smellow匂いたつ」作家、ジョイスの「リシーズ」。

 

 

ある秋のさわやかな日差しののびた午後のことだった。

越谷の「俊青会」の展示会場の受付で、漫然とかまえていたら、客がふたり連れだってやってきて、そばの絵を見て何か話しているのが聞こえた。

「みどりの川ということばが「緑川……」という人の名前に聞こえた。

「緑川さんというのは?」と、おもわずぼくはたずねた。すると、相手は妙な顔をしてこっちを見つめた。60歳くらいか、そのあたりの年恰好に見える。そばにいるのは奥さんだろうか。

絵を見ると、手前に川が流れていて、その川面(かわも)に、木々の風景が写り込んでいる。その描写がなんともいい感じを出している絵だった。F6号サイズの水彩画である。遠藤和夫氏の水彩画「御苑6月」。

その話をしていたようだった。

ぼくは、とんちんかんな話をしてしまったようだ。

「……ああ、この川のことですか。緑の川が、きれいだねと、いっていたんですよ」と、折り目ただしく説明してくれた。ちょっと訛りがあるようだった。この人が、きょうの客人の第一号だった。

そして、ぼくは業務の席にもどった。相棒のふたりは、奥のコーナーにいた。客人があらわれたので、もどってくるなり、女性当番の彼女が、立ち止まって客人にあいさつしている。彼女の知り合いだったようだ。

――ぼくはあることをおもい出した。ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」に出てくる話である。登場人物のバンタム・ライアンズのつぶやいたことばである。ブルームの「もう要らないんだ」ということばが、「モイラナイン」という馬の名前に聞こえたという話が出てくる。

アスコット競馬の金杯で、ダークホース、モイラナインは20倍の大穴をあける。日本でいえば、20倍なんてざらにあるだろうけれど、1904年のダブリンでは、万馬券に相当する。「ユリシーズ」の原文では、「なげ捨てる」という意味で「throw away」といういいまわし方をする。これはひょっとすると、もともとはアイルランド英語かもしれない。バンタム・ライアンズは、それを「Throwaway」という競走馬の名前とおもったのである。

よくある話だ。

ジョイスの文章には、こうしたおもしろい話がふんだんと出てくる。

「大事なんだ」というのが、「だああいじなんだ」と、あくびのせいで、ことばが伸びている話もある。原文では、「dearer thaaan」となっている。つまり「than」というべき語が伸びてしまっている。

おならなら、Pieeeeeeee……だ。

――ジョイスの文章は、そんなにふざけているのか、というと、そうではない。ジョイスは、だれもが認める20世紀最大の小説家のひとりである。亡くなられた柳瀬尚紀氏にいわせると、ジョイスの「ジョイ」が、――喜悦に満ちていると書かれている。この小説のおもしろさの鍵は、そんなところにあるとおもっている。

――もう15年ほどまえになるだろうか、「ユリシーズ」の翻訳本を読んでいたら、ぼくは「はあ?」と疑問におもわれる妙な訳文に出会った。訳文では、「あらゆる抱擁は、……」と書かれていた。翻訳家の名前は伏せるが、ところどころ、おかしな日本語訳になっていた。原文をみてみると、ちょっと変だと気づいたことがある。これはたぶん、英文解釈というレベルの話ではなく、ジョイス文学の懐に触れる訳文が要求される部分だけに、ちょっと妙な気分がした。

おそれ多くも、自分ならこう訳すぞ! と、不遜にも試訳をこころみたことがある。その一部はすでに書いているので、きょうは、べつのものをちょっと書いてみたい。

日本人同士だって、こうしたすれ違いのような、とんちんかんな会話になるのだから、まして、英語で書かれた文章を、外国人である日本人が訳すとすれば、呻吟するのはあたりまえの話だ、とおもえる。

母国語でない者が、翻訳するというのは、かなりしんどい作業をすることになるだろう。ことに、ジョイスの文章は一筋縄ではいかない。時事英文記事をすらすら読める人でも、ジョイスの文章は、すらすら読めないだろうとおもう。なぜなら、彼の文章には、辞典にも載っていないような語彙がふんだんに登場し、――つまり、造語のことだけれど、これまた、格別におもしろいのである。そこで、ぼくはどうおもしろいとおもったのか、せっかくの機会なので、きょうは、その話をしてみたいとおもう。

