ある学的データ。

異の格差社会を描く。

ぼくは、数学者についてわかろうとすればするほど、狙った的からどんどん遠ざかってしまう。ぼくが描く的は、もしかしたら的ではないのかもしれない。このジレンマは、いつもぼくの思考をじゃましている。彼らを夢中にさせている研究のおもしろさをのぞいてみたいとおもいながら、彼らの理論を開いてながめようとするのだが、いっこうに定かな像を結んでくれない。

ロイド・シャプレー、フォン・ノイマン、ジョン・フォーブス・ナッシュ、――みんな一時代を築いた一流の数学の研究者なのだけれど、アンドリュー・ワイルズのような明快な輪郭を描いてくれない。

どうしてなのだろうとおもう。

なかでもチャールズ・サンダース・パースは、難解な生涯、世間の常識を逸脱したような――そういっていいほど、常識ではとうてい理解できない極貧の生涯を送っている。

そして、残された膨大な遺稿は、まだ未整理のまま、だれの目にも触れることなく眠っているというのだ。彼は、現代アメリカのプラグマティズムの基礎におおきく貢献しているのである。

こんなお粗末な物語があっていいのだろうかとおもう。ぼくは初心にもどって考えようとしたとき、ふと、こんなことをいう記事に出会った。

「数学者はいずれも、ふたつの異なった世界に住んでいる。いっぽうでは、完全に精神的で透明な世界に住んでいる。つまり、氷の世界のようなものだ。だが同時に、すべてがはかなく、曖昧で、変化してやまない常識の世界にも住んでいる。数学者は、このふたつの世界を絶えず行き来している。彼らは精神の世界ではりっぱな大人であるが、現実の世界では何もできない赤ん坊にすぎない。」(S・カペル「数学研究新報」、1996年。シルヴィア・ナサー「ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡」塩川優訳、新潮文庫、2013)

この本は、ジョン・ナッシュの物語を描いたものである。

ナッシュの生涯は、まるで奇跡の生涯だ。

だからドイツ生まれのシルヴィア・ナサーは、その本に「A Beautiful Mind」と名づけたのだろう。

彼女は「ニューヨーク・タイムズ」の経済記者として活躍。現在コロンビア大学大学院ジャーナリズム科で教鞭を執っている。

ナッシュは恐るべき早熟な頭脳をもち、21歳で経済学に革命的な進歩をもたらす「ゲーム理論」を打ちたてながら、統合失調症という難病を発症。30年以上も闘病生活を送ったのち、奇跡的なカムバックを遂げると、ノーベル経済学賞にかがやいた。

この天才数学者の軌跡は、人間存在の深淵を窺わせるにじゅうぶんなボリュームをもって鬼気迫る物語をもっている。それでも、ぼくには彼の数学はわからない。

やさしくいえば、「世界の知の大海に漕ぎ出す」勇気を必要とする本のようだ。しかし、これだけはいえる。

若くて野心的な数学者ジョン・ナッシュは、フォン・ノイマン理論のヒビ割れと欠陥には、だまって見過ごすことができなかったという大いなる動機があった。

それは、こうもいえるかもしれない。

若きアインシュタインにとって、光が粒子であるとともに波でもあるという伝播のもとに仮定されたエーテルが、その実在を疑わせる対象であったのとまったくおなじだったかもしれないのだ。

ナッシュは、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンが、新理論のもっとも重要な実験についてのべた問題を検証していくところから、彼の理論の追求がはじまった。恩師であり、あの大天才ノイマンをむこうにまわして闘いを挑んだのである。

だれもがフォン・ノイマンに引きつけられていたとき、ノイマンは30歳で、すでに純粋数学の巨人であり、物理学者、経済学者、兵器の専門家、コンピュータの予見者と見なされ、150の論文を書き、うち60が純粋数学、20が物理学、60が統計学やゲーム理論をふくむ応用数学だった。1957年にがんで倒れたとき、人間の脳の構造についての研究をすすめている最中だった。

そのころ、ケンブリッジ大学のG・H・ハーディは、ノイマンとは対照的な数学者で、政治を毛嫌いし、詩や音楽の美を愛するように、数学の美をもとめ、ひたぶるに数学上の美しさを追求する純粋数学者だった。

