「不」について。たゞ熱きより…

  島崎藤村。――彼の 小諸時代。

 

  きょう土曜日、事務所で小説「不倫」を書きあげた。これを読み返していたら、来客があり、べつの話になった。

先日来、不倫疑惑が報じられている自民党の宮崎謙介衆院議員の釈明会見についての話題におよんだ。さきごろ、ぼくは動画で、19世紀フランス文学と不倫についてのおしゃべりをしている。いま、不倫はよくない。人の道にはずれる。でも、男はどこかで妻の目をぬすんで、不倫をしている。

そしてヨーコがやってきて、

「あら、こんにちは。何、話してるの?」ときく。よせばいいのに、

「不倫の話ですよ」と彼はいった。

「朝からまた、なんですか? 足、治りました?」

「とうに、治りましたよ」

「元気になったのね? だからそうなの?」ときく。

「――いや、あたたかくなって、ラ・メゾン・ブランシュにでも行ってみるかとおもってね、こうさんと、コーヒー飲んで、おしゃべりしたくなったんですよ」と彼はいう。

「奥さま、お元気? しばらくお姿見ないけど、……」

「元気ですよ」

 

 

左が作家の伊藤整さん、右が文芸評論家の平野謙さん。この写真は昭和40年ごろと思われる。平野謙教授の研究室に顔を出すと、よくこんなふうに来客がいた。自分はそのころは学部生で、二葉亭四迷を読んでいた。

 

  デスクの上にある「不倫のリーガル・レッスン」(新潮新書、2008)という本を見て、ヨーコはまたいった。

「お父さん、やめてくださいよ、こんな本読んだりして!」という。黙っていると、彼がいった。

「奥さん、作家は、不倫を読むだけでは小説は書けませんよ。実践しなくちゃ」

「え? それもそうね、……」といってから、「花買ってきた。どう? きれいでしょ?」といった。

小説はなかなか苦労する。ぼくは、職業作家にならなくてよかったとおもっている。

「――そうよ。あなたは作家にはなれないわ。……」

ヨーコは、なんてひどいことをいうのだろう。作家にはなれない! たぶん、そうだろうな。彼女の予想はあたっている。プリントした小説原稿を、これから読み返すのもたちまち億劫になった。

 

口唇(くちびる)に言葉ありとも

このこゝろ何か冩さむ

たゞ熱き胸より胸の

琴にこそ傅ふべきなれ

 

これは藤村の初恋の詩だ。

彼の本名は、島崎春樹という。詩人・作家として明治の時代にたいへん活躍した。ぼくは、学生時代に文芸評論家の平野謙教授からいろいろと教わっている。平野謙さんの著書に「島崎藤村」がある。

                          ♪ 

明治5年(1872年)、――といえば、いまから144年前ということになるが、彼はその年に長野県の宿場町・馬籠に生まれた。明治30年に刊行した詩集の「若菜集」によって詩人としての名声があがり、のちに近代詩史上大きな功績を残した。

この詩は、明治26年8月と10月に、それぞれ1ヶ月ほど円覚寺の帰源院で過ごしたときの情景をうたったものである。教え子との実らぬ恋に彼は苦悩し、およそ半年におよぶ関西漂泊の旅から帰った藤村は、その帰源院で、これらの詩を書いた。

しかし、こころは癒されず、ふたたびこんどは東北への旅を決行する。

そして、ふたたび帰源院にもどり、こんどはべつの詩を書く。こうして次に書いた散文が、藤村の自伝的な小説「春」という作品であった。教え子との実らぬ恋の物語は、この小説にちゃんと描かれている。

 

たゞ熱き胸より胸の

琴にこそ傅(つた)ふべきなれ

 

最後の2行は、すばらしい。――そして、「……傅(つた)ふべきなれ」と彼は書き、藤村は、小説というかたちで彼女への愛を告白している。

恋に破れて4年後に詩を書き、5年後に小説「春」に書いたことになる。「春」は、明治41年、東京朝日新聞に連載され、「破戒」につづき、「春」もまた「緑陰叢書」第2編として、自費出版している。

第1編は、いうまでもなく「破戒」である。

この作品には3人の青年が登場する。

3人とも文学仲間である。ひとりはおそらく北村透谷であろう。北村透谷なくして藤村の文壇デビューは果せなかった。

彼らは事業でも恋愛でも、なにごとにも時代に先んじていたため、青年の悲哀を味わう。主人公の「岸本」は、おそらく北村透谷にちがいない。彼は高い理想に取り憑かれ、現実との矛盾に絶望し、東京・芝公園で自殺する。――北村透谷が自殺したのは、明治27年5月16日であった。公園の、ある家の庭先で、首を吊って死んだ。25歳だった。

友人たちは芸術の鑑賞家になり、岸本ひとりが生活の重荷にめげず、初志をつらぬこうとする。「青木」は、親や兄弟、家よりも、自分がいちばん大事だとさとって、友人の死後、ひとり東北の女学校に赴任する。

これは、主人公の現実逃避として写り、当時は、作品はかんばしいものではなかったが、しかし藤村はこういう現実を赤裸々に描いた。――この作品を高く評価されるようになったのは、先にのべた平野謙さんや伊藤整さんたちの再評価によっている。こうした近代日本文学の再評価のおかげであろう。

伊藤整さんはのちに、雑誌「群像」に、「日本文壇史」を連載し、当時の藤村の身の振り方のすさまじさに触れている。のちに全18巻にまとめられ、ぼくはその全集本を読んで知った。

藤村は生涯、北村透谷の洗礼を受け継いできた。「夜明け前」では、主人公の青山半蔵が発狂まえに、夜半の天空にむかって感慨にふける描写は、北村透谷そっくりに描かれている。

 

小諸なる古城のほとり

雲白く遊子悲しむ

緑なすはこべは萌えず

若草も籍()くによしなし

しろがねの衾(ふすま)の岡辺

日に溶けて淡雪流る

 

あたゝかき光はあれど

野に満つる香も知らず

浅くのみ春は霞みて

麦の色わずかに青し

旅人の群れはいくつか

畠中の道を急ぎぬ

 

暮行けば浅間も見えず

歌哀し佐久の草笛

千曲川いざよう波の

岸近き宿にのぼりつ

濁り酒濁れる飲みて

草枕しばし慰む

 

明日またかくてありけり

今日もまたかくてありなむ

この命なにをあくせく

明日をのみ思ひわづらふ

この岸に愁いを繋ぐ

 

この歌は、高校生のときに暗記した。いまでも、すらすら出てくる。――ああ……、70年、夢のごとしである。