マルグリット・ュラスと

イサク・ィネセン。


 マルグリット・デュラス。

午後7時に事務所を閉め、ぼくは衣服を着替えて街に出た。

どこへ行くわけでもなく、草加にある2軒の本屋を覗いたり、イトーヨーカドーを覗いたりして時間を使い、けっこう街をぶらついた。知人には会わなかった。

トムズコーヒーに入り、コーヒーを飲みながら、マルグリット・デュラスの「愛人 (ラマン)」を読みはじめた。


 イサク・ディネセン「アフリカの日々」。

むかし観た映画「ラマン」の映像がじゃまをして、あの躯体隆々とした謎めいた中国人の男がちらついてきて、仕方がなかった。映画では主人公の女性よりも、中国人の愛人のほうが存在感があり過ぎた。ここでいう「愛人」というの、娘の愛人という意味である。彼女は16歳で、ある男を愛人に持った。そういう物語である。

「――18歳でわたしは年老いた」という文章が1ページ目の冒頭にある。

これは強烈な印象を投げかける。

18歳にして「年老いる」とはどういうことなのだろうか。

サイゴンという街には行ったことがない。行ったことはないけれど、「三国志」の時代から、インドシナ半島の東部に「ヴェトナム」という国があったくらい、太古のむかしからよく知られている国だ。

ソンコイ川とメコン川にはさまれた両デルタ地帯には、ヴェトナム特有の水田がひろがり、牛を曳かせて田畑を耕している。いまもそうだ。やがてフランスを相手にインドシナ戦争がはじまり、マルグリット・デュラスはそこで娘時代を過ごす。

フランス人の彼女はどうやって土地になじんでいったか、あるいは、なじめなかったか、小説「愛人(ラマン)」には克明に書かれている。この小説は1984年に発表され、侃々諤々、毀誉褒貶の入り交ざった話題を提供した。むろんベストセラーになった。あの時代は、フランスでも性のタブーがあった。年若い小娘が、異国の男を愛人にし、来る日も、来る日も、気が遠くなるほどセックスをしまくって生きていくというこの物語は、平和な時代になると、理解されなくなったのだろう。インドシナ戦争を知らない読者は、また、彼女のおかれた極限状態を理解しない。理解できないのだ。性と死は、紙一重。……生きることは、セックスすること。彼女は16歳でそれを覚えた。いたいけな少女を変えていったものはいったい何だったのだろう。

小説の骨格は、優に時代を超えている。すばらしい作品だ。1950年に、「太平洋の防波堤」という作品がゴンクール賞にノミネートされたが、ポール・コランの「野蛮な遊び」に賞をさらわれてしまったという、彼女には苦い経験があった。そのとき、彼女は、

「ゴンクール賞というのは男共メックの賞なのだ」という捨てセリフを吐いている。あれから34年たって、マルグリット・デュラスは、「愛人(ラマン)」でゴンクール賞を受賞した。そのとき彼女は70歳だった。

「ゴンクール賞の審査委員たちが34年前のあやまちをつぐなったのだ」と語り、それが新聞各紙に載ったのを知ると、ぼくは、彼女の怨恨(ルサンチマン)の持続力のすさまじさを感じないではいられない。

いま、あれから38年たっているのだ。作者70歳のときに、ゴンクール(Goncourt)賞を受賞しているのである。おどろくべきことだ。これは、わが国でいえば、新進作家に与えられる芥川賞に匹敵する賞で、いまさら、という気がないわけではないが、アカデミー・ゴンクールは彼女に賞を与えた。この小説は、彼女の代表作といっていいだろう。――ゴンクールというのは、フランスの作家ゴンクール兄弟にちなんで1903年に設けられた賞で、フランス最大の文学賞である。

――そんなことを考えた。

きのうの夜、図書館で借りてきた本、――イサク・ディネセンという女性作家が書いた「アフリカの日々」(池澤夏樹個人編集・世界文学全集・全24巻、河出書房、2008年)を読みはじめた。描写がおもしろい。彼女は1885年にデンマークに生まれ、1914年からアフリカに渡り、広大な農園を17年間にわたって経営していた人で、ほとんど日記のような書き方をしているが、描写がこまかく、すばらしい作品である。

この本は、池澤夏樹さんが個人編集した全集本のなかの1冊にまとめられ、あとでよーく見たら、全集の最後の巻にギュンター・グラス(Günter Grass 1927~)の「ブリキの太鼓」があった。代表作「ブリキの太鼓」は、1999年にノーベル文学賞を受賞。これは池内紀氏の新訳と書いてある。