だから天才ラマヌジャンの定理に魅せられたのだ。

その上をゆくアンドリュー・ワイルズは、純粋数学の権化みたいな「フェルマーの最終定理」の証明に挑んだ。

応用数学から見れば、じっさいの暮らしにはなんの足しにもならないし、証明に成功したからといって、ノーベル賞の対象にすらならない。だが、数学界では20世紀の最大級の賞賛を受けた。350年の幾星霜の時をこえて証明されたことは、賞賛に値する。かつ、くわえて、その足場をつくった「谷山・志村予想」は、もっと賞賛され、その「予想」を証明するために、世界の数学者たちの果敢な挑戦がおこなわれている最中なのだ。

しかし、ナッシュの興味は、そのような数学ではない。恩師ノイマンにより近かったといえる。――というより、ノイマンの理論から生まれたようなものだった。

そのノイマンはいう。

つまり、――「われわれは従来とはまったく異なる観点から研究することで、交渉問題にたいする真の理解を得たいと願っている。すなわち「戦略のゲーム理論」の観点である。」(フォン・ノイマン&、モルゲンシュテルン「ゲームの理論と経済行動」第2版、1947年)とのべた事柄を、まっこうから否定する理論から出発したのである。

ゲームというからわからなくなるが、これはゲームという名の交渉数学ではなく、このゲーム理論は、経済学の分野の話だとおもえばいい。

だれにも研究のスタートには、それぞれの動機がある。

しかしぼくは、このように魅せられるものを目の前にして、どうすることもできない。いくたの記述を読みふけり、62歳だったぼくは、いま73歳になり、はたして理解できるだろうか、とおもっている。

いままた「21世紀の資本」を書いたフランスの経済学者、トマ・ピケティ氏が、日本をふくむ世界20か国以上の税金の300年間のデータを基にして、「所得」や「資産」を分析し、資本主義の下での格差の拡大をデータで実証した経済書が話題になっている。

これは統計学の分野だけでなく、おもいも拠らない新分野の経済学だ、とおもえる。歴史の推移と資本主義の推移をとらえた富める者とそうでない者の推移でもあり、とっても衝撃的な本だ。

これを読むかぎり、これまでの経済学はなんだったのだろうとおもう。ますます格差社会のひろがりを見せつつある世界が、そこに描かれているからだ。

ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センは、貧困を「潜在能力を実現する権利の剥奪」と定義した。

飢餓のない世界の実現のために「ハンガーゼロ」運動を推進している日本国際飢餓対策機構の発表によれば、いまも世界で9億2500万人が、食べるものがなく「飢餓」で苦しんでいて、世界の7人に1人、アフリカ全体で3人に1人が飢えていることを訴えている。アジア・太平洋で5億7800万人、サハラ以南のアフリカで2億3900万人、中東・北アフリカで3700万人、ラテンアメリカ・カリブ海で5300万人という数字だ。

かつて戦争で亡くなる人は、多く見積もって6300万人弱だったとおもう。貧困で亡くなる人は、世界で毎年3000万人を超えているのだ。ユニセフの発表によれば、5歳未満の子どもが貧困と病気で亡くなる人は毎年660万人と発表している。10年間で6600万人になる。毎日1万8000人の死亡だ。そのいっぽうで、富める人は全体の1パーセントにも満たないが、その1パーセントが国を動かしているのだ。残りの99パーセントが、1パーセントを、より富める者に支えている図式になっているのである(ジョセフ・E・スティグリッツ「世界の99%を貧困にする経済」徳間書店、2012年)。

経済学者トマ・ピケティ氏の本、――「21世紀の資本」(みすず書房、2014年)を読んで、ぼくは「自由」と「平等」について深く考えさせられたが、これまでの不平等の構造をあざやかに描き出し、不平等の歴史は、純粋に経済的な決定論ではないのだとのべている。

それは政治なのだというのだ。

すべてが政治と、その時代に選択される制度によって引き起こされるものだといい、それこそが、不平等を増す力と、減らす力のどちらが勝つかを決めているのだというのである。数学自体は、純粋でビューティフルなものだが、数学や統計データで見る世界は、不平等の何者でもない。