ぎ去らない去。


 

  ぼくはジュリアン・バーンズの「終わりの感覚」(
土屋政雄訳、新潮社、2012)という小説を読んでいて、北海道のむかしのことを思い出した。そこには過去が描かれている。というより、過去は取り戻せるだろうか? と問いかけて、さまざまな希望を乗せてむかしのことを振り返る。その話が書かれている。

そういえば、S・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」という小説にも、過去の恋人デイジーを追いまわす男があらわれ、悲劇的な最期を遂げる話が描かれている。これって、川が逆流するみたいな話だ。過去が現在に生き返って復讐するみたいな物語なのだ。ほとんどあり得ないような話。川は永遠に過去へは流れない。そんなふうにおもえる。が、しかしほんとうだろうか。

みんな、いまを生きているっていうのは、過去を背負って生きているのではないだろうか。過去が、いまの自分を決定している、そんなふうにおもえる。

丘の向こうに青い空があって、丘の下のほうで、麦わら帽子をかぶって鎌を持った農夫がひとり歩いているのが見える。街道には車が一台も通っていない。ここからはペンケの森も見えない。子どものころ、ラジオ体操をしたペンケの森。平野のずっとむこうに、山の尾根がかすんで見える。

お寺の赤い屋根、小学校の校舎、いまはもう使われなくなった火の見櫓(やぐら)のうえに吊した打ち鐘、そのむこうにひろがる農場。ここからは、やわらの街がパンフォーカスに、何もかもむかしのように見える。その街は、父さんたちがつくった街だ!

――父さん、ぼくはいまナターシャに会ったよ。あれはナターシャだ。

あの少年は、ぼくだったよ。花火をもった少年は、ナターシャとバスから降りて、墓地のほうに行ったよ。

父さんはきっと、見まちがえるでしょうね。彼女はヘアを黒く染めてるし……。妻は、今年もひまわりを植えたよ。ぼくのことがわかるようになったよ。

ひまわりは大きくなったよ、父さん。

北海道のいなかの街やわらは、ひまわりの街だ。空をいっそう青く染めるひまわり。

ある夏休みの朝、ペンケの森のお寺の境内でラジオ体操をした。近所の小学生は全員、お寺の境内にあつまり、6年生のいうことをきいて、体操していた。出席するとカードに赤いハンコを押してくれた。いつも「お姉さん」と呼んでいるロシア娘のナターシャもいっしょについてきて体操していた。

彼女が17、8くらいのころだった。

体操が終わって帰ろうとしたときだった。街のほうから飛行機が飛んできた。低空飛行で屋根のうえすれすれに、轟音とともに大きな機体が腹を見せて姿をあらわし、静かな朝の空気をゆさぶった。

機体のお尻から白いひらひらするものを吐き出しているのが見えた。それは帯のように浮かんでいて、やがて空のうえで散り散りになっていくのが見えた。朝日にあたってきらきらしていた。

飛行機は街道にそって、西のほうへ飛んでいった。

お寺の境内にいた仲間たちが走りだした。それを見ていっしょに走ろうとしたとき、仲間のひとりが飛行機めがけて境内の砂をパッと投げた。それが運わるく、風下にいたぼくの目に入った。

「お姉さん、目がいたい!」

といって、ぼくは目を押さえながらお姉さんのほうに駆け寄った。

お姉さんは「どうしたの?」といって、ぼくを抱えこむようにして、「見せて!」といった。彼女は目のなかをのぞきこんだ。

「はやく取って! お姉さん」といって、ぼくは叫んだ。お姉さんは、袂(もたと)から手ぬぐいを取りだして、はしを口のなかでぬらし、目の縁をぬぐった。「いたいよ、お姉さん。はやく取ってよ!」

「黙ってて! 動かないで!」といって、おなじようにくりかえした。砂は取れなかった。

「おっぱいで取ってよ! 母さんみたいに……」とぼくはいった。ぼくは泣いていたけれど、涙でも砂粒は流れ出なかった。

母は病気だったけれど、母が元気なころ、田んぼに出ていてぼくの目にごみが入ったとき、母はおっぱいでごみを取ってくれたことがあった。母はいきなり胸をはだけておっぱいをつまみ出すと、乳首を目にくっつけるようにして絞ったんだ。

