池寛は「口きかん」。―その性関係。

 

菊池寛。

 

ぼくは、ひょんなことから自分の書いている小説をだれかに批評してもらいたくなり、文芸社に原稿をメールで送った。送ってからしばらくたって、猪瀬直樹氏の推薦する「飛翔塾」という文学塾のあることを知った。

そこにはこう書かれている。猪瀬氏の推薦のことばである。

「菊池寛と彼の女性秘書だった碧子(みどりこ)さんの物語「こころの王国」を書くにあたって、菊池寛を取材しているうちに、僕には、だんだん彼の魅力が解ってきた。晩年の菊池寛は作家業だけではなく、文藝春秋を創業し、芥川賞・直木賞などを創って若い作家たちの育成に励んだのだ。このほど彼の孫、菊池夏樹さんが「菊池寛作家育成会」に参加すると聞いた。夏樹さんは、以前、文藝春秋にいて僕が選考委員をしている大宅壮一ノンフィクション賞や芥川、直木両賞などの責任者をしていた。

そのような意味もあって、この会から新しい作家が生まれ出てくれることを楽しみにしている。編集経験豊富な塾講師陣が各種文学賞の受賞を完全サポート。お送りいただく原稿は未発表作品に限ります。なお、自叙伝・自分史作品でのご応募はご遠慮いただいております」と書かれている。

 

佐々木茂索。

 

これ以上、何の条件も書かれていない。一作品についていくら費用がかかるともなんとも書かれていない。好き勝手に送れば、批評してくれるらしい。そこはなんとなく、ぼくには菊池寛らしいなとおもった。

そこにお名前が出てくる碧子さんというのは、女優の佐藤碧子さんのことである。彼女もまた小説を書く。ペンネームは佐藤みどり。昭和35、6年ごろ出版された「人間・菊池寛 その女秘書が綴る実録小説」(新潮社、1961年)というもので、読むとけっこうおもしろい。そこには露骨な性描写はないけれど、それでも菊池寛と彼女の密接な関係を赤裸々に描いていることには変わりなく、菊池寛の妻・包子(かねこ)さんにしてみれば、こころ穏やかではいられなかったはずだ。

みどりさんは、菊池寛の娘に、ぬけぬけとこんな質問をしている。

「先生とのベッドシーンを書いてもよろしいでしょうか」と。

そばに妻の包子さんがいるのに。

さすがの包子さんも、かんかんに怒って、悪態をついたそうだ。

しかし、菊池寛という人は、そんなことを平気でいう、あっけらかんとした女性が好きだったらしい。だから彼女を秘書にしたのだ。

ぼくが想像するに、みどりさんがいうほど、菊池寛は女にだらしなかったとは思えない。むしろ、菊池寛は、女を遠ざけていた。遠ざけていた理由は、だいたいふたつある。

彼は若いころは貧乏で、洋服さえ買えなかった。女学校に通う女子学生は、近寄りがたい美しさに見えた。「新思潮」の仲間でも、菊池寛は男色派でとおっていた。

女は、おっかないのである。

長じて、文藝春秋社の社長をしていた昭和12年ごろ、雑司ヶ谷に家を建てた。100坪ほどの敷地に大きな邸宅を持った。いまでは雑司ヶ谷にはいい家がたくさん建っているが、むかしそこは、東京の市外だった。

そのうちに、編集仲間の人間たちが押し寄せるようになって手狭になり、その近くに500坪の土地を買い、大きな2階建ての住居兼編集部のある家を建てた。彼は49歳になっていた。

そのころの話がおもしろい。

菊池直樹「菊池寛急逝の夜」(中公文庫、2012年)。

 

猪瀬直樹氏の書いた「こころの王国」を原作にした映画は、現在、DVDにもなっている。「丘を越えて」の主人公は、菊池寛の秘書で、愛人でもあった佐藤碧子さんがモデルになっているらしい。菊池寛には、紫綬褒章を受章した西田敏行さんが演じている。

平成17年に亡くなった《小森のおばちゃん》こと小森和子さんは、こんなことを漏らしている。

「わたし、菊池寛先生と寝たことがあるわよ」と。

彼女が書いた本だった。

本の名前は思い出せない。亡くなる数年前だったようにおもう。菊池寛の孫・菊池夏樹氏に直接語ったというのである。とうぜんの話だが、この話は、菊池直樹氏の本「菊池寛急逝の夜」(中公文庫、2012年)にもくわしく書かれているので間違いない。

以下、その場面を引用する。

「おばちゃまはね、菊池寛先生に抱かれようと思って、先生の前で素っ裸になったの。そしたら、先生、なんていったと思う? 《きみ、早く着物を着なさい。風邪をひくぞ》ですって。それが真実なの。そのことをあなたにお話したくて――」と書かれている。どうしてもいいたかった話とは、そのことだった。じっさいは、なんにもなかったのよ、といいたかったのだ。

小森のおばちゃまも、あっけらかんとした、天真爛漫な女性だったとおもう。いかにも彼女のいいそうな話だ。

そういうわけで、女を遠ざけていた理由は、ただただ女には臆病だったからにほかならない。

ところが、秘書の佐藤みどりさんは違った。

「人間・菊池寛 その女秘書が綴る実録小説」で、何もかもあけすけにバラしてしまっているのである。自分は菊池の単なる秘書なんかでなく、愛人でもあったと書く。ときには菊池寛のすすまない仕事を、自分が代筆をしていたとも書いた。こんなことをあけすけに告白したので、彼女は文壇から干されることになった。彼女を文壇から追放したのは菊池寛ではなく、編集部の人間だった。われらが社長の悪口をいったと。

