S・ームの「」のように。

 

 サマセット・モーム「雨・赤毛」(新潮文庫)。

 

ぼくはきのう夕方、妻を迎えに松原団地駅のほうに出かけた。彼女の絵のあつまりがあって、みんなと食事会をしているという。

「お父さん、いただいた物があるのよ。わたしひとりじゃ持てないくらい。手伝って」という。ちょうどぼくは散歩をしていて、草加駅に向かって歩いていた。

「これから行くよ」といって、ぼくは電車にのって松原団地駅に向かった。そこで妻から受け取ったものは、米5キロ入りの袋だった。はははっといって笑ったら、

「もち米なの」と妻はいった。秋田の米だった。ぼくは妻と別れて、近くのコーヒー店に入った。

西の空は晴れていて青空が見えているのに、東側上空は水膨れしたみたいな黒い雲におおわれ、なんの前触れもなく、いきなり雨が降ってきた。ぼくはコーヒーを飲んで、ぼんやり外を見ていた。

九州の大地震で被災した人たちのことを考えていた。地震、そして土砂災害と雨。まだ土砂のなかに埋まっている人がいるらしい。

「雨」という名作を書いたサマセット・モームのことをおもい出した。

外を見ながら、ぼんやりむかしのことをおもい出したのである。ぼくは、だれもがする大学の受験勉強のような経験をしたことはないのだが、あのころは、モームの小説やエッセイから出題される入学試験がけっこうあったらしい。ぼくはそのころ、モームを知らなかった。

だから、名作「人間の絆」のオリジナル・タイトル「Of Human Bondage」という名前が出てきたら、「人間の絆」などと訳せるはずもなく、戸惑ったにちがいない。モームの短編「雨」にしても、定冠詞のないただの「Rain」だ。なぜ定冠詞がないのだろう? そうおもったに違いない。

蛇足だけれど、ちょっと「Of Human Bondage」についてのべると、これは古風ないい方だ。Ofは、いまでいえばonか、aboutとおなじである。だから直訳すれば「人間の絆について」というような意味になりそうだ。

モームは、このタイトルをどこで見つけてきたのだろうか。

17世紀のオランダの哲学者スピノザの「エチカ」という本のなかにある章題に、「人間の隷属について」と題された文章があり、そこから取られたとされているようだ。英訳すれば「of」が文頭にくる。

それにしても、このタイトルを「人間の絆」と訳されたというところに、訳者の苦心のほどがほの見えてきて、おもしろいとおもう。なぜなら、Bondageはもちろん「束縛」という意味であり、「人間の束縛」という意味をかぎりなく内包させたもの、といえそうだからである。モームという作家の、レトリックがひじょうにおもしろいとおもう。

上田勤というう英文学者の功績は、たいへんおおきいとおもう。日本における代表的なモーム研究家には上田勤さんと中野好夫さんがいる。

研究という分野では、上田勤さんは第一人者といえるかもしれない。その上田勤さんのモームを論じた本のなかで、モームは「サミング・アップ」という本のなかで、たっぷり自分のことをすでに語っていて、おおくの批評家たちはそのエッセイを超えられないとのべ、モーム研究のむずかしさについて書かれている。そして、「……これは、モームに対する敗北の書である」とさえ彼はのべているのである。

いっぽう、中野好夫さんは、ぼくにとってはおもい出の人であり、モームといえば中野好夫というイメージがついてまわるほど、この人は、モーム作品をたくさん紹介してくれた功労者だ。中野好夫さんの訳文は、もののみごとに訳されていて、間然するところがない。そうおもっていた。

近年は、岩波文庫に行方昭夫氏の訳文が出ていて、びっくりしている。いかにもいま風に訳されているのだ。このたび行方昭夫氏の書かれた「サマセット・モームを読む」(岩波セミナーブックス、2010)という本を読み、たいへん教えられた。

なるほど、中野好夫訳では、「人間の絆」でいえば、「露命をつなぐのが関の山」とか、「馬鹿馬鹿しい生活は七里ケッパイ」とか、「うわばみみたいな人間」という、ちょっと古風な表現がいたるところに見られる。これはもう古いといわれても仕方ないのかもしれない。そうした理由から、岩波文庫版の「人間の絆」(3)、「月と六ペンス」、「サミング・アップ」、「モーム短編選」(2)は、行方昭夫訳に替えられた。

このなかで、数年前から行方昭夫訳の「月と六ペンス」、「人間の絆」を読んだ。すばらしい訳だった。

モームの作品を読むにあたって、ぼくは、モームという作家のことをもっともっと知る必要があるとおもっている。どのようなことを知る必要があるのかというと、サマセット・モームの少年時代にこそ、モーム作品を成立させるおおくのヒントが隠されているようにおもえる。晩年ちかくになって、モームは回想録(Looking Back)を書いている。ぼくにいわせたら、こんなものは書くべきじゃなかった、とおもっている。

それによると、キングス・スクール時代、教師から彼の吃音をののしられ、屈辱のあまり、退学するシーンが克明に描かれている。これは、モームにとって、重要なシーンである。彼の劣等感は、いかにはげしいものだったかがわかる。「人間の絆」では、脚の弯足(わんそく)として表現されている。このことがなかったら、自分は現在とちがった人生コースをたどっていただろう、とのべている。

読む人によっては、主人公フィリップは、自己嗜虐的な残酷物語に見えるかもしれない。その第122章は、モームのいつわらない述懐に満ちている。「人生とは何か?」ということが書かれている。作中人物に、医学生時代に知り合ったミルドレッド・ロジャーズという女が出てくる。フィリップの周囲にあらわれては彼を悩ませつづけている。

読みようによっては、ミルドレッドを通じてフィリップの受けた傷跡を追う物語が、「人間の絆」のひとつの山場といえばいえそうだ。自分のぬきがたい劣等感と、自分にたいする弱者意識が、だんだんと昂じてアウトサイダーになっていく部分に、作者の気持ちが明らかにのべられているとおもわれる。

また、モームは、こうものべている。

5フィート7インチの人間と、6フィート2インチの人間とでは、世の中はまったく別物だ」といっている。モームとじっさいに会った人の回想によれば、彼は背がおもったより低かったと書かれている。さらに、自分が弯足であるために、女友だちがひとりもつくれないとなげき、絵の才能のないこともおもい知らされ、モームは、フィリップに負わせたこのような書き方は、モームの完膚なきまでの自虐を貫こうとしたためかもしれない。

以前にも書いたが、モームはしばしばロンドンを抜け出して、シンガポールのラッフルズ・ホテルの78号室に逗留し、庭の見えるパーム・コートのテーブル席について、さまざまな小説を想を練っている。

このホテルは、モームだけでなく、ジョセフ・コンラッドやチャップリン、ロバート・ケネディ、エリザベス・テーラーなども訪れ、彼らのネーム・プレートも部屋の入口に貼ってあるそうだ。

かつて、日本軍はシンガポールに進駐し、このラッフルズ・ホテルを占拠した。シンガポールは、中国系、マレー系、インド系、インドネシア系、そのほかいろいろな人種があつまって国家を構成している国で、多民族が一体となってシンガポールをつくりあげている。

それが中国人の指導者リー・クァンユーの考えだった。

「シンガポール」というのは、国の名前であると同時に、都市の名前でもある。

そこに飛び交う言語は、マレー、インド、インドネシア、その他それぞれの民族語にプラスして、英語が日常語になっている。ながくイギリスの統治下にあったため、イギリス風の建物もおおく建っている。このラッフルズ・ホテルは、イギリス人のトーマス・ラッフルズにちなんで名づけられた。

シンガポールが日本に占領された第二次世界大戦時の1942215日、ラッフルズ・ホテルは日本軍に接収され、陸軍将校の宿泊施設となった。ホテル名は「昭南旅館」に変更させられ、メイドの制服も和服になった。

おしゃれなボールルームで専属バンドが演奏する曲もジャズやクラシック音楽から、日本の軍歌や民謡に変わった。西洋のオペラハウス風の舞台で上演される舞台演目もオペラやミュージカルから、日本の演舞場で上演されるような大衆演劇に変更された。

時間も変えられ、すべての時計が、東京時間に合わせることを強要された。

この日本占領の3年間は、いったい何だったのだろうと考えさせられる。

モームの短編は、ラッフルズ・ホテルの庭に降る雨を見て着想を得たのかもしれない。彼は生涯で100数10編もの短編を書き、こころに浸みる名作を描いた。だが、О・ヘンリーのような俗にいう「落ち(the point)」は、描かなかった。多くは心理描写で背負い投げをくらわした。

モームの死後、同性愛問題が取り沙汰され、秘書と家族、その莫大な遺産をめぐるいさかいが報道された。モームは、このラッフルズ・ホテルで、祖国イギリスでの自分の評価に、つねづね苦々しいおもいを感じていたらしい。祖国では味わえない解放感に浸るために、このホテルにながく逗留した。モーム自身、軍の諜報活動もやっていたらしいが、くわしいことはわからない。

――いま、モームを読み返しても、彼が生きた時代が、どんなものだったのか、想像できない。