ンラッドとS・ィッツジェラルド。


 The Great Gatsby

  先日、若い人とお話していて、「《源氏物語》を読んだので、ちょっとここらで、村上春樹の小説を読んでみようかっておもってます」という。彼は現代語訳の「源氏物語」を読んだわけだ。

ほほー、こんどは、村上春樹?

「売れてるそうですね、村上春樹の小説。田中さんは興味ありますか?」ときいてきた。

「そうね、むかしは読んだけど、さいきんは彼の翻訳本を読んだりしていますよ」といった。

「どんな本ですか?」というので、一冊、何がいいか考えてみた。ぼくが紹介する本は、彼はぜんぶ読んでいる。

「翻訳本でいえば、……S・フィッツジェラルドの《ギャツビー》がいいね」といった。そして、「最高にいい本だよ。この本は、30歳くらいまでに読むといいね」とつけ足した。

「30歳? だったら、ぼくにはまだ時間がありますね」

「ドストエフスキーは19歳までに読んでおく。ヘミングウェイは25歳までに読んでおく。S・フィッツジェラルドは30歳までに読んでおく、……まあ、そんな感じかな」と、ぼくはいった。

ぼくは自分の書いた小説に、ときどき臆病になることがある。何もおそれることはないのに、「これでいいのだろうか」とおもうことがあって、そういうとき、ぼくはS・フィッツジェラルドの「ギャツビー」を読む。読んだからといって、何か自信をもって前に漕ぎ出すようなものを感じるかというと、そういうものはない。ただ、前のめりになって書いていたぼくに、ちょっとばかし立ち止まって、何かを感じさせてくれるところがある。

フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」ほど苦心惨憺のすえに書かれたものはないかもしれない。それは信じていいようだ。そうおもうと、もういっぺん彼の作品を読んでみようという気になる。

1924年5月3日、フィッツジェラルドはパリ向けてニューヨークを後にする。

フィッツジェラルド夫妻のヨーロッパ生活は2年半におよび、パリではヘミングウェイにも会っている。ニューヨークで知り合った作家ラードナーは、ヘミングウェイとはちがって、なにごとも控えめで、酒を飲みながら夜を徹して文学の話に興じる。ラードナーは表面的にはとても饒舌で、いんぎんだったが、彼にはヘミングウェイとはちがった不敵なプライドがあり、批評精神が旺盛な男だった。

そのころ飛ぶ鳥を落とす勢いのあったコンラッドの邸宅におとずれたりして、ふたりは陽気になってダンスを踊ったりした。これは、敬愛するコンラッドの目にふれさせることが目的だったらしい。

このころのフィッツジェラルドは、コンラッドの小説にかなり入れ込んでいて、母校のプリンストン大学のヒベン総長に向かって、ドライサーやコンラッドの小説について弁じまくったのは、そのあらわれだろう。

それ以前に出たコンラッドの小説「ノストローモ(Nostromo)」は、サッカレーの「虚栄の市」以来の大傑作と評し、S・フィッツジェラルドは最大の賛辞をおくっている。南アメリカの小国、その革命的な時代を背景に,砂塵うずまく街の、なにもかも混沌とした無軌道な社会を語り、純潔ただしい生き方をする人間の、なんとわびしい世界なのかと気づかせる小説。もっともコンラッドらしい長編小説である。

コンラッド研究がすすみ、さいきんでは「ノストローモ」が評価され、いまでは彼の代表作になっている。その小説をいち早く認めた若きS・フィッツジェラルドは、自分の師と仰ぐほどの熱の入れようだった。

ヨーロッパにわたったフィッツジェラルド一家は、パリで数週間を過ごしたのち、7月にはサン・ラファエルに家を借り、そこで新しい小説の執筆に専念した。そしてその10月27日、原稿が完成すると、モダン・ライブラリー版の序文のなかで、「これを書く10ヶ月間ほど芸術的良心を純潔に保とうとしたことはなかった」と書いた。それほど彫心鏤骨(るこつ)の洗練された彼の文章は、ぼくはほかに知らない。S・フィッツジェラルドの最高傑作が誕生した。

そうしてできあがったのが「グレート・ギャツビー(The Great Gatsby)」だった。

その味わい深い文章は、いくたの翻訳家たちによって日本語で読める幸せをいつもかみしめている。原文の美しさはいうにおよばず、ギャツビーの狂想を描いてみごとである。

 

「あいつらはくだらんやつらですよ」芝生ごしにぼくは叫んだ。「あんたには、あいつらをみんないっしょにいただけの値打ちがある」

これを言ったことを、ぼくはいつもうれしく思いだす。これが後にも先にもぼくが彼を褒めた唯一の言葉だった。ぼくは最初から最後まで、彼を認めなかったのだから。はじめ彼は、つつましくうなずいていたが、それから、にこやかに相好をくずし、最初からぼくたち二人の間ではひそかにその事実を認め合って悦に入っていたように、あの得心顔の微笑を浮かべた。華麗なピンクの絨毯(じゅうたん)を思わす彼の洋服が、石段の白の上に、ぽとりと落ちたあざやかな絵具のようで、ぼくは、三カ月前、はじめて彼の時代風な屋敷を訪れた夜のことを考えた。あのときは芝生も庭径(にわみち)も、彼の背徳を推測する人びとで埋まっていた――そして彼は、あの段々の上に立って、不朽の夢を隠しながら、彼らにむかって別れの手を振っていた。

