られて。……

 

Mさんがやってきた。「寒いの、暑いの」とかいいながらやってきた。ぼくの事務所のドアに、看板を出している。外出するときはこれを窓のフレームに引っ掛けておく。用のある人は、そこに書いてある番号に電話をかけてくれるように。

その看板があったので、彼は、ぼくはきょう、いないのかとおもったようだった。

「――あっ、いたいた。ああ、ここは暑いねぇ。夏温度だねぇ」といって入ってくる。彼の顔は日に焼けて真っ黒だ。57歳。もうじき58歳になる。

「エアコンに当たってて、ここは夏温度ですね。コーヒーは、やっぱりホットを飲みたくなりますよ」といっている。コーヒーを飲みたくなってやってきたようだった。彼は、きょうもいつものホットコーヒーを催促する。コーヒーメーカーをセットして、コーヒーをつくって振る舞った。

「じゃあ、これ飲むかい?」といって、さっきのお客さんからいただいたDrip pack coffeeというパッケージを手で持ち上げた。

「ほー、DOUTOR? ……いいねぇ。いただきますよ。これ、どうしたの?」ときいてきた。

「なーに、友人の奥さまからさっきいただいたんですよ」

「奥さま? ……だれですか?」

「だれでもいいでしょ。妙齢な、貴婦人みたいな奥さまですよ、伊藤梅子みたいな……」

「だれですか、その、伊藤梅子って?」

「ぼくも知りませんよ。会ったことがないんだから、……」

「会ったことがない? ふーん」

「そりゃあそうですよ。……伊藤博文さんの奥さまなんですから」

「伊藤博文? どこかで聴いたこと、ありますよ。たぶん、自分も知っていますよ」といっている。

「だれかと勘違いしていませんか? 明治になって新政府ができて、初代の総理になられた人。その奥さまですよ」

「えーっ? なんでまた。……」

「伊藤博文って好色な男でしてね、ほかにも数々の女がいた。なんか、明治天皇から注意されたそうですよ。それも稀代の処女喰いでね。ははははっ、だれかとそっくり! 男はみんな処女がお好き」

「だれだってそうでしょう?」

「Mさんもそうですか?」

「むかしはそうでしたね。いまは、そうじゃなく、若奥さまに魅力を感じておりますよ」

「むかしは、二夫にまみえずといって、女は再婚しないものでしたね。たったひとりの夫に連れ添う。そういう人は少なくなりましたね」

「田中さんと話すと、いつも明治時代の話になる。……まあ、おもしろいけどね」といっている。

「――髪の毛にも肌にも色素はなく、眉も睫毛(まつげ)も、体毛と呼ばれるものすべてが白い。肌の色はミルクのごとき、べったりとした透明感のない白さ。全身、白い絵の具を塗りたくられた人形のような、……」と、ぼくはある文章を読みあげた。

「……なんだい、それは? 田中さんの小説かい?」という。

「いいや、小池眞理子さんの作品ですよ。《イノセント》という小説」

「ほう、そう。……小池眞理子? 聞いたことないな」といいながら彼はトイレから出てくる。

「田中さんらしいな、ははははっ。……」といってコーヒーを飲む。

「ぼくには書けませんよ、こんな文章は」

「いつも書いてるくせに。……そうじゃない?」

「――体毛と呼ばれるものすべてが白い。肌の色はミルクのごとき、べったりとした透明感のない白さである、……なんて書けないですよ。この人の文章は、こういう文章でなかなかいい文章です。昭和30年代から40年代にかけて、こういう文章が書ける直木賞作家はいませんでしたね」

「彼女は直木賞をとったのかい?」

「取りましたよ。……もう20年か、25年ほどまえになるかなあ。それ以来、ときどき読むことがありますよ」

「ところで、田中さんの書こうとする小説は、どんな傾向の小説? 松本清張みたいな推理ものを読んでるらしいけど、書くのは推理ものじゃないよね」

「もちろん。……まあ、翻訳ものではレイモンド・カーヴァーみたいな小説で、ヘミングウェイみたいな小説にあこがれています。これはあこがれているだけで、ちっとも書けない」

Mさんには、2杯目のコーヒーをつくってあげた。

先日は「カプッチーノ」の話をしたんだっけ! とおもう。

「外国の小説は読まないので分からないけど、……まあ、なんとなく分かるよ。なんだっけ? キリマンジャロだっけ? ミケランジェロだっけ? あれには参ったな」とMさんはいう。ぼくがとある喫茶店で、まちがって「ミケランジェロください」といったのを覚えているのだ。彼はそのシーンをおもい出したのだ。

「きょうは田中さんと喫茶店に行きたかったんだけど、きょうはえらく天気が悪いな、いまに降ってくるぞ。……あれ? もう降ってきたかな、……」といって背伸びをして外をのぞく。外の景色がきゅうに暗くなったようだ。