平成15年、この本は「その女秘書が綴る実録小説」という副題を消して、復刻された。そして平成20年の夏、佐藤みどりさんは96歳で亡くなられた。

孫の菊池夏樹氏もいうように、菊池寛は、しとやかで、黙って男につき従うような女性は好みでなく、男と対等に仕事がばりばりできる知的な女性、それもどこか危なっかしくて、黙って見ていられないような女性がお気に入りだったらしい。

菊池寛がフェミニストで、女性にはことのほか優しいのは、つとに知られた話だけれど、それは想像以上に優しく、涙ぐましいほどに、想像以上こまめだったようだ。

当時は、現在のような男勝りな女はどこを探してもいなかった時代だけに、秘書としての彼女の有能さに惹かれたのだろう。それでなくても、自分は醜い顔をしている。子供のころからのコンプレックスは、ずーっと尾を引いていた。肉体関係を持っても、彼は女にモテるとは思っていなかったようだ。

佐藤みどりさんは、社会的な地位のある文藝春秋社社長としての菊池寛にはあまり興味を感じていなかったフシがある。いまとは大違い。男に媚びない職業人としての意地を強く持っていたようだ。

後年、菊池寛は、息子英樹氏が漏らしているように、「親父には、ぼくが知っているだけでも、外に4人の子供がいた」というくらいだから、人知れず、妾を養っていたかも知れない。

女優といえば、竹久千恵子(1912年-2006年)さんともあやしい関係にあったといわれている。

彼女もまた知的な顔をしている。

ある記念写真に、川口松太郎、久米正雄、小島政二郎、永井龍男、今日出海、大仏次郎、小林秀雄、佐々木茂索らにまじって女ひとり竹久千恵子さんが写っている。

写真に写っている面々は、菊池寛と仲のよかったことを考えれば、紅一点の竹久千恵子さんは特別の女性であったらしいと菊池夏樹氏は「菊池寛急逝の夜」のなかでのべている。当時にあっては、菊池寛は、めずらしいほど女性の人格というものを尊重していた。そういう意味では女性のこころをつかむのがうまかった。

しかしそれは菊池寛にしてみれば、ごく自然なこととおもわれる。

かなりの女性ファンが多く、「こんな本を書く先生って、どんな人なのかしら」と興味を抱いた芸者が、風呂場までのぞきにやってきたという逸話もある。そういう時代だから、大学を出たからといって、女性の働く職場はなかった。

それを見た菊池寛は、「文筆婦人会」というのをつくり、彼女たちの仕事場を探す運動をしている。リクルート活動のはしりである。昭和4年「文藝春秋」4月号に、ちょっとめずらしい求人広告が載った。「私たち文筆婦人を使ってください」という広告だった。

女だけの編集プロダクションとして、翻訳、原書代読、要約、取材代行、口述筆記、手紙や封筒の代筆、発送業務、編集校正、タイプ、原稿の清書、パンフレット制作など、じつにさまざまな業務を歌い文句にしている。

これを見た妻の包子さんは、

「なんてすか、これは!」といって、怒りをあらわにしたという。

彼女は女子大学に反感を持っていた。女は「子なきは去れ」「嫁しては夫に従い、老いては子に従え」「二夫にまみえず」「舅姑に仕えよ」という道徳をことのほか重んじていた。夫菊池寛のやることに、いちいち腹立たしくおもっていたようだ。

しかし、菊池寛は吉田茂同様、金にはかなり無頓着だった。

会社の社長をしていても、儲かっているのか、損をしているのか、実際わからないとこぼしている。そこに、金銭感覚のするどい人間が社に入ってくる。それが佐々木茂索専務である。佐々木茂索は作家だったが、会社経営の才があり、いつも菊池寛とぶつかっていた。この人が社長になってからは、社運も羽ばたいたが、それはまた、別の話である。

ぼくは人間菊池寛が大好きである。猪瀬直樹氏も、そこに惚れたのだろう。

菊池寛のことを「口きかん」といった人がいる。本にもなっている。

彼はおもしろい人間だが、偏屈で、変人でもあった。しかし、菊池寛のまわりには、じつにおもしろい人間たちがたくさん集まってきた。芥川龍之介はいうにおよばず、今東光、川端康成、直木三十二と、――直木は三十三、三十四、三十五までペンネームを持っているが、三十四と原稿に書いたところ、編集者が間違って直木三十三と書き直してしまったらしい。それはいいのだが、三十三は気に入らなくて「三十五」に直した。それ以来、直木三十五で定着している。この直木三十五にはいろいろな物語がある。それはまた別の話である。

菊池寛のまわりには、こんなふうにおもしろい人間たちが渦まいていた。

2002年、猪瀬直樹氏が菊池伝「こころの王国」を「文學界」に連載しはじめた。ところが、やがて佐藤碧子の盗作ではないかといわれたりして、連載途中で甥の佐藤氏と猪瀬の対談が行なわれたというニュースがあった。その後の話は知らない。ぼくは個人的に猪瀬氏に親しみを感じている。彼は稀代の愛煙家で、たばこ税を支払う人間のどこが悪い! といって、ヒステリックに叫ぶ禁煙家たちに文句をいっていた。そういう彼も、菊池寛同様、しょうしょう変わっているかもしれない。