ぼくは彼にむかい、手厚くもてなしてくれたことを感謝した。その点では、ぼくたちは、いつも彼に感謝していた――ぼくも、それから他の人びとも。

「さよなら」ぼくは大きな声でそう言った。「朝ご飯、楽しかったよ、ギャツビー君」(野崎孝訳)

They're a rotten crowd,”I shouted across the lawn.”You're worth the whole damn bunch put together.”

I've always been glad I said that. It was the only compliment I ever gave him, because I disapproved of him from beginning to end. First he nodded politely, and then his face broke into that radiant and understanding smile, as if we'd been in ecstatic cahoots on that fact all the time. His gorgeous pink rag of a suit made a bright spot of color against the white steps and I thought of the night when I first came to his ancestral home three months before. The lawn and drive had been crowded with the faces of those who guessed at his corruption ――and he had stood on those steps, concealing his incorruptible dream, as he waved them goodbye.

I thanked him for his hospitality. We were always thanking him for that――I and the others.

Goodbye,”I called. “I enjoyed breakfast, Gatsby”

 

いまや海沿いの大きな邸宅はたいていが閉鎖されていて、「海峡」を渡る連絡船のぼんやりした灯が動いているほかには、ほとんど灯らしい灯は見えなかった。そして、月がしだいに高くのぼって行くにつれて、その辺の消えてかまわぬ家々の姿は消え失せ、かつてオランダの船乗りたちの眼に花のごとく映ったこの島の昔の姿――新世界のういういしい緑の胸――が、徐々に、ぼくの眼にも浮かんできた。いまは消滅したこの地の叢林(そうりん)が、かつてはさやさやと、人類最後の、そして最大の夢に誘いの言葉をかけながら、ここにそそり立っていたのだ。この大陸を前にしたとき、人間は、その驚異を求める欲求を満たしてくれるものとの史上最後の邂逅(かいこう)を経験し、自分では理解も望みもしない美的瞑想(めいそう)に否応なくひきこまれて、つかのま、恍惚(こうこつ)と息を呑んだに違いない。

そうしてぼくは、そこに座って、神秘の雲につつまれた昔の世界について思いをはせながら、ギャツビーが、ディズィの家の桟橋の突端に輝く緑色の灯をはじめて見つけたときの彼の驚きを思い浮かべた。彼は、長い旅路の果てにこの青々とした芝生にたどりついたのだが、その彼の夢はあまりにも身近に見えて、これをつかみそこなうことなどありえないと思われたに違いない。しかし彼の夢は、実はすでに彼の背後になってしまったことを、彼は知らなかった。ニューヨークのかなたに茫漠とひろがるあの広大な謎の世界のどこか、共和国の原野が夜空の下に黒々と起伏しているあのあたりにこそ、彼の夢はあったのだ。(野崎孝訳

Most of the big shore places were closed now and there were hardly any lights except the shadowy, moving glow of a ferryboat across the Sound. And as the moon rose higher the inessential houses began to melt away until gradually I became aware of the old island here that flowered once for Dutch sailor'eyes ――a fresh, green breast of the new world. Its vanished trees, the tree that had made way for Gatsby's house, had once pandered in whispers to the last and greatest of all human dreams; for a transitory enchanted moment man must have held his breath in the presence of this continent, compelled into an aesthetic contemplation he neither understood nor desired, face to face for the last time in history with something commensurate to his capacity for wonder.

And as I sat there brooding on the old, unknown world, I thought of Gatsby's wonder when he first picked out the green light at the end of Daisy's dock. He had come a long way to this blue lawn and his dream must have seemed so close that he could hardly fail to grasp it. He did not know that it was already behind him, somewhere back in that vast obscurity beyond the city, where the dark fields of the republic rolled on under the night.

 

この物語の語り手であるニック・キャラウェイは、最初から最後までギャツビーのことを認めなかったが、よく見るとギャツビーという人間に寄生しているのは、成り金男のどうしようもない金メッキ質の、ひらひらした安物の飾りのようなもので取るに足りないものだったが、しかし、だんだんとギャツビーの本質を知るにおよんで、「人生の希望にたいする高感度の感受性というか、……希望を見出す非凡な才能、そのロマンティックな夢」を感知して、かつてオランダ人がこの街をつくった「緑色の灯」を灯す、まさにその男であったことをおもい知るのである。そしてフィッツジェラルドは、その「アメリカの夢」がついえゆく、まさにその一端を描いたとも読めるのである。それは、東部において挫折しながら、西部においてはまだ命脈を保ちつつせける「アメリカの夢」なのである。

――そのように読ませるフィッツジェラルドの文章力に、いまも圧倒されつづけている。