ながい間、なんとなく探していた作品だった。

ぼくはドイツ語が読めないので、翻訳本を探していた。これは映画にもなった。淀川長治さんが高く評しておられた。ギュンター・グラスは、奇抜な物語構成で、長編作品が多い。この「ブリキの太鼓」では、鋭い社会批判を行なっている。その他「ひらめき」という作品もあった。おもしろかった。

石橋弘三さんがひょっこりあらわれた。彼はスーツを着ている。

「これ、差し上げます」という。

フランス語で歌うシャンソン特集のCDだった。「パリ祭」とか、「パリの屋根の下で」などがある。なつかしい歌だ。廣角千恵子ママにも聴いてもらってもいい。

「アフリカの日々」について少し。――これは記録ではない。紀行、体験記、ルポルタージュ、自叙伝は、どれも当てはまらないようだ。アフリカを離れてから年を経るにしたがい、アフリカの像イメージは著者の内部で結晶し、自分にとっての真実の相をあきらかにしていく。その精髄を取り出して作品にしたものがこの本作だ。

細部はみごとに省略されている。美しい高地と、そこに住む人びとに魅せられ、コーヒー栽培には適さない土地で、農園経営をつづけようとする。資金繰りに追われ、銀行と借金の交渉をしたことも、出資者の非難にさらされたことも、ここには書かれていない。この作品は、何を書いたかとおなじぐらい、何を書かなかったかによって成り立っている。

この作家は、従来、日本で翻訳されたとき、名前を「アイザック・ディネーセン」と訳されていた。この本では、もとの発音に近い「イサク・ディネセン(Isak Dinesen 1885-1962)」と書かれている。第2次世界大戦中にデンマークで出版した「復讐には天使の優しさを」では、フランス人男性ピエール・アンドレゼルの作品とし、それを後に、秘書になるクララ・スヴェンセンがデンマーク語に訳したことにしている。ナチス・ドイツ占領軍ににらまれないための偽装らしいが、著者自身、こういう仮面劇めいたやり方をおもしろがっていた面もあったという。

死に近づいた人たちはここで、生の坂を登りつめ、過酷な条件を生き抜いてきた者として、人間の真実の在りようを告げる。皮膚にじかに色を塗るアフリカの身体彩色の伝統は、祖先を演じる老人たちの骨格をあらわに描いて示す特別な塗り方だ。それによって、生の底流をなす死の実相、さらにそれにつながる永遠の相を示す。老いや死をおそれ、できるかぎり遠ざかろうとするヨーロッパ文化と、老いも死も、やがて人間のいたる当然の終わりとして受け入れ、老いに達したこと自体に畏敬のおもいを持つ文化と、どちらにより深い智恵があるか、作者はこの問題をしょうじきに差し出している。――つぎのような文章が光る。引用する。

 

ヨーロッパの舞踏会では、年老いた美女たちが若く見せようとして、必死になっているのを見かけるが、この老人たちはそんなことはしない。踊り手自身にとっても、また見物人にとっても、この踊りの意義と重さは踊り手の老齢そのものにあるのだ。老人たちは私がこれまで見たこともない、なんともふしぎな模様を体に描いていた。

イサク・ディネセン「アフリカの日々」より

 

40代なかばを越えて、生きてきた基盤をすべて失い、カレン(主人公)は失敗者、破産者としてデンマークに帰る。

彼女の人間としての存在証明は、アフリカでの体験を自分のなかで組み立てなおし、そこに意味を見つけることなしには果されない。自己正当化ではなく、自分をおそった過酷な運命を突き放してながめ、自分にたいして笑うゆとりを手に入れるきびしいレッスンである。こうしてイサク(笑い人)は、ディネセンとなった。

 

私に呼びかけたものは、私の祈りを黙殺することをえらんだのだ。大いなる諸力は私に笑いかけ、その声は丘陵にこだました。トランペットの音のなかで、雄鶏やカメレオンのなかで、その声はたかだかと哄笑(こうしょう)した。

「アフリカの日々」第5部第4章「家財処分」395ページより

 

デニスの死後、1週間たったとき、これほどまでに連続して自分をおそう不運には、何か一貫性があるのだろうかと思い、その徴しるしを求めて出かける。

そこで、相対するニワトリとカメレオンを見つける。小さな体でニワトリにいどむカメレオンは、敵に舌を食いちぎられる。ニワトリを追い払った著者は、カメレオンを石でたたきつぶして、とどめをさしてやる。――この描写が圧巻だ。Karen Blixen, Out of Africa, Putnam, London, First Published 1937, Reprinted for the fifth times, 1960年。こういう作家がいたことをはじめて知った。