将功なりて骨枯る。10

可算は無限である。――

 

ラングのいうところを、ラングのことばで簡単に紹介すれば、つぎのようになります。

「ひとつの部屋に7人の男性と7人の女性がいるのを見て、ヴェイユが彼らは7組の夫婦であると予想したとしよう。私はそれに反対する理由は何もない。男性の数と女性の数は同じなのだから。しかし私があなたの仮説を支持する理由もまた何もないというわけだ」

ラングがヴェイユの説明を「愚か」と評したのは、数えあげの議論がこの例のように単純なやり方では適用できないからです。

なぜなら、「可算」は数えられる無限のことを意味しますが、そのような無限集合どうしの対をつくることは、少しも簡単ではない。――ラングが「愚かで、バカげている」といったのは、こうした点にあったようです。

その後10年間ほどのあいだに、志村の主張に有利な事実が徐々にではありますが確実に増えていった。

もしその予想が証明されれば、それは重要な数学理論になるだろうと。ヴェイユはその予想をめぐって研究をすすめたけれど、しだいに複素平面のモジュラー形式と楕円曲線との間の可能な関係からかけ離れていった。そして、ヴェイユがそのことを納得し、志村と果たした決定的な役割について言及するまでには、まる20年の歳月が流れていったのです。

いっぽうフランスでは、セールが偽りの帰属に積極的に貢献していた。セールはこの「予想」に志村五郎ではなくアンドレ・ヴェイユの名前を冠するために全力を尽くしていたわけです。セールがなぜそのような行動をとる気になったのかは誰にも分からない。1955年、セールが会議出席のために日本へやってきたときから、ずっとこの問題を密かにすすめていたらしいのです。日光へと向かう列車のなかにおいても、ヴェイユ、谷山らと同席している。谷山とヴェイユが並んで座り、谷山の向かいの席にセールが座った形になっている写真があります。

 1967年、アンドレ・ヴェイユはドイツ語で書いた論文のなかで、おもしろいことをいっています。

 「これらのもの、つまり有理数体)上に定義されたすべての曲線Cが、そのように振舞うか否かは、現時点ではいまだに定かでないように見え、興味ある読者のための練習問題としてお勧めする」

というものです。

「そのように振舞う……」というのは、モジュラーであることを意味します。つまりこのようにして志村の「予想」を語っているわけです。しかしヴェイユはここにおいても理論の創始者に帰属させてはいない。この「予想」にしても「定かでない」と述べているに過ぎないわけです。

さらにおもしろいことにヴェイユは、これを興味ある読者のための練習問題としているのです。「楕円方程式」と「モジュラー形式」の完全なDNA照合が確立され、その上で無限に証明される必要があるこの大問題を、ヴェイユは練習問題として紹介しているのです。

ヴェイユ自身にも解けない問題であって、今日このようなヴェイユの「振るまい」を眺めていくと、ひじょうに奇妙に見えます。しかも、答は「定かでない」というのだから、始末が悪いのです。

ヴェイユ曲線と呼ばれた時代。――1970年代になって、日光会議で議論された谷山の問題は、ひろく容認されるようになってきました。しかしその間、ヴェイユは自らが疑ったこの「予想」についていくつか書いていたことから、モジュラーな楕円曲線は「ヴェイユ曲線」といつしか呼ばれるようになっていきます。谷山の問題がヨーロッパにも知られるようになると、その曲線についての「予想」は「谷山=ヴェイユ予想」と呼ばれるようになり、志村の名前は完全に無視されていきます。

アンドレ・ヴェイユが「予想」に対して、反対もしなければ賛成もしないという、明快な態度を表明しなかったことと、セールがこの「予想」から志村の名前を切り離していく工作を行ったこととが重なって、多くの数学者たちによって「谷山=ヴェイユ予想」と呼ばれるようになっていきました。

1995年といえば、歴史的にみればごく最近のことですが、あるセミナーでセールはまだこの「予想」を「谷山=ヴェイユ予想」と呼び、30年もまえから自らの「予想」を信じてきたその創始者を無視していた。そんな折りにヴェイユは興味深い手紙をラングに宛てています。

 

「――谷山と志村に当然与えられるべき栄誉を私がかつて取り消そうとしたといういかなる当てこすりにも、私は憤りを感じざるを得ません。大昔に取り交わされた会話記録というものには誤解が生じやすいものです。~数学上の概念や定理や予想(?)についた名前については、私は以下のように述べてきました。

(a)ある概念に固有名詞がつけられたとき、問題の人物がその概念について何事かを成した証として受け取るべきでない。しばしばそうでないことがあるし、逆が真であることもある。ピュタゴラスは「ピュタゴラスの定理」に何の貢献もしていないし、フックスとフックス関数との関係もそうです。オーギュスト・コントがパリのオーギュスト・コント通りと無関係なのと同じです。

