。

片足だけ踏み出したときの長さは、およそ3尺で「跬()」。

「司馬法」という書物には、「およそ人の一挙足を跬といい、3尺にあたる。2挙足を歩といい、6尺にあたる」と出ている。

古代中国では6進法を採用していたため、6尺で1間(いっけん)、60間で1町、36町で1里、30坪で1畝()となった。つい最近まで、日本でも使われていた。

いま尺という字を使ったが、漢字の「尺」という字は、手をひらいて尺とり式に物の長さを計るときの形を横からえがいた象形文字で、成人男子の手ならば、手尺の開きはおよそ22センチメートルとなる。女子の手ならば2割ほど短くて18センチメートル。男子の手尺を単位にしたのが「尺」で、女子の手尺を単位にしたのが「咫()」である。咫は、むかし裁縫のときに使われる単位だった。

手のひらをぱっと開いて、指と指の間を計ると1寸となる。「寸」という漢字は、指1本という意味である。10寸は1尺、10尺は1丈。「大丈夫」という漢字は、もともとは10尺の背たけの男という意味だった。そんな大きな男がいるとはおもえないが、――。

旅立ちや門出(かどで)の際に贈ることばや金品のことを、餞(はなむけ)というけれど、ほんとうは、「鼻向け」だった。

むかしは、旅立つ人の乗った馬の鼻を、行き先へ向けて見送る習慣があり、そこから、中国では馬の鼻向けということばが生まれた。馬の鼻を行き先の方向に向けて、背中を押してあげることが、何よりの思いやりだったようだ。それを日本では、金品を入れる袋――つまり、餞という字を宛てたのである。

中国では、この字はもともと、お酒や食べ物を用意して人を送る酒盛りのことのようだ。虹という字は、中国でも文字通りの「にじ」という意味だが、ちょっと違うのは、この漢字がなぜ虫偏になっているかという疑問である。これは想像上の生き物で、しらべてみると、オスの「龍」を意味するらしい。

それではメスの龍はというと、「蜺(げい)」というのだそうだ。

いずれも訓読みは「にじ」。漢の時代の人びとは、虹というのは、龍が天にのぼる姿としてとらえたようだ。

そういうことで、虫偏になったというわけである。龍がのぼる門と書いて「登竜門」ということばがあるが、これは、現在の紫禁城にじっさいにあった龍門のこととされている。ちなみに紫禁城は木造ではなく、中国式のコンクリート造である。たしか、日露戦争当時まで、科挙という官吏登用試験があったかとおもう。この難関に合格すれば、その登竜門を通れるというわけ。

こどもの日の鯉のぼりも、大空を悠々と泳ぐ鯉になぞらえたもので、たとえ龍にならなくても、激流に負けない鯉に育ってほしいと願ったものといわれている。――いま中国は、アジアの、いや、世界の巨大な龍になろうとしている。外国の新聞には、中国のことを「大きな龍」ということばを使って表現している。かつて、1980年代には、日本がアジアの「巨大な龍」といわれた。

さて、こうした漢字を、古代中国でつくった人の名前が伝わっている。

まえにも書いたかもしれないが、蒼頡(そうけつ)という人だ。

あるとき蒼頡が野原を歩いていると、地面に鳥や動物の足跡がいっぱいついているのが見えた。それを見ていると、これはウマの足跡、あれはウシの足跡、とそれぞれの足跡を残した動物の姿が頭に思い浮かんでくる。

しかし蒼頡の目のまえにじっさいの動物がいるわけではない。

足跡を見ただけで、それがなんの足跡かすぐに分かったのは、動物の特徴が足跡にちゃんと表現されていたからだった。

であれば、足跡とおなじように、いろいろな事物をうまく文字に表現することができるかも知れない。彼はそう考えたようだ。

亀の甲羅に彫った甲骨文字から、いきなり漢字が生まれたという伝説が残されている。彼がつくったといわれる文字のなかに、「羊」という字がある。これは羊のツメの跡とされている。象形文字である。やがてこの字に別の意味が加わってくる。羊は神や祖先にたいするお祭りでもっともよく使われるいけにえである。そこから、「美」、「義」という字が生まれた。

「美」は、「羊」と「大」からなる会意文字だが、神に供えられる羊が大きければ大きいほど神に喜ばれるというので、「羊」と「大」を組み合わせて「美」とし、「りっぱなもの」、「すばらしいもの」という意味に発展させた。やがて「うつくしい」という意味にもなった。

「義」もおなじく、「羊」と「我」からなる会意文字である。

「我」はもともとは「のこぎり」を意味した。のこぎりで羊を切るとき、敬虔な気持ちを起こさせるところから、うやうやしい、おごそかという心情を表す「義」となったといわれている。なにしろ、日本語の母体は、中国語(漢語・呉語・宋語・唐語)なのだから、古代の中国語に無関心ではいられない。日本語って、ほんとうにむずかしいなあとおもう。