ほとばしるナジーの彩言語。D・H・ロレンス。

 
 イギリスの作家D・H・ロレンス。

  きのうは、パウロ・コエーリョの「11分間」という小説について書いた。ぼくはこの記事を書きながら、「セックスなんて11分間の問題だ!」と書かれているこの小説の深層に潜む《ネイチャー》という人間のサガについて深く考えようとした。

すると、そこに浮かんできたのがD・H・ロレンスだった。

ロレンスのことを、われわれは誤解している。誤解されるべき作家だということ。加島祥造氏は、彼の文学を「迸(ほとばし)るエナジーの色彩言語」といっている。見たこともないような、彼特有の色彩言語なのだという。けだし、これは当たっていよう。

ロレンスといえば、日本では「チャタレイ裁判」という事件で、猥褻小説を書く作家だという、拭うことのできない歴史的にも根深い印象を持ちつづけている。だれもがそういう目で彼の小説を読むことだろう。これはたいへん不幸なことである。じっさい、だれもが「チャタレイ夫人の恋人」が発禁処分になったことを知っている。

しかし、いま読み返すと、果たしてどうだろうか。

どこが発禁処分になるほど猥褻なのだろうか。

ここでいう「猥褻」は、ロレンスの色彩言語に翻訳すれば、人間の「ネイチャー(サガ)」なのだ。「迸るエナジー」なのだ。しかしそれは、長いあいだタブーだった。ほんとうはそうなのだが、ヴィクトリア朝時代のキリスト教道徳主義の色濃く残るイギリスにあっては、タブーとされ、ずっと覆い隠されてきた。だからロレンスは、いつの時代にあっても異端児として、時代の潮流に逆らいつづけてきた。いまはたしょう色褪せたが、彼の「性の哲学」は依然として健全で、力づよく生きつづけている。彼を超える文学は生まれていない。

ぼくはそのようにおもっている。

だから、ロレンスは画家でもあって、絵のなかにエロスにあふれた男女が多く描かれた。彼の裸体画に男女の性器を描いたのはとうぜんで、これを見た人びとはそれは下品だ、不潔だといい、自然が生み出したそのままの人間のありようを、まともに見ようとはしなかった。ねじられた、いんちき臭い芸術のほうを歓迎し、性をおもわせるものを覆い隠した品()の良い絵画を好んだ。

しかし、ほんとうは違うということを知っていながら、ロンドンの場末の酒場で酒を酌み交わしながら、労働者階級の人びとは、ロレンスのように、ほんものの話をしたに違いない。彼らのいう「品のない」猥談として。

「ほう、大いなるネイチャーですね」と友人はいった。

「そうです、大いなるネイチャーです。懐の深い大いなるネイチャー。そのネイチャーとやらに接触したくて、娼婦を買うわけですよ」とぼくがいうと、

「また出ましたね、娼婦が」

「ロレンスにとってフリーダは、娼婦みたいな存在で、大学教授の奥さんで、その彼女を、恩師ウィークリー教授から奪ってしまったんですから」

「その女性は、さぞ幸せだったでしょうな。奪われるほど愛されて、……」

 

すぐに後悔がきた。自分は

なんという下劣で、愚劣で、

意地の悪い行為をしたんだ。私は

自分をはげしく軽蔑し、また

自分のなかの道徳教育の声を呪った。

D・H・ロレンス「蛇」より

ぼくには、人の妻を奪った経験はないのだけれど、生き別れた女性を奪った経験がある。多少、彼女にあわれみをおぼえたからかも知れない。はじめてレストランで食事をしたとき、この人は、ぼくの妻になるだろうと直感した。事実そのとおりになった。

「いっしょに住むかい?」というと、

「はい」といった。気がつけば結ばれて、ロレンスのいう「ネイチャー」そのものになった。物語にもならないくらいあっけらかんとしていた。そして12年になる。それがヨーコである。そこには、ロレンスのいうような小むずかしい哲学は何もなく、俗物そのものなのだ。逆にいえば、ネイチャーに屈服してそうなったともいえる。いまさらながら、ネイチャーの凄さに圧倒されている。