すると白い乳液がピューッと出て、目が真っ白くなった。

風景まで白くなり、はじめはおかしい感じがしたが、乳液でごみが洗い流された。そのときの母の機転は、幼いぼくを感動させた。

「おっぱいはないよ」と、ロシア娘がいった。

「あるじゃない!」と、ぼく叫んだ。

ぼくはロシア娘の胸にむしゃぶりついて、おっぱいを欲しがった。胸の膨らみをつかんで、「これでおっぱいを出してよ!」といった。

「お姉さんは子どもだから、おっぱいは出ないのよ」

「うそだ! やってみて」とぼくは叫んだ。「はやく、やってよ!」

「わかったわ」といって、彼女はしぶしぶイチイの木の影にしゃがみこみ、片方の浴衣の袖を脱ぎ、胸を出して乳房を見せた。

白い肌がきれいに見えた。乳房は膨らんでいたけれど、母のように大きくはなかった。それに母のように青い筋になった血管も見えなかった。乳首はまだ小さくて、桃色をしていた。「やってみて!」といった。

お姉さんはひとつの乳房を両方の手で絞ってみた。出そうな気がしたけれど、出てこなかった。

「ほら、出ないわよ」

「そんなことない!」

「だって、出ないもの……子どもだから」

お姉さんの乳房は真赤になってきたけれど、母の乳房よりも白かった。ナターシャは、「ごめんね」といって、自分のつばで目を洗ってくれた。砂が取れるとじきに楽になった。

それからふたりは走った。

飛行機が飛んだ航跡が跡かたもなく消えていて、きらきらして光っているものが、風に流されてずっと向こうの田んぼのうえに舞い落ちるところだった。ぼくらは、近道するためにあぜ道を走っていった。川の土手のあたりにも落ちてきた。ひらひら舞い落ちてきたのは紙切れだった。何が書いてあるのだろうと思った。ふたりは川の土手のほうにいった。そのまわりに生えているイタドリの葉っぱにも乗っていた。それを取ろうとして、ぼくは川に落ちた。

川は深くはなかったけれど急流で、押し流されそうになった。ぼくのうしろからお姉さんが川に飛びこんできた。お姉さんが飛びこんだところは深いところだった。お姉さんがおぼれると思って、ぼくはお姉さんの浴衣の腰にしがみついた。

少し水を飲んだ。

ふたりは流されてコンクリートの護岸のある壁につかまった。

真上に用水路の樋(とい)のあるところだった。樋から水がぽたぽた川に落ちていた。木々のあいだから洩れてくる太陽がいくつにも散らばって見えた。お姉さんは、護岸の壁がつきたあたりにある柳の小枝につかまった。そこは木の茂みの影で暗くなっていた。彼女は、ぼくの腕をしっかりつかんで、「ゆき坊、がんばるのよ!」と叫んだ。

お姉さんは、片手で自分の浴衣の帯を解くと、それをぼくのからだに巻きつけた。そして、川岸をよじ登っていこうとした。

お姉さんのお尻がゆれて、からだがぼくのうえにずり落ち、ふたりとも川に背面から音をたてて落ちた。ぼくも水に沈んだ。沈んだ耳のなかで、お姉さんの叫ぶ声が聞こえた。水のなかはべつの世界だった。これが魚の世界なのかと、ぼくははじめて思った。

朝日が見えた。

きらきらして、まぶしいくらいだった。彼女は柳の小枝につかまり、べつのルートを探してよじ登っていった。丈の短い笹ささがたくさんあった。ホウの木やクマゲラが好きそうな橅(ぶな)の木があった。ロロロロロと聞こえるクマゲラのドラミングの音は、このあたりでしていたのかもしれない。

彼女は、土手にあがると、笹を掻きわけて農道のほうに歩いていった。

父が向こうから歩いてきて、いきなりナターシャの頬を打った。

「ナターシャ! おまえたち、川で何をしていたのだ。おまえたちの姿が見えたのできてみると、これはなんだ!」と、父はいった。

もう遠い過去の話だ。ずっと遠い過去の話だ。

そんなことを、いまなぜ思い出すのだろうとおもった。このあいだ、マンションにいる小学生の話を聴いたからかもしれない。それにしても、まだ過ぎ去らない過去があるっていうことだ。60年もまえのことが、とってもリアルに、恐ろしいほど鮮明に思い出されてくる。