(b)固有名詞は、まったく正当なことに、もっと適切な名称に置き換えられる傾向があります。リレイ=コッツル数列は現在ではスペクトル数列と呼ばれています」と。

 

この手紙は1986年12月3日に、ヴェイユからラング宛てに差し出されたものです。これは何を意味しているのでしょうか。

「予想」をめぐって、たとえ他人の名前を冠していわれていても、何の意味もないのだといっているように読めます。だから世間がいうように仮に「谷山=ヴェイユ予想」とし、何ら貢献しなかったヴェイユの名前がそこにあっても、「ピュタゴラスの定理」に何ら貢献しなかったピュタゴラスの名前と同様、何事かを成した証として受け取るべきでないといっているようにも見えます。

それでいて、(b)でいっている固有名詞はもっと正当に、最も相応しい名前に置き換えられるべきなのではないかともいっているのです。この場合正当に名称を換えるとすれば当然のことながら「谷山=志村予想」とするべきです。

それを手紙の前段でヴェイユ自身認めているわけです。

換言すれば、すべては「予想」発見の最大の功績をあげた創始者に帰属すべきであると。ヴェイユが手紙のなかでいっている論点そのものに既に矛盾があることを、自分の手紙で証明しているとしか読めないのです。

ひるがえって1958年、谷山豊が31歳で自殺した経緯を、もう一度ここで検証してみたいとおもいます。自殺したのは1958年1117日()早朝のことでした。

志村は今でも図書館の本のことで谷山からもらった返書を持っている。また、志村がプリンストン大学にいってから谷山から送られてきた最後の手紙も大切に保存している。その最後の手紙は、わずか2ヶ月後に起こる出来事のことなど微塵も感じさせないものでした。今日にいたるまで、志村は谷山の自殺の原因がまったく分からないといっています。

で、志村はこのように書いています。

 「私は非常に戸惑った。戸惑うというのが一番ぴったりの言葉だろう。もちろん悲しくはあったが、とにかく、それはあまりにも突然だった。彼からの手紙を受け取ったのは九月。それが十一月には死んでしまったのだ。まったくわけが分からなかった。その後、私はいろいろな話を聞きもしたし、彼の死を受け入れようとした。何人かの人たちが言うには、谷山は数学以外のことで自分に自信を失ったということだった」

志村を不思議がらせたものは、谷山が鈴木美佐子という女性と恋に落ち、年内に挙式の予定だったことだといいます。志村はロンドン数学協会の会報に寄せた追悼文のなかで、谷山の婚約のことと、自殺にいたるまでの数週間のことを次のように書いています。

 「婚約の報せを聞いたとき、私はいささか驚いた。というのは、彼女は谷山の好みのタイプではないというおぼろげな印象があったからである。しかし私は懸念を抱いたわけではない。のちに聞いたところでは、二人は新居として、彼がそれまで住んでいたのよりは良いアパートを借りる契約をすませ、台所用品などもいっしょに買い整えて、着々と結婚の準備を進めていたそうである。二人にも、二人の友人たちにも、万事順調に進んでいるように見えた。ところがあのおそろしい破局が訪れたのだ。

一九五八年十一月十七日、月曜の朝、机の上に書き置きを残して谷山が死んでいるのをアパートの管理人が発見した。書き置きは、彼が研究するときに使っていたようなノートに三ページにわたって綴られていた。その書き出しは次のようなものだった。

《昨日まで、自殺しようという明確な意志があったわけではない。ただ、最近僕がかなり疲れて居、また神経もかなり参っていることに気付いていた人は少なくないと思う。自殺の原因については、明確なことは自分でも良く分からないが、何かある特定の事件乃至事柄の結果ではない。ただ気分的に云えることは、将来に対する自信を失ったということ。僕の自殺が、或る程度の迷惑あるいは打撃となるような人も居るかも知れない。いずれにせよ、これが一種の背信行為であることは否定できないが、今までわがままを通して来たついでに、最後のわがままとして許してほしい》

彼の書き置きは整然と続いていた。所持品の処分のしかたとか、どの本やレコードは図書館から借りたものか、あるいは友人から借りたものかなどといろいろなことが書かれてあった。さらに彼はこうも述べていた。《電蓄、レコード、キャビネットは、(もしそれが彼女にとって迷惑でなければ)M・Sに進呈したい》。そして、彼が大学で教えていた微積分学と線形代数学の講義の進みぐあいを記し、迷惑をかけることを同僚に詫びて、書き置きは終わっていた。こうして、当時もっとも輝いていた先駆的な頭脳は、自らの意志でその命を絶った。彼はその五日前に三十一歳になったばかりだった」

先にも書きましたが、谷山が死んで2週間ほどたったある日、婚約者だった鈴木美佐子があと追い自殺を遂げているのです。彼女が遺している遺書には《私たちは何があっても決して離れないと約束しました。彼が逝ってしまったのだから、私もいっしょに逝かねばなりません》と。