スティーブンは、勤務先の学校へ歩いていく。

さて、その原文の冒頭の文章は、Stately, plump Buck Mulligan came from the stairhead, bearing a bowl of lather on which a mirror and a razor lay crossed. A yellow drssinggown, ungirdled, was sustained gently behind him on the mild morning air.となっている。

ここを、むかしの訳文では、

「押しだしのいい、ふとっちょのバック・マリガンが、シャボンの泡のはいっている椀を持って、階段のいちばん上から現われた。椀の上には手鏡と剃刀が交叉して置かれ、十字架の形になっていた。紐のほどけた黄色いガウンは、おだやかな朝の風に吹かれてふんわりと、うしろのほうへ持ちあがっていた」となっている。

内容はだいたいそうなのだけれど、ピーンとこない。おもしろさが出ていないからだろう。冒頭の「Stately, plump」というフレーズ。――まず、「Stately, 」としてコンマが打たれている。「Stately and plump」と、なぜやらなかったのだろうとおもう。

訳文では「押しだしのいい、ふとっちょの……」と訳されている。

「Stately,」は一見して副詞に見えないこともないが、紛れもなくこれは形容詞。コンマでふたつの単語を分けているのはなぜだろうか。訳文は、間違いではないけれど、ぼくには、どこかの優等生が訳した直訳にしか見えない。

「plump」はマリガンの静的な姿かたちを表現しているのにたいして、「Stately」はマリガンの移りゆく動的な個性を表現しているとおもわれる。だから、このふたつの単語を「and」でつなぐわけにはいかなかった、そう考えると、少しはおもしろくなる。

ついでに、「plump」を辞書で引くと、なるほど「肥満した」「丸々と肥った」という意味の形容詞であることが分かる。ならば「fat」とどう違うのか、「fat」こそ「肥満した」なのだ。

すると「plump」は、「肉付きのよい」「小太りな」という意味になりそうだ。「肉付きのいい」とくれば、だんぜん白鵬みたいな「ふとっちょ」であるはずがない。ぼくでは痩せすぎだけれども、女性なら、痩せていないころのマリア・カラスくらいの肉付きなら、かえって魅力があるかも。

ここでマリガンという主人公の姿かたちが「ふとっちょの」であってはならないのである。なぜなら、「plump melon」という表現を見かけるが、「ふとっちょのメロン」、あるいは「肥満したメロン」などとやってしまっては、まるでとんちんかんな訳になってしまう。

この場合は「食べごろの」と訳すべきだろう。「They are plump but not fat.」という文章さえある。

ありがたいことにさらに、少し先にすすむと、「He kissed the plump mellow yellow smellow melons of her rump,ふくよかな、黄色く熟したメロンが匂いたつようなお尻にキスをした」と出ている。「plump」と「rump」、「mellow」と「melons」の取り合わせが絶妙なのである。

モリーのお尻を熟したメロンにたとえているわけだが、単語の音の響きをそろえて、踏韻しているのが分かる。ことば遊びの天才ジョイスの本領発揮。この場合も「rump腰部」と訳されているのには、ぼくは不満だった。どうしても「お尻」か、でなかったら、食べごろを感じさせる「臀(しり)」、「けつ」にしてほしかったとおもう。

そういう単語を使うべきだろうとおもう。「腰部」などというあいまいで、表現力に乏しい単語にしてしまっては、せっかくのジョイス文を台なしにしているとおもってしまう。この「smellow匂いたつ」ということばも、英和辞書にはむろん載っていない単語で、ジョイスの造語による。そのためにわざわざ用意されているとしかおもえない。

なぜジョイスは「smellow匂いたつ」としたのかって?

おそらく「mellow熟した」と対をなす単語にしたかったのだろう。ジョイスにかかったら、この種の造語はいたるところに出てくる。専門家の本をいちいち読んでいるわけじゃないので、不確かではあるが――。

まだまだある。

この文章のなかにある「ボウルbowl」は、「ヒゲ剃り用のボウルshaving bowl」または、「nickel-shaving bowl」のことだとおもう。ならば「椀」ではなくて「鋺(わん)」にしたほうがいいようだ。それはささいなことかも知れないが、この単語は古くて、むかしからある単語で、古英語(Old English)では「bolle」と綴り、「鉢」や「洗い鉢」を指していた。なぜ「白銅貨でできたボウルnickel-shaving bowl」をあげたかというと、ニッケルにメッキをした安物のボウル、この「ニッケルnickel」という単語はもともとギリシャ語で、「紅砒(こうひ)ニッケル」のことで、ギリシャ語では別名「悪魔」という意味を持ち、「銅のように似せて実際は銅の成分をまったく含んでいない贋もの」という意味を持っている。いかにもジョイスが好みそうな単語だ。

