上空からインボーリッジを見る。


  ときどき会議があると、都内に出かける。

先日のことだ。

「詩ですか? 田中さんは詩人なんですね」と、事務所の窓辺に寄ってきたHくんがいう。

「詩人よ。知らなかった?」と真知子ちゃんがいっている。

「そういえば、作詞なんかもやってるとか、……」

それを聞いて、ぼくはぶるっと身震いした。「赤いマフラー」をおもい出した。いやな思い出だ。話題を切り替えた。ある作曲家からたのまれて詩を書いた。書いたのはいいけれど、文中に「赤いマフラーなびかせて」と書いたものだから、それを読んだ作曲家は、

「これ、小林旭の世界ですね」っていわれた。窓辺に飾っている真っ赤な花が手に触れた。

For a while, a short while,

this moonlit night spreads over

the cherry blossoms.……

しばらくは

花の上なる

月夜かな。芭蕉」

「なんですか?」

「つまり、……海外でもこの句は有名で、詩人のアーサー・ビナードという人が訳していますよ。芭蕉の句なんですが、いい句ですね」というと、

「ぼく、ぜんぜん知りませんね」と、Hくんが答える。

「そうですか」

30階から外をながめると、レインボーブリッジが光っているのが見える。

すぐ真下に見える。真下にモノレールが見え、電車が走っている。

「そこから歩いていけますよ。2階建てのブリッジですから、1階に舗道があって、無料で歩いて向こう岸に渡れますよ。渡ったところがフジテレビの前です」

「お台場にはよくきましたね。家電の販売イベントなどが行なわれまして、そのショールームの発表会は、そこでやっていましたね」

真知子ちゃんの淹れてくれたお茶を飲みながら、ロッキーとぼくはキッチンのほうへ行き、そこでたばこを1本吸った。会社では、たばこは一箇所で吸う習慣になっていて、たばこ専用のファンをまわしながら吸うのだ。

「じゃ、コーヒーはここに置いておきます」といって、真知子ちゃんがコーヒーを運んできた。ロッキーもコーヒーをつき合ってくれた。Hくんは、たばこは吸わないので、うろうろしている。

M部長は、デスクに向かって仕事をしている。

それから、ぼくとロッキーは、社長執務室に行き、ラ・メゾン・ブランシュの情報関連の打ち合わせを少ししてから、海外で撮ったというアルバムをながめる。

「これが、プーケツト島の彼女ですよ」とロッキーはいう。

なかなかの美人だ。スリムで、40歳ぐらいの女性に見える。エグゼクティブといっていいくらい、一見して知的な都会派、洗練された感じに見える。目が黒くて、ヘアも真っ黒。肌はロッキーとおなじぐらい黒くて、小柄な女性だ。

「また、来月に会えますね」

「そうなんですよ。幸ちゃんだけには見せておこうと思ってね、うっしししし、……」

ロッキーの嬉しそうな顔! 

「ラ・メゾン・ブランシュの、О子さんに似ていません?」というと、

「あはははっ、そうなんですよ。ちらっと見たところは、О子さんに似ているんですよ」という。――たまに顔を出す会社では、こんな話をしている。

「О子さん、元気なの?」

「ははーん、そうだとおもいますよ。さいきんは姿が見えませんが、……何か、彼女に伝言でも?」

「いえいえ、……はははははっ」

またまた窓辺に寄り、レインボウブリッジをながめる。このタワーマンションの麓にサクラが咲いている。そのそばで赤ん坊を乗せたベビーカートが見え、日傘が歩いている。音は何も聞こえてこないが、母親が何かいっているらしい。地上は平和だ。

荒木経惟のヌード作品を見て、ああ、それでか、とおもった。ロッキーがО子さんのことをよく尋ねていた理由は、そうだったのかとおもった。プーケット島の彼女と、タイプが似ているらしい。

「幸ちゃん、この話は、奥さんにも内緒にしてね。知られたくないからね」という。自分だけ執務室にこっそり呼んで、ロッキーはこれを見せたかったのだ。そこを出たのは、午後4時ごろではなかっただろうか。田町のケープタワーを出て、こんどは別の道を歩いてJR田町駅に向かった。サラリーマンたちがぞろぞろ駅のほうから出てくる。みんな自分より若い。歩きながらおもった。何か本でも持ってくればよかったと。

長時間電車に揺られているというのに、本も読めないのは退屈だ。

上野まで行くと、ぶらりと上野公園の出口に出て、文化会館のまえの坂を下りて地下鉄線のあるほうへと歩いて行った。そばに古書店があった。そこで、荒木経惟の写真集が目につき、800円で買った。すこし電車のなかで読んだ。さすがに写真のページは開ひらけなかった。それにしても、荒木経惟の写真はいい。そして、自分はカメラを持っていたのに、何も撮らなかったことに気づいた。