「またちょっと、降ってきたようだな。……きょうは、6時ごろから降るっていってたけど、雨脚が早まったようだな」という。

「どうしようかな、困ったな」と、またいっている。

「何が困ったの?」

「きょうは、新規営業することになって、それさえやれば、大雨が降るので、きょうは早仕舞いしていいという話なんだが、これじゃあ、ダメだな。……営業ができない」という。

「カッパ貸そうか? 都合のいいことに、Mさんからもらった読売新聞のカッパだけど」というと、

「それはいいな、貸してくれる?」というので貸してあげた。カッパのズボンを履いたところで、Sさんが姿をあらわした。

「おう、ちょうどいいところに帰ってきたんだね」とMさんがいうと、

「危なかった。……大雨に降られるところでしたよ」といって、Sさんが事務所に入ってきた。

けたたましい雷鳴がとどろいた。

近くに爆弾が落ちたような音がして、マンションの館内に大きく反響した。ものすごい音だった。

「降ってくるぞ! ……これからカッパ着て、仕事かい?」とSさんがいっている。

「仕事もクソもないよ。ははははっ、……こうなったら破れかぶれだ」とMさんがいう。

「こんなに慌てて、どこへ行くんだい?」とSさんがきく。

「営業ですよ、これから1本あげなくちゃ! ……参ったな」といっている。

「事務所で取ってあげようか? 会社の名義でさ」というと、

「ははははっ、そういう手があったか。そうしてくれる? たすかったよ」といって、彼はカッパを着たまま椅子にふたたび座った。

「まあ、……コーヒーでもいれるかい?」

「じゃ、もう1杯もらおうかな」という。ぼくはふたり分のコーヒーをつくり、差し出した。

「きょうは参ったな」とMさんはいっている。また雷鳴がする。こんどは町のほうだ。すると、たちまち大降りの雨が音をたてて降ってきた。外はどこも大雨になって景色が変わった。その風景を見ているだけで、寒々しい感じがした。

「降ってきやがったか。……Sさんは、いいときに帰ってきたねぇ」とMさんがいう。

「おれは、まずいと思ったから、用事があるといって、夜勤は外して、早々にきり上げてきましたよ」といっている。Sさんは路上警備員をしている。

「それは正解だな。……きょうは、どこまで行ったの?」

「足立区だよ。西新井のさ、……」といってたばこをぷーっと吹かしている。

その顔が藤沢周平の小説に出てくる紙問屋の亭主みたいな顔になって見えた。ひげづらで、それがある日、きれいに剃りあげて、いそいそと町に出るのである。女房は亭主の異変に気づき、ひそかに夫のあとを追う。追われているとは知らないで、女のところに出かける。女は、身持ちの悪い浮気女で、いつの間にやら男とできてしまっている。

おなじ紙問屋の神さんで、彼女は亭主にすっかり愛想をつかしている。その女の愚痴を聞いているうちに、できてしまうという話である。

「《海鳴り》という藤沢周平の小説、おもしろいね、上巻はもうじき読み終わる」というと、「あれは、なんていうこともない小説ですが、男女のからみがおもしろいですなあ」とSさんがいう。

「酔いつぶれた見知らぬ女を介抱してやって、連れ込んだところが逢引専門の宿。そこで女を楽にしてやろうと思って、男は女の帯を解く、そこがいいですなあ」というと、Mさんがいっている。

「田中さんは、そういう文章を書けばいいとおもうよ。書けるとおもうよ。もっとリアルに書けるはずですよ」

「それはそうだね、ははははっ!」といって笑ったのは、Sさんだった。

藤沢周平の小説は、しっとりとくる小説で、江戸町人の気質をうまく書いている。大雨が降りつづいている。また雷鳴が鳴った。……きゅうにヨーコのことをおもい出した。

「ヨーコ、帰ってきたかなあ、……」というと、

「電話してみたら?」とSさんがいう。きょうは着付け教室に出かけているはずだとおもった。大雨のなか、歩いてマンションに向かっている光景を想像した。まさか! とおもったが、心配になってヨーコに電話してみた。

「はい、……」とヨーコが電話に出た。

「いたのかい? それならいいよ、……」というと、

「何かご用? ……」

「いや、……」

「何?」

「うん」

「そこに、だれかいるの?」

「うん」

「ははははっ、いるのね! たぶん例のふたりでしょ?」といって電話が切れた。

よーく考えたら、さっきヨーコから電話があったのだ。冷蔵庫を開けたら、つくだ煮が入っているので、それで電話をしてきたのだった。マンションの奥さまからいただいたものだった。

「ヨーコさん、いたの? ははははっ、こいつはいいや」とSさんがいった。