俗に「5セント銅貨」を指し、銅なんかまるで含有していない「ニッケル硬貨」という意味にもなったと辞書には書かれているが、そんなボウルを手に持って(しずしずと)階段を降りていったというわけである。

さらに、この階段というやつは、意味深長な単語である。

文章のはしばしまで目配りして読めば、「階段」は「祭壇の階段」であり、「ボウル」はミサに用いる葡萄酒入りの「聖餐杯」ということになる。先の文章を読めば、分かるようになっている。だから「小鉢」くらいのボウルが相当するものとおもわれる。しかも、陶器でできた小鉢ではなく、ニッケルである必要がある。

ジョイスはここでミサのもじりをやっているのかも知れない。たぶんそうであろう。もし、ミサのもじりをやっているとすれば、なおさら「Stately, plump」であることに納得できるかと。

「Stately」は威厳に満ちた、ゆったりとした歩き方を表現しているからで、そのすぐ先に出てくる手鏡と剃刀が交差して置かれ、「十字架の形」になっているというフレーズが、ぐーんと生きてくる。ぼくがもの足りないと思うのは、そんなところにあった。

 

Perfume of embraces all him assailed. With hungered flesh obscurely, he mutely craved to adore.

あらゆる抱擁の香りが彼を責めたてた。漠然と飢えている肉体をいだいて、彼は無言のうちに熱烈な愛を求めていた。

 

――冒頭に書いた「あらゆる抱擁……」の話である。

ここにあげた文章は、ある男が「ブラウン・トマス絹織物店」のウインドーにある絹のペティコートを見て、色欲的な刺激を受けるシーンである。これはいく通りもの語順で並べ変えることが可能で、ジョイスは文体を磨きあげ、ことばの効果を精密に計算しているとおもわれる。翻訳にしても、いろいろに訳せる。ぼくは、こう訳してみた。

 

抱擁の香りがいっぱいに溢れて、それが彼を襲った。密かに飢えている肉体を包んで、じっと沈黙したまま、燃え盛る愛を求めていた。

 

これが原文に、より近い訳かとおもわれる。意訳するのはいいけれど、「all」はここでは「いっぱいに溢れて」という意味で「him彼を」にかかることばであって、「embraces抱擁」にかかる語ではない。「あらゆる抱擁」って、いったい何だろうとおもってしまう。

ぼくは、これを副詞にとって、「いっぱいに溢れて」と訳してみた。なぜなら、つぎに「With」ときているからだ。これをぼくは「包んで」とおいてみた。肉体を包んで……と。その「香り」が肉体をも包んでいるかのように見えるからだ。ここにジョイスの二語一意の妙味が隠されているように見える。

このセンテンスの重要な部分は「all」である。「obscurely」という副詞は、「不明瞭な」「(色などが)くすんだ」「人目につかない」などの意味があるが、ここでは、「肉体」にたいする「精神=心」、賤しい生まれの素性を持つ「無名の」という意味に近いことばだとおもわれる。

人は肉体にたいして、誘惑の刺激をちくちく感じさせるものは、素性の知れない自分の分身であり、決して気高くはなく、肉体同様に汚らわしいもの、卑猥なもの、それが沈黙しながらも、無骨にもときどき激しい愛の打ち鐘を鳴らすというわけである。

鐘こそ出てこないが、そのように読める。

あるいは、肉体は正直にものをいうけれども、内なる精神は、自分でも人知れず厄介で定かでない鐘を打ち鳴らすと。――そんな感じだろうか。そう考えてみると、翻訳家の訳文は、それ自体りっぱな日本語訳ではあるのだけれど、なにか、物足りない。

ある人に話したら、「英語はむずかしい」といった。「そうかな?」とぼくはおもった。日本語のほうがむずかしい。

「先日わたしは、よく知っている竹田さんのお姉さんに会った」という文章があるとしたら、「よく知っている」は、「竹田さん」なのか、「竹田さんのお姉さん」なのか、はっきりいえる人はいるのだろうか? とおもってしまう。