酷でも過ぎ去りしい出のなかで。

 

 ヘミングウェイ「武器よさらば」(新潮文庫)。

 

ヘミングウェイはうまいことをいっている。

「その短編を書き終えたノートを内ポケットにおさめてから、ポルテュゲース牡蠣(かき)を一ダースと辛口の白ワインをハーフ・カラフで持ってきれくれ、とウェイターに頼んだ。短編を一つ書き終えると、きまってセックスをした後のような脱力感に襲われ、悲しみと喜びを共に味わうのが常だった」

高見浩訳「移動祝祭日」より

彼は全精力を創作にそそぎこむ。どれぐらい精力をそそぎこむのか? 

ヘミングウェイの「武器よさらば」は、17回書きなおし、最後のシーンは50回も書きなおしたという。そして、できあがった最終章の肝心かなめのシーンは、――

 

「いまはお入りにならないで」看護師の一人が言う。

「いや、入らせてもらうよ」

「まだ、いけません」

「あんたのほうこそ出ていってくれ」ぼくは言った。「もう一人も」

しかし、彼女たちを追いだし、ドアを閉めて、ライトを消しても、何の役にも立たなかった。彫像に向かって別れを告げるようなものだった。しばらくして廊下に出ると、ぼくは病院を後にして、雨の中を歩いてホテルにもどった。

高見浩訳「武器よさらば」より

 

看護師との問答から、亡くなったキャサリンに別れを告げ、病院を出てホテルに向かうまでのあいだ、もっともっと主人公のこころは揺れていたはず。ヘミングウェイは主人公のそういう内的心理を描かないのだ。ごくごくあっさりと描かれている。

ぼくの目の前にいる彼女は、その話を聞いて、

「すてきよね」といった。

じっさいのヘミングウェイにとって、ハドリーは年上の女で、1921年12月、ハドリーとともにヘミングウェイはパリにわたった。ヘミングウェイ22歳、ハドリーは30歳だった。

「田中さん、年上の女性にあこがれたこと、あります?」と彼女はきいた。

「ええ、あこがれましたよ。もうずーっと前ですけど」

「どんな人?」というので、ぼくは自分のいなかのことをちらっと想いだしたけれど、その話はいわず、上京したてのころの話を切りだした。

「女性週刊誌を毎号とってくれている女性。皇室の話をしきりにいう女性でした」といった。ぼくは新聞配達をしていた。朝刊を配ると、週刊誌の配達もしていた。

「その人、何歳ぐらい?」ときいた。

「40歳か、45歳か、まあそんな感じの人」といった。

「へええ、わたしとおなじぐらいね。その人、どんな人?」とまた彼女はきいた。銀座1丁目のあるビルの1階の小さなオフィスで、いつも留守番みたいにして、デスクに座ってタイプライターを打っている独身女性です、といった。彼女は三波春夫が好きで、ちょうど向かいに、三波春夫の事務所があった。そこでも女性週刊誌を購読してくれていた。

「タイプライター打っている人? なんとなく、想像できるわ」と彼女はいった。

週刊誌をとどけると、彼女は学生のぼくに、なにかと話しかけてきて、話を長引かせたりして、菓子やお茶なんか出してくれて、

「あなたに手紙を書こうかしらっておもってたわ」という。手紙なんか、いちどももらったことがない。

「あなた、彼女いるの?」ときくんだ。

「いません」というと、

「わたし、小倉の人間よ。あなたのいなか、北海道とは、ぜんぜん遠いわね」といった。

「でも、北海道は好きよ、行ったことあるわよ、若いころ」といった。それで、ぼくは北海道の話をし、ヘミングウェイの話をし、

「またきます」といって別れた。

「さびしくなったら、おいでね」と彼女はいった。

それから、一週間にいちどの割りで会うことになった。彼女の給料日、銀座のレストランに招待されて、映画を見た。「アラビアのロレンス」という映画だった。ロマンチックな映画ではなかったけれど、それから、彼女は給料日になると、ぼくを誘った。すると、彼女はお化粧してあらわれた。ヘアのスタイルも急に変わった。

「一週間、どうだったの?」と彼女はきいた。「げんきだったの?」

ぼくはさびしくなんかなかった。

「それって、彼女のほうこそ、さびしかったんじゃないの?」

いまになっておもえば、そうだったかもしれない。

「じゃこんどはわたしの話、聞いて」と彼女はいった。なんだか知らないけれど、自分の夏は、短すぎたというような話をしていた。映画みたいだ。あっという間にわたしの青春は過ぎていきました、と彼女はいった。

「――それは、ぼくにもいえます」とぼくはいった。で、「どんな青春?」ときいた。

「わたしの青春を、めちゃめちゃにした男の話なの」という。ほんとうをいうと、わたしは彼を好きではなかった、まあそんな話だった。強引に引っ張りまわされて、6年後、捨てられたという話だった。バブルがはじけたとき、わたしの恋もはじけたわといっていた。

「女性として、いちばん美しいとき、わたしは男におもちゃにされたの。でも、彼のこと、いまも忘れられなくて、……」という。

会社では彼はやり手で、抜け目なく営業成績をあげたけれど、何事も強引だったわという。彼のことを好きにはなれなかったけど、その強引さが女には魅力だったわといった。

「けっきょく、わたしは恋に落ちたんじゃなくて、彼の男らしい強引さに惹かれたの。あなた、わかります?」

「ええ、わかります」とぼくはいったが、ほとんどわからなかった。「ヘミングウェイもそうだったようね」と彼女はつけ足した。

「そうね、……。でもそうかな。彼は4人の妻を迎えたけれど、最初の妻ハドリー、34年前に別れた妻ハドリーにですよ、電話しているんですよ。お別れの電話じゃなくて、ハドリーと暮らしたパリ時代のことをね、ちょっと聞きたくてなって」

そのときは、ハドリーはすでに別の男と結婚していた。

電話を切ると、彼女は「わーーっ」と泣き伏した。アーネスト・ヘミングウェイの生の声を聞いて、彼女はたまらなくなって泣いた。

「その人のこと、そんなに忘れられないの?」とぼくはきいた。

「ええ、悲しいけれど、そうなの」という。でも、彼女はぼくよりうんと強い女だ、とおもっている。たいていの男は失恋すると、3ヶ月は立ち直れないだろう。だが、女は、泣くだけ泣けば、プラットホームですーっと立ち上がり、しゃんと背筋を伸ばして、もと来た改札口を堂々